室内に踏み入ると、件の天狐は礼儀正しく茵の上に正座していた。
見張りを任せていた紅蓮はすでに立ち上がり、隅に移動している。神経を尖らせつつも明後日の方向を向いているのは、晴明の背後に控えている青龍と視線を合わせぬためだろう。それでも陰形しないのは、おそらく、ひとえに晴明の身を案じてのことだ。対する青龍も刺々しい気配を隠そうとしない。入口に控えた白虎は呆れているようだった。晴明もまったく同感である。こんな時にまで仲の悪さを露呈せずともいいだろうに、この二人は本当に懲りないのだ。
陰形している勾陣はわからないが、青龍にくっつくようにして付いてきた太裳だけは、一人場の空気を読まずにのんびりと微笑んでいる。少年の姿をした妖は、神将たちを見渡してから、少し戸惑ったように晴明を見上げた。その仕草は外見通り幼く、ともすれば、奇異なる力を持つ異形にはとても思えないものだった。
子どもの正面に太裳が円座を差し出す。それに腰を下ろすと、晴明は深く頭を下げた。
「まずは、謹んで御礼申し上げまする」
きゅ、と妖孤は唇を引き結んだ。
「昨夜は我が式神の窮地を救ってくれたとのこと。また中宮様の呪詛をお解きになられたとの由、本来ならば私が処理いたしまするところをお手数掛けさせてしまったようで、誠に申し訳ありませぬ。さて、」
そこで晴明は顔を上げた。強い意志を秘めた瞳が、辺りに満ちた全ての霊力を跳ね返すように真っ直ぐ見返してくる。
「凌壽とは何者なのか、お尋ねしてもよろしいかな」
沈黙。天狐は何も答えない。晴明は畳みかけた。
「我が式騰蛇と勾陣が僧の妨害に遭った時、貴方は僧の持っていた髪を指して“凌壽のもの”と断じた。僧はその凌壽と繋がっている。その上、凌壽は貴方の命を奪うため私を狙った。――私はすでに、貴方がたの闘争に巻きこまれている。説明を求めてもやぶさかではありますまい」
天狐が目を伏せ、細い指で衣の裾を握りしめた。
揺れている。
晴明が勾陣から得た情報は以下の通りだった。僧は中宮章子を狙っていること。僧は天狐凌壽から力を得ていること。天狐凌壽が昌浩をおびき出すため、晴明を邪魔に思う僧に手を貸したであろうこと。昌浩は争いに晴明を巻きこみたくないと考えていること。だが、これだけでは情報が少なすぎる。身を守り、中宮の安全を確保するためには、より正確で詳しい情報が必要だ。
天狐は霊格の高い強力な妖だが、幸いこの子どもは弱っている。十二神将全員でかかれば逃げおおせることはかなわないだろう。
やがて天狐は疲れを滲ませた溜息をついた。黒瞳にちらりとよぎったのは、かすかな苦渋と戸惑い。けれど現れたのは刹那の時に過ぎず、子どもは再び、全てを飲みこむ闇色の双眸を晴明へと戻した。
「……知っていることを話してもいい。ただ、条件がある」
「条件ですか」
「そう」
体を硬くする晴明と十二神将たちに、天狐は思いがけない一言を発した。
「俺を貴方の式にして頂きたい」
「――!」
思わず絶句する一同を見渡し、天狐は静かに続けた。
「それができないのなら、力ずくでもここを出て行きます。もちろん俺もただでは済まないけれど、幾人か屠るくらいはできる。――どうですか。貴方がたにとっては悪い条件ではないはずですが」
感情を抑えた瞳からは何も読み取ることはできない。動揺から駆け足になる心臓をなだめながら、晴明は天狐の意図を探った。一見こちらばかりが優位な条件に見えるが、おそらくそうではないのだろう。彼には別の目的があり、それを優先した結果がこれなのだ。神に匹敵する力を有する妖が、人の式にくだってまで成し遂げたい目的。それは一体何なのか。今問いつめても、天狐は答えないだろう。しかし、一旦式にくだしてしまえば、いくらでも情報は引き出せるのだ。
考えこむ晴明を神将たちが窺う。紅蓮は睨むように、勾陣は無表情に、青龍は苛ただしげに、太裳は眉宇をひそめて。
編まれる緊張の糸を引き千切ったのは、やはり、十二神将の主だった。
「いいでしょう。その条件、お受けします」
