徒人には見えない不可視の影がふたつ、夜の都を疾走する。
土御門大路を東に抜けながら、紅蓮と勾陳は膜のような何かを突き抜けたのを感じ、道の交差する場所で足を止めた。
「騰蛇、」
「わかっている」
紅蓮は油断なく辺りを見回しながら右手をかざした。ぼうと焔がその腕に絡む。勾陳は腰帯から筆架叉を二振りとも抜き放つと、口の中で呟いた。
「――晴明の予感どおりか」
二人は結界に取りこまれたようだった。いくら気を凝らしてみても、創生された境界から外のことが把握できない。異様な空気の篭った球状の結界は、神気で探る限りかなりの強度を有しているようで、紅蓮と勾陳の力でも、内側から破壊するには骨が折れそうだった。
まるで待ち伏せるかのような襲撃。おそらく、晴明の言ったとおり何がしかが足止めに来たのだろう。
そんな中、張り詰めていた二人の緊張の糸を破ったのは、しゃらんと響く錫杖の音だった。身構える二人の前に、しゃんしゃんと小環を鳴らしながら、ひとつの影が小路の角から現れる。
姿を現したのは、墨染めの古びた僧衣を着た壮年の男だった。零れる法力の欠片がぴりぴりと二人の肌を刺す。相当強い法力を持っているらしい。網代笠の下から覗く顔は三十路半ほどに見えた。
「人間か……? 何者だ」
「安倍晴明に従う十二神将だな」
紅蓮の誰何の声に答え、僧は被っていた網代笠を外し放った。
「俺の邪魔はさせん。……ここで死んでもらう」
勾陳は隣で焔を掲げたまま動かない紅蓮を見上げた。金冠を焔で煌めかせる紅蓮は険しい顔のままで微動だにしない。――理のことを考えているのだろう。十二神将は人を傷つけてはならないと定められた、理のことを。
怪僧に視線を向け直し、勾陳は小声で紅蓮を呼んだ。
「騰蛇」
「なんだ」
「あの僧の相手は私がやる。お前はなんとかしてこの結界を打ち破れ」
わざわざ結界など張って襲うということは、なるべく他の人間を巻きこみたくないという考えなのだろう。ならば結界さえ破ってしまえば、この場を逃れることはできる。
「……言っておくが、一度理を犯した自分が相手をするなどと言い出すなよ」
何かを言いかけ口を開いた紅蓮に、勾陳は先に釘を刺した。図星だったのだろう、紅蓮は口をつぐむと僧を睨み、不機嫌そうに焔をまとった腕を素早く一閃した。大きく焔が広がり、生まれでた紅く燃え盛る蛇が二匹、大きくあぎとを開いて結界壁へと突進する。炎蛇が放たれた瞬間、勾陳もまた筆架叉を構え疾風の如く僧に躍りかかった。だが僧はにやりと哂い、錫杖でとんと地を突く。
「させぬぞ!」
しゃんしゃんと響く、小環の作る音の輪。その音色は奇妙に重く、鼓膜を刺すような痛みをもたらす。
紅蓮の炎蛇が結界にぶつからんとしたその時、地面から湧き出した玄い妖がその間に割って入った。轟音が響き、火の粉が舞う。蛇は妖と相殺され、結界には傷ひとつつけられず、紅蓮は舌打ちして怪僧を見やった。その手に握られた錫杖が音をたてるたびに妖がむくむくと現れ、僧を守護するかのように取り囲んでいる。向かっていったはずの勾陳は、手にした筆架叉で幻妖を貫き、切り払い、神気で薙ぎ払っているが、分が悪い。幻妖は倒しても倒しても後ろから波のように打ち寄せてくるからだ。
そうこうしているうちに、幻妖が相対するのも勾陳だけではなくなった。紅蓮の足元からも玄い妖が這いだし、牙を剥きだして襲いかかってくる。紅蓮は目を細めると、両手に真紅の焔を生み出し地面に叩きつけた。
「小賢しい!」
