この国の日差しは、大陸よりも優しい。
翳していた人差し指に、白い蝶が一匹、ひらひらととまる。驚かせないようにそっと指を下ろし、彼は抱いていた赤ん坊に蝶を見せた。
「セイ、ほら、蝶々だよ。可愛いね」
赤ん坊は黒い瞳をくりくりと輝かせた。好奇心そのままに、包まれている袿の中から手を伸ばす。慌てて彼が蝶を放すと、すぐに眉を寄せて不満そうな声を上げた。
「駄目だよ、潰れちゃうから」
諭しても赤子に理解できるはずもない。じたばたと腕を振り回す赤ん坊を揺すって宥めながら、彼はため息をついた。
「あうー」
「はいはい、困ったな……」
初めての子守だから、勝手がわからない。早く戻ってこないかなあ、と半泣きになりながらあやし続けていると、背後から優しげな声がかかった。
「――尾花」
「あ」
振り返る。とても大好きな人がそこにいて、幸せそうに笑っている。
頬がひとりでに熱くなるのを感じながら、彼はその人の名を呼んだ。
「おかえりなさい、――……」
◆◆◆
そこで、目が覚めた。
そろそろと、詰めていた息を吐き出す。両手で顔を覆い、眼底に強く力を込める。何度も見た夢、何回も繰り返す結末。定められた終わり。
また名を呼べなかった。
わかっている。彼は何十年も前に死んだのだ。島国を転々としている間に流れた年月は長すぎて、死に目には会えずじまいだった。彼はただの人間で、ずっと早くに死ぬことなどわかりきっていたはずなのに。
でも、せめて、彼の最期くらいついていてやりたかった。
夢の中でくらい、名前を呼びたかった。
嗚咽を無理やり飲み込む。喉が痛み――彼はふと、認識した。
周囲に点在するいくつもの神気を。
「――――!!」
零れ出ていた涙を拭うことも忘れ、跳ね起きる。自分の置かれた状況にやっと気がついたのだ。
寝殿造りの屋敷の一室で茵に寝かされていたということに。
(外に)
逃げなきゃ、と混乱したままの脳が囁く。立ち上がろうとして――胸を強く押され、昌浩は再び茵の上に転がった。眼前で大気が揺らめき、一瞬で結像する。顕現したその姿を、押さえこまれた昌浩は呆然と見上げた。
昨夜助けてくれた神将だ。
「逃げるな」
焔とは正反対の冷たい声が、昌浩の頬を打った。
「お前からは聞かねばならないことがある」
昌浩の神経に気配が触れる。探らずともすぐに知れた。陰形した神将が傍らにいるのだ。
――これでは逃げられそうにない。
力が抜ける。こちらが諦めたのを察したのか、神将は手を放した。陰形していた気配がかき消え、遠ざかっていく。
ここは安倍の屋敷だ。よくは覚えていないが、おそらく凌壽と闘った後自分は失神してしまったのだろう。それでこの神将が連れてきてくれたのか。……来たくはなかったのに。
消えた神将は晴明を呼びに行ったのだろうか。となると尋問されるのだろう。先のことを考え、彼は気鬱になった。体力は凌壽のせいですっかり無くなっているし、この戦力に囲まれては脱出は絶望的だ。不幸中の幸いで、怪我はないが――怪我?
ざあっと血の気が引く音が聞こえた。指が震えている。
「あの、」
咄嗟に、側の神将に呼びかけていた。
「夕べ、俺……何かした?」
掠れ声に、赤い神将は盛大に眉間に皺を寄せた。数拍沈黙を挟んで、そっぽを向く。
「桂を一本枯らした」
昌浩は、ゆるゆると息を吐き出し安堵した。よかった。誰も傷つけていない。
体の調子を確かめるため探ってみると、傷はすっかり癒えていた。……いつものとおりだ。喉元の古傷もいつもどおり、慢性的な痛みを訴えている。
ただ、指先で触れた包帯の感触だけが違っていた。
瞬時に、喉が氷を飲み込んだようにひきつれた。唇はもつれ、彼は言葉を発するのに多大な労力を必要とした。
「包帯」
弱弱しい声に神将が振り返る。昌浩は天井を見つめたまま、気配だけでそれを察した。彼を直視することはできなかった。
なのに、あの美しい金の瞳が、布越しに全てを捉えているようだった。
「……代えたの?」
神将は少し黙ってから、ぶっきらぼうに返した。
「汚れている奴を寝かすわけにはいかなかった」
見られたのだ。
きつく瞼を閉じ、唇を噛む。真新しい感触に、感謝の念より羞恥が先に立った。
かけられていた袿に力の限り爪を立てる。だが、いつだって後悔をする暇を運命は与えてはくれない。
今もそうだった。接近するいくつもの気配は、彼を追い立てる猟犬だ。
ずうっと昔から、昌浩は追いかけられて生きている。そうして、それはきっとこの先も変わらない。
常闇の双眸を開き、彼は首を傾けた。
跫音はすぐそこまで迫っていた。
これから昌浩や晴明たちがどうなっていくのかが楽しみですv
これからも頑張って下さいね!!
サイト休止してずいぶん経ってから連載再開した作品ですが、これから毎週楽しんでいただければ幸いです。
一応カプ展開ありの方向性で書いているので、喜んでもらえると……いいなあ……!
コメントに気付くの遅くてごめんなさい!
それでは、ありがとうございました。