言い終わると同時に、天狐が床に手をつき、深々と頭を垂れた。晴明がその肩に手を置き、式にくだすための呪を唱える。長い呪が終わり、天狐が顔を上げた時、その顔には静謐な微笑が湛えられていた。
「凌壽は一族を滅ぼした裏切り者だ」
たんたんと語られる顛末には、一片の感情も混じっていなかった。
「百年近く前、あいつは九尾という大妖の軍門にくだった。俺たち天狐の一族は大半が死んで、何人かがこの国に逃れてきたんだ。けど凌壽は九尾の命で、生き残った者たちも狩り尽くそうとした」
そこで彼は微かに溜息をついた。
「結局今生き残っているのは、俺ともう一人、晶霞という名の天狐の二人きりだ」
「それで、何故晴明が巻きこまれる」
不機嫌に青龍が口を挟んだ。射殺しそうな眼光を子どもに突き刺している。子ども――昌浩はそっぽを向いて、拗ねたような声を出した。
「天狐は眷族の危機を見捨てることができない。この地に血を引く人間がいることはわかってたから、凌壽が目をつけて餌にしないよう、俺は都に注意が行かないようにしてた。……まあ、ついに見つかったわけだけど」
一か月前土御門殿で晴明は倒れた。あの時感じた視線は、おそらく凌壽のものだったのだろう。晴明が発見されたことを感じ取った昌浩は、思惑を承知で駆けつけてきたのだ。
「あの僧の考えは知らないけど、凌壽がどうして奴に協力しているのかくらいは想像がつく。自分の体力を削ることなく俺を弱らせたいんだ。確実に勝つために」
「……その割には、昨夜は手酷くやられていたようだったが」
「守る戦いは、あんまりしたことがなかったから」
紅蓮の指摘に気分を害することなく、彼は答えを返した。
囮としての戦いしか経験していないのでは仕方がなかっただろう。それに、二体の天狐の通力の差はいかんともし難がった。昌浩独りで凌壽を打ち負かすことは絶対にできず、ならば、自然彼が守る以前に逃亡する戦いを選ぶのは必定だった。
次いで晴明が尋ねる。
「もう一人の晶霞という天狐は何をしているのですか? 貴方と同じように都に現れてもおかしくないのでは」
「近くには来ていると思う。けど晴明、貴方が凌壽に直接狙われない限り、彼女は姿を見せない」
それまで黙っていた太裳が口を挟んだ。
「貴方を助けには来ないのですか。どうして、」
数拍の呼吸を置いてから、昌浩は疑問に答えた。
「そういう誓約をさせたからだ。たとえ俺が死んだとしても来るなと、血に誓わせた。俺の役目は凌壽を引きつけることだから」
上げられた蔀戸の向こうに、昌浩は目をやった。
薄く欠けた月読が、蒼い夜空に浮かんでいる。
冷たい月光は今夜も変わらずに、大地を薄明るく照らしていた。
「あと一月待てば晶霞は凌壽に打ち勝つ力を手に入れる。凌壽はそれを阻止するために俺を殺して力を奪うだろう。そうすれば、全快した晶霞を凌ぐ力を得ることができる。あいつの狙いはそこなんだ」
ふらりと立ち寄らせて頂いたら、更新の文字…!
思わず何度も確認してしまいました(笑)
朧月夜の復活おめでとうございます。
いろいろな伏線が見え隠れしていて、読み手としてはニヤニヤするところです。反面、原作の流れを汲んでいる箇所には、知っているだけに歯痒い思いでいます。
天孤としての昌浩の今後の動向も気になる所です。
次回の更新も楽しみにしています。
乱文失礼致しました。
PS:URLにもう一つの名前で運営している私の携帯サイトを入力させて頂きました。ジャンルは紅昌小説です。気が向いた時にでも覗いて頂ければ幸いです。
筆の不調からも抜け出せたということで朧月夜の更新再開しましたw 一週間に一記事、ということで一話丸々じゃなくて申し訳ないのですが、全部書けてるわけじゃないので! ごめんなさい! 締切に追われればストック増やしつつ定期更新できるかなーと思って、こういう形になりました。これからも楽しみにして頂けたら光栄です。
それと、悠さんのサイト拝見しました! ぐれまさ……うふふふ。ぐれまさ! ぐれまさ! 文章もお上手できゅんきゅんしました。ありがとうございます!