叫びとともに、ぶわりと広がった焔が無数の幻妖を呑みこむ。怪僧は焔に煽られたが寸前で障壁を築き、勾陳も大きく跳びすさった。
紅蓮の側に着地した勾陳は、非難するように紅蓮を呼んだ。
「騰蛇!」
「へまはしない。それに、」
吐き捨て、紅蓮は顎をしゃくってみせた。その先では燃え尽きて灰と化した仲間の骸を踏み砕き、新たな幻妖が地中から無数に這いだしてくる。怪僧はその後ろで冥い眼光を光らせ、紅蓮と勾陳を嘲笑っていた。
その身の内からは衰えない強大な法力が感じられる。これだけの数の幻妖を生み出し操っているというのに、僧に疲労の色は見受けられない。
勾陳は筆架叉を一振りし、こびりついた幻妖の体液を払うと剣呑に呟いた。
「きりがないな。どうする」
「幻妖さえいなければどうということはない。結界を破って終わりだ。錫杖を潰すぞ」
「わかった」
だが、怪僧は錫杖を翳し凶将二人を睥睨した。
「小手調べはこの程度にしておくか」
「なに……?」
しゃんと音を立てて錫杖が地面を叩き、音波が耳をつんざく。咄嗟に勾陳は僧に駆け寄ろうとして――地中から伸びた玄い蔦に足をとられ、つんのめった。
「これは……っ」
驚く間もなく、蔦はあっという間に伸びて勾陳の全身を絡めとる。そればかりでなく、僧が再度地を突くと重圧がみしりと音をたててのしかかった。体内で骨と内臓がきしむのを感じながら、勾陳は歯を食いしばった。
蔦の表面には鋭い棘が備わり皮膚を刺す。裂かれた場所から血がぼたぼたと流れ落ちていく。呻いた勾陳が横目で見やると、紅蓮もまた蔦に全身を拘束され、のしかかる圧力に耐えていた。両者ともいたるところに切り傷を作っている。勾陳が片膝をがくりとつき、紅蓮は意思の力だけで耐えながら息を切らして怪僧を睨んだ。
「貴様……っ」
「神封じの術、それなりに効くようだな。――だがお前には少々心もとないようだ」
己に絡まる蔦にじわじわと神気を染みこませているのを見透かされ、紅蓮は喉の奥で唸った。怪僧は蔦から逃れようと足掻いている神将達を見下すと、懐に手を差しいれ何かを取りだした。その手に握られている黒い糸の束を目にした瞬間、本能的に寒気が走る。紅蓮と勾陳はすぐに悟った。怪僧の握る黒い糸――凄まじいほどの妖気を発している。ただの妖気とはわけが違う。
怪僧は数本糸を引きだすと嘲笑した。くつくつと哂いながら手を払うと糸が舞い、宙を滑るように流れる。紅蓮達にするすると近づいたかと思うと、突然糸は長く転じて彼らを縛りあげた。糸が触れたところからぞわりと肌が粟立つ。かと思えば、次の瞬間神気が急速に吸いとられ、紅蓮達は苦鳴をあげた。
視界が暗くなり眩暈がする。勾陳は耳鳴りを感じながら視界を回復させようと頭を振った。だが棘がぎしぎしと喉を刺して、彼女は喉の奥で血の臭いを嗅いだ。
「く…そっ……」
紅蓮もまた神気を奪い取られ、それでも闘志を失わない金の瞳で怪僧を睨んだ。
こんなところで死ぬわけにはいかない。この状況をどうにかしなければ、晴明が離魂術を使ってやってくるだろう。それだけは避けなければならないのだ。
僧の周りの幻妖が牙を剥いて二人を取り囲む。弱ったところを確実に仕留めるつもりなのだと察し、紅蓮は闘気を燃え上がらせた。
「なめるな……!」
「駄目だ、騰蛇!」
怪僧を直接攻撃する意思を読みとったのだろう、勾陳が掠れた声で叫ぶ。紅蓮はちらりと彼女に視線をやったが、すぐに怪僧へと戻した。勾陳は内心で歯噛みする。――止められない。
