全身に刻まれた傷はほんの少し動くだけで激しく痛む。だが勾陳は無理矢理痛みをねじ伏せると、乱入してきた妖に筆架叉の切っ先を向けた。
「何者だ」
「通りすがりの妖」
こともなく告げると、妖は突きつけられた鋭い刃先を恐れることなく足を踏みだした。勾陳の目元が険しくなり、並んで立っている紅蓮もいつでも焔を出せるようにと神経を尖らせる。
刃の先端に白い包帯の巻かれた細首が触れる。勾陳が少しばかり力を加えればその喉笛はあっさりと掻き切れるだろう。けれど妖はそんな不安など微塵も感じていないのか、筆架叉を持っている彼女の手首にそっと両手を添えた。黒い目が伏せられた下で、勾陳がぷつりと包帯を突き破る。
「勾、……っ」
案じて勾陳の名を呼んだ紅蓮は、すぐに息を呑んだ。
ふわりと青白い燐光が妖の身を包む。穏やかな通力の波動。瞬きを数回するかしないかのうちに光はふっと消え、珍しく勾陳は驚いた様子で自分の身体を見下ろしていた。その全身に刻まれていた切り傷は跡形もない。皮膚の表面に残された血液だけが、傷があったという事実を教えていた。
妖が勾陳から手を離す。はっと我に返った勾陳は筆架叉を引いた。まだ妖に対する眼差しは不審げなものだが、彼女は筆架叉を腰帯に差し戻した。何度か手のひらを握ったり開いたりしていたが、やがて顔を上げ紅蓮に頷く。問題はないようだ。
ほっと胸を撫で下ろし、紅蓮は妖を見下ろした。小さな頭が紅蓮の腰あたりで小首を傾げ、じっと見上げてくる。その手はまっすぐに紅蓮へと伸ばされていて、彼は少々躊躇したが、結局その手を取った。
その途端、あたたかい何かが触れた手から流れこんでくる。
妖の指先から紅蓮の体内へと侵入してくる流れは、しかし嫌悪感を催すものではなかった。血潮と同じ温度が腕を伝わり、心臓に入り、そして全身に行き渡っていく。液体のような、それでいて不思議に揺らめく感触が優しく身体の裡を撫でていく。
流れが染み渡ったと紅蓮が感じたと同時に、妖の身を取りまいていた燐光が消えた。気づけば、紅蓮も勾陳と同じように傷が無くなっている。
――これは晴明の使う回復の術とは根源的に違う。もっと直接的な、原始的な何かだ。
顔をしかめて見下ろされていることに気づいたのか、妖はきょとんと見返してきた。そのあたたかく細い指はいまだ紅蓮の手を握っている。
「……まだどこか痛む?」
片手が離れ紅蓮の頬へと伸びる。だが紅蓮はぴっと手を振り払うと顔を背けた。妖は何か間違えたか、という幼げな顔をしていた。けれども、すぐにその表情は闘いの中で見せた硬いものへと変貌する。
「さっきの僧が何者か知ってる?」
尋ねられた勾陳は腕を組み、妖に答えた。
「教える義理が私達にあると思うか」
「危ないところを助けてあげたし。怪我も治してあげたんだから、それくらいよくないかな」
「ふむ」
涼しい目線で妖を眺める勾陳は警戒を解いてはいない。相手の真意がわからない以上、あまり関わらないほうがいいという判断だろう。紅蓮もその判断には賛成だった。
しかし彼女はこれ以上喋ることはないだろうという紅蓮の予想に反し、素直に口を開いた。
「あの僧とは初対面だ。我々を妨害しに来たらしいが、それ以上のことはわからない」
「妨害?」
「私達は主の命を受けている」
「おい勾、」
制止の呼びかけに彼女は紅蓮をちらりと流し見た。が、それだけで何も答えない。苛立つ紅蓮とは反対に、勾陳はどこまでも落ちついていた。
妖は何事か考えるように顔を伏せていたが、ほどなくして足を踏みだした。紅蓮と勾陳の間をするりとすり抜ける。通り過ぎる刹那に、彼らの耳に小さく「ありがとう」という囁きが届いた。二歩三歩と離れたところで、その姿は闇に溶けこむようにして消えていく。つむじ風が子供のいた場所にぐるぐると渦巻き、空気をかき混ぜた。
気配は欠片も残っていない。普通なら霊力の残滓くらいは残るはずなのだが、あの妖は完璧に霊力を抑える術を身につけている。
大路の真ん中に、神将二人が取り残される。紅蓮は勾陳をきっと睨むと口を開いた。けれど彼が声を出す前に、勾陳が素早く言い放つ。
「これでも私は人を見る目はあるほうなんだ」
「……なんだと?」
「だからあの子どもに喋った。そう心配しなくても大丈夫だろう」
それでもまだ紅蓮は不満げだ。勾陳は彼を見上げると、気分を害したように眼差しをきつくした。
「信じられないならそれでもいいが。……言っておくが、お前は私が背中を預けると決めた男だぞ」
ぐっと紅蓮が押し黙る。彼は視線を勾陳から逸らすと、眉間に皺を寄せて土御門殿の方角に歩き出した。
「行くぞ。大分時間を喰った」