「じゃあ俺の手伝いはここで終わり。彰子は皆のご飯を作ること」
「はい」
目元がほんの少し赤くなっていたが、昌浩は指摘しなかった。彰子は微笑みを取り戻し、美しく可憐な華に戻っている。
「ここの戸締まりはしておくから、行っておいで」
「うん。また後でね、昌浩。ありがとう」
「どういたしまして」
ひらひらと手を振る昌浩に見送られて、彰子は母屋に帰っていった。彼女に付いていた神将たちも一緒に離れていく。と、片方の神将が陰形を解いて廊に姿を見せた。
長い金の髪が美しい、女性の神将だ。
彼女はやんわりと笑むと、昌浩に向かって一礼した。昌浩がまごついて瞬きしていると、すぐにその姿が掻き消える。
(……お礼だったのかな)
特に何も考えないで会話してたら話の流れでこうなっただけだったんだけど。
一人塗籠で照れくささを味わう。――その時だった。不意に胸に差し込みを覚え、昌浩は顔を歪めた。
彼にしか聞こえないぎちぎちという音が、心臓の周りでうねっている。
響く根の音に縛られ、呼吸がし難くなる――胸を押さえ、じわりと汗を滲ませ、昌浩は途切れそうになりながらも意識の集中を始めた。
ゆっくりと、低下していた霊力を高めていく。高まりと共に音が静まり、同時に締め付けも緩んでいく。
だが、完全に無くなったわけではない。
痛みが治まったことを確認する。昌浩は額の汗を乱暴に拭って身を起こした。
喉に触れる。悔しさに、思わず唇を噛んだ。
(……近くに、留まるからだ)
この身に残留している凌壽の妖気が主に呼応し、宿主の力を削っている。
こんなに長時間、奴が側にいたことはなかった。おそらくこれからは、さらに霊力が削られていくに違いない。
そして霊力が低くなれば、アレがこの命を蝕もうとするのだろう。
まったく、厄介事ばかりだった。だが悲しいことに、昌浩は厄介後にすっかり慣れ切ってしまっていた。
――しかしそんな彼でも、動揺する厄介事はまだこの世に存在していたのだった。
突如鮮烈な神気が存在を主張する。顕現した神気に息を呑んで、昌浩は戸口を振り返った。
赤い髪に浅黒い肌――額を飾る金冠。
美しく煌めく金の瞳。
力強い神気が肌を打つ。その感触に陶然としながら、昌浩は最初の夜のことを思い返していた。
初めて助けてくれたひとだ。
そして、目覚めたとき一番近くにいてくれたひと。
あまりに色んなことがありすぎて碌な反応も会話もできなかった。けれど、落ち着いた今ならちゃんと話ができそうな気がする。
どぎまぎしながら、感情の赴くままに昌浩は話しかけていた。
「えっと……あの。この前はありがとう」
神将が眉を顰める。言葉の意味が掴めずに沈黙する彼に、舞い上がってしまった昌浩はもじもじと続けた。
「凌壽から助けてくれて。感謝してる」
「……俺はただ、晴明の命を遂行しただけだ」
「うん、分かってる。でも俺が助けられたのは事実だから」
ぺこりとお辞儀する天狐に面食らったのか、神将は不可解なものを見る目で子どもを見下ろした。
その視線は氷でできた刃のように温度を無くして冷たい。なのに昌浩はそんな低温など感じていないのか、まっすぐに神将を見上げていた。
――天狐故にか。
皮肉が口端を微かに持ち上げる。子どもは気付かない。
凶将騰蛇――紅蓮は眦を鋭くして、天狐を見据えた。
「お前のその傷」
口を開いた瞬間、天狐の顔色がさっと変わった。みるみる青褪めていく幼い顔を、紅蓮は無感動に眺める。
「致命傷だったはずだな」
天狐が頭を振る。彼は小さく、やめてと呟いた。
紅蓮は聞こえないふりをした。天狐の心情など、紅蓮は一顧だにしなかった。
首の傷。
包帯に隠されたそれは大きな裂傷だった。まるで刃物に裂かれたような、左から喉笛を真一文字に断たれぱっくりと裂かれたはずであろう傷痕。それはおそらく過去に、柘榴が割れるような真っ赤な断面を晒したはずだった。
けれど今では、赤く盛り上がった皮膚が光を弾き、彼の細頸に半円の印を付けるに留まっている。
天狐であっても死んだであろうはずの一撃――それを受け、何故この子どもは生き延びているのか。
その理由があの燐光にあるのだとしたら、紅蓮は主のためにどうしても聞き出しておかねばならなかった。
晴明の近くに危険分子を置いておくわけにはいかない。
強まる詰問の気配を敏感に察知して、天狐が俯く。さらに強引に聞き出そうとして紅蓮は一歩を踏み出した。
――途端、ばちんと呪縛が全身に絡みつく。
「………!?」
ぎょっとし、動きの止まった紅蓮の横を黒い影が駆け抜けた。紅蓮に霊縛をかけた昌浩は塗籠を飛び出し、一目散に逃げ出していく。舌打ちして紅蓮は術を解こうと神気を発しかけたが――たった百年しか生きていなくともさすが天狐というべきか。霊縛は紅蓮が屋敷を焼くか焼かぬか、ぎりぎりまで神気を引き絞らねば解けぬように調整されていた。
なんとか解いた頃には、もう天狐は姿を晦ましている。
一本取られたことに紅蓮が渋面を作る。――だが、彼はしばしののちに異界へと姿を消していった。
◆◆◆
都の外れで、凌壽は遠くの気配を探っていた。強靭な結界の中の、そこそこ大きな霊力――感じるのは久方ぶりだ。この数十年、あの子どもは晶霞と同様気配を断って行動してきた。何かの拍子に霊力を駆使しない限り、凌壽が彼らを見つけることは難しい。それを、こうも無防備にさらしているとは――
「……あの爺と協力する気か」
大木の枝に腰かけ、妖孤は少し驚いた。子どもの性格からして、あの餌と行動を共にするとは思っていなかったのだ。アレは大事なものほど遠ざける傾向がある。それに餌が見つかった今、アレは爺へ手出しされるのを恐れ、独りきりで自分を迎え撃つものと思いこんでいた。
だが、今弱っているくせに気配を隠さないでいるのは、そういうことなのだろう。
(ということは、あのうるさい蠅どもが増えるということか)
老人の配下、十二神将。
それぞれを撃破するのは容易そうだが、群れると厄介な存在になりそうだ。こちらは一人――多勢に無勢。十二と一人を相手にするのは、流石に骨が折れる。
「せいぜい、丞按に頑張ってもらうことにするか……」
灰色の双眸を眇めて、凌壽は独りごちた。
哀れな人間。死ぬのならば、己の役に立ってから死ぬといい。