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 月が満ちる。
 あの夜から数えて九百九十八度目の月が。
 凌壽に残された時間は少ない。次の望月の晩までに、何としてでも晶霞の天珠を狩らねばならないのだ。その夜を過ぎれば機会は二度と訪れないだろう。
 ――そう、だからそれまでに、晶霞より弱いあの天狐を始末して、その心臓をこの身に取りこまねばならない。
 凌壽が幾度も奇襲をかけても、あの天狐は必ず生き延びてきた。何度も死にかけているはずなのに、すぐに傷を治して姿を消し、時を置いて気配を感じた凌壽がまた襲いかかる。……何十年と繰り返してきた堂々巡り。
 だがそれもこれで終わりだ。あの幼い天狐はもう隠れることはできない。
「遊びは終わりだ……」
 気配を隠すための膜の中でうずくまりながら、凌壽は冥い目で呟いた。
 

◆◆◆


 ――光の中で、誰かが自分を抱えて笑っていた。

「む……?」
 その顔をよく見ようと意識を凝らし、晴明は瞼を開けてしまった。途端飛びこんでくるのは、見慣れた天井。――自分の部屋だ。
 夢か、と胸の裡で呟き、晴明は身を起こした。夢で見た映像はすぐに薄れていってしまう。光の中で微笑んでいた誰かが女なのか男なのかすらもわからなかった。ただ、今見た夢の中の光は、昔よく見た夢の光に似ていた。……そんな気がする。
 目覚めた晴明に気がつき、傍らに隠形していた天后が顕現する。袿を引き寄せると晴明の肩にかけ、脇息を寄せた。その視線があまりにも心配そうな色を含んでいたので、晴明は苦笑いする。どうにも、天后には気苦労をかけてしまうらしい。
「お風邪を召されませぬよう……」
「なあに、そう心配せずとも大丈夫じゃて」
「大丈夫でないから口を出すんだ。そんなこともわからないのか」
 冴え冴えとした声音が浴びせられ、晴明はおやおやと肩をすくめた。妻戸の脇に青龍が座っている。どうやら今日の監視役はこの二人らしい。
 一月ほど前土御門殿で倒れてから、晴明に対する十二神将達の態度は格段に厳しいものになった。文台に向かえば寝ろと言われ、新鮮な空気を吸いに外に出てみれば、連れ戻され無理矢理寝かされそうになる。まるで寝床に縛りつけようかとする勢いだった。確かに通常に比べれば体調が悪いのは事実だが、そこまでするほど身体が悪いというわけではないので、少々神将達の愛が重荷に感じられる。
 しかし愛されているということは確かなので、そう怒れもしないのが辛いところだ。
 晴明は唸りながら茵の側に暇つぶし用にと積んでおいた書物に手を伸ばした。巻物は読んだ後巻きなおすのが面倒くさいので、置かれているのは和綴じの物ばかりである。だが手慰みに開いたそれらも、何故か晴明の頭の中にはちっとも入ってはいかなかった。――何度も読み返して内容を全て覚えているからか、と自問自答してみても、どうもしっくりこない。
 晴明は読み始めていくらもしないうちにそれを閉じると、眉間に皺を寄せながら瞼を閉じた。
 先程から脳裏の奥で明滅するものがある。
 どうにも厭な予感がつきまとって離れない。一月前中宮の平癒を祈祷しに訪れた土御門殿、そこで感じた気配。そして「一月」という単語が、晴明の思考を席巻していく。
 できるならば離魂術を使って土御門殿に飛んでいきたいが、もうこの手段は許されない。彼は昨年から離魂術を使いすぎている。立て続けに強力な妖が襲ってきたせいで、仕方なく魂を切り離すこの術を使ってきたが、身体にかかる負担がとうとう限界を超えようとしている。土御門で倒れたのは、決してあの時感じた気配のせいだけではない。
 だから十二神将達は口を酸っぱくして晴明に「あの術を使うな」と言い含めるのだ。
 やれやれとため息をつき、晴明は口を開いた。
「天后、すまんが紅蓮と勾陳を呼んできてくれ」
「……騰蛇もですか?」
 露骨に嫌そうな顔をする天后に、青龍が無言で隠形する。すぐに消え去った気配に、わかりやすい奴じゃと晴明は嘆息した。天后も渋い顔をしていたが、他ならぬ主の命とあっては逆らえない。その姿が揺らめいたかと思うと見えなくなり、ついで気配も消えた。それからしばらくして神気が二つ、室内に顕現する。
「何の用だ、晴明」
「帰京して早々すまんな、紅蓮、勾陳」
「なに、そう疲れているわけでもないさ。雑魚どもを一匹残らず根絶やしにするのは少々骨を折ったが」
 一月半前、都の外に現れた妖異を離魂術を使った晴明が退治に行った。親玉を調伏するのにそう手間がかかったわけではなかったのだが、その妖に付き従っていた手下の数が異様に多く、晴明は十二神将の数人を置いたまま都に戻っていたのだ。そして残していた神将達が帰ってきたのがつい数日前のこと。その中には紅蓮と勾陳も含まれており、晴明としてはもう少し休ませてやりたかったのだが――
「命令じゃ。今すぐ土御門殿に赴き異変を探ってこい」
「異変?」
 紅蓮が軽く眉をひそめる。勾陳も考え深げな表情になり、晴明に問いかけた。
「……占には何も出ていなかったのではなかったのか?」
「占には何も示されていない。だがどうも良くない予感がする」
「陰陽師の勘か」
「そうだ」
 続いた紅蓮の問いを肯定すると、紅蓮は踵を返し妻戸の側に立った。勾陳もその後に続く。紅蓮は妻戸を開けながらちらりと晴明に視線をやった。
「晴明」
「む?」
 低い声がごく静かに、晴明の耳を打った。
「俺達に何かあっても、離魂術だけは使うなよ」
 紅蓮の姿がかき消える。肩越しに振り返った勾陳も肩をすくめ、無言で消えた。
 ひとり残された晴明は脇息に凭れると、長く息を吐いた。
「まったく……」
「いままでさんざん我らの言うことを聞いてこなかったつけだ。諦めろ」
 空に漂った晴明の独り言を返したのは、戸口に顕現した玄武だった。開け放したままだった妻戸を閉め、玄武はじろりと晴明を睨む。その瞳は同じことを言いたくてたまらないのだと、雄弁に物語っていた。
 じじっと、油を吸って燃える燈台の音が響く。もう夜も深い。紅蓮達が戻ってくるまで晴明は待つ気だったのだが――どうやら、玄武はそれを許してくれないらしい。
「晴明、とりあえずは寝ろ。何かあれば我が起こす」
「やれやれ、子供ではないというに……」
「晴明」
 玄武の重々しい口調に棘が混じる。晴明は大人しく横になって袿をかぶった。
 まだ天命ではない。だから大丈夫だと何度も言っているのに、神将達はそれをわかってくれない。
 心配してくれるのは非常に嬉しいしありがたいのだが、こんな時、心配されすぎるというのは逆に困ったものだ。
 まどろみ始めた意識の中で、晴明はふと、埒もないことを考えた。
(……そういえば)

 あの夢を、もう一度見ることは叶うだろうか。

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