怪僧は十二神将最強の凶将騰蛇の通力を感じながらも平然として、紅蓮に錫杖を向けた。
「――行け!」
号令に忠実に従って、幻妖の群れが二人に襲いかかる。対する紅蓮も通力を爆発させようとして――
突如炸裂した光が、全員の目を灼いた。
「ぐぅっ……!?」
呻いた怪僧が後退る。紅蓮と勾陳も咄嗟に目を瞑ったが、瞼の裏で残像がちらついてしばらく使い物になりそうにない。
何が起こったのかはわからないが、この隙にぎちぎちと締めつける蔦と糸を断ち切ろうと身を捩った瞬間、拘束が解かれて勾陳は地面の上に座りこんだ。咳きこみながらもすぐに立ちあがり、よく見えない視界を紅蓮の方に向ければ、彼もまた同じように全身に裂傷を負いながらも立ち上がるところだった。
何度も目をしばたたきながら足元を見ると、白い何かが見えた。――蔦の灰。ぼろぼろに崩れてあの強靭さは見る影もない。軽い混乱に襲われながら二人が前方に視線をやると、怪僧ではない何者かが、白い焔を纏って立っていた。
感じるのは圧倒的なまでの通力。だがその波動は神のものではない。
妖だ。
その小柄な妖は、長い黒髪を揺らして左右に両手を伸ばした。その足下からぶわりと広がった白い焔が結界内に充満し、満ちていた幻妖達が音もなく焼かれて崩れていく。
やっと視界が回復してきた紅蓮と勾陳を、その妖は不意に振り返った。じっと見つめてくる黒曜の瞳に邪気は見当たらず、ただ白い焔の輝きだけが映っている。勾陳や玄武の衣装に似た黒の衣の裾が翻り、その子どもの姿をした妖はふっと二人から視線を外すと、険しい表情で片膝をついている怪僧を見据えた。
幻妖の灰が舞い散る中、怪僧が見えない鎖にその身を囚われていることに気づき、紅蓮は戦慄する。
こうも簡単に、あの僧が拘束されてしまうとは。
人間であれば十三・四といったところだろうか。小さな身体に秘められた霊力は、あの僧の法力を軽々と超えている。紅蓮の通力すら超えているかもしれない。これだけの力を有しているというのは、ただの妖ではありえない。
怪僧は歯軋りしながら、目の前の乱入してきた妖を睨んでいる。妖は結界内全ての幻妖を灰に帰し燃やし尽くすと、口を開いた。
「その髪、どこで手に入れた」
「どこで、だと……?」
「凌壽のものだな。人間には過ぎた力だ。……燃やさせてもらう」
すっと、篭手を嵌めた腕が怪僧の胸元を指し示す。伸ばされた指の先で白い焔が小さく灯った。それを受けて、僧の目がぎらりと光る。
「そういうわけにはいかん。――癪だが、この力は有用だ」
低く言い放つやいなや、怪僧を拘束していた霊気の鎖がばちりと音を立てて弾けた。僅かに妖が目を見開く。その妖を嘲り、怪僧は糸を――黒髪を一本引き抜くと、眼前の乱入者に投げ放った。髪から黒い妖気が立ちのぼって僧を覆い隠し、渦を巻いて襲いかかる。
しかし細い肢体を包むように燃え上がった白炎が妖気を阻み、逆に妖気を浄化していく。光の粒をまき散らしながら広がった焔は黒髪を灰塵へと化した。
黒い妖気が消え失せる。と、すでに怪僧の姿はどこにもなく、いつの間にか結界も解かれている。
妖が小さく息をついた。目の前で塵が風に吹かれなくなっていく。焔を収めると、彼は紅蓮と勾陳に視線を向けた。
怪僧と対峙していた時の硬質な光は消え失せ、どこか戸惑ったような色が瞳に浮かんでいる。
「ええと……」
怪訝な顔で見やる紅蓮と勾陳に、少し口ごもってから彼は手を差し伸べた。
「怪我みせて」