「このっ……!」
太陰は大きな竜巻を作り出し、幻妖の群れへと解き放った。荒れ狂う風が幾つもの幻妖を浚い、粉微塵にする。けれどすぐ側にある丞按の結界はびくともしない。変わらず幻妖を吐き出している。
そしてその幻妖自身も凌壽の力を得、力を増したのか焔に身を焦がされる様子がない。醜い獣たちは白炎を踏みにじり、大きく咆哮した。その数は既に十を超え、二十に差し掛かろうとしている。
昌浩も丞按の張った結界を破ろうと練り上げた霊力を放つ。が、結果は太陰と同じだった。幻妖は身を呈して結界とその中にいる主を守り、崩れ、新たな幻妖が出現する。終わりがない。白狐の攻撃も追い付かない。
盾となる幻妖どもが邪魔だが、どうにかして丞按の注意を逸らさなくてはならない。司令塔は丞按だ。奴の気さえ惹けば――
六合が槍をくるりと回し、腰だめに構える。銀色の残光が網膜に赤い軌跡を描いたかと思うと、彼は鋭く吶喊した。
幻妖の壁の僅かな隙間。丞按をまっすぐに見通せる、完璧な好機。六合の槍の穂先が、まるで吸い込まれるように空間に突き刺さる。
丞按の肩先目掛けて突き込まれた銀槍は、しかし後三尺というところで阻まれた。
銀槍は深々と幻妖の体躯に埋まっており、残念ながら、丞按自身には届いていない。
失敗を悟った六合は即座に柄をはねあげて幻妖を両断する。その動作に合わせて、後方から少年の声が響いた。
「縛!」
天狐の霊力が縛鎖を形成し、結界を無視して丞按に絡み付いた、かに見えた。
だが。
丞按が錫杖を振るう。すると、なんと縛鎖は音を立てて弾け飛んでしまったではないか。
(そんな……!)
愕然として、昌浩は己の両手に視線を落とした。
丞按の法力は以前と変わらない。昌浩は自分の最高の出力で術をかけたつもりだった。……それが防がれたということは。
(俺の霊力が)
――こんなに早く、僧に劣るほど早く、弱まるとは考えていなかった。
丞按が嗤った。
「やはり天狐といってもこの程度か」
網代笠の下の口端が吊り上がる。
「弱い、弱いな。安倍晴明め――こんな下っ端どもで、俺を倒せると思っているのか」
「なんですって?!」
主たる晴明を侮辱する言の葉に、上空の太陰が声を荒げた。太陰だけではない。玄武も、表情こそ変わらないが六合も、その台詞によって火が付けられる。
三者の殺意が、もどかしさを付随して丞按に注がれた。
けれど十二神将が人を傷つけることは許されない。丞按はそれを知ってか、泰然と構えて視線を受けた。
「時間が来たことにも気付かないのでは、下っ端と言われても仕方なかろう」
「時間――?」
「そう、時間だ」
丞按が網代笠を放る。
ふわりと風に乗った笠が、白炎の燃え盛る大地へと落ちる。
同時に、召喚された白狐たちが消し飛んだ。
ばちりと音を立て、続いて昌浩の結界すらもが消滅する。ただ異空間であることは変わりがない。丞按が新たに結界を結んだのだ。
狐火も地中から雲散霧消し、代わりに昌浩にとって馴染みのある妖気が吹き上がる。
背筋を走る悪寒に震え、昌浩は理解した。
丞按の身を護っていた小さな結界――あそこで落とした凌壽の髪は、強化された幻妖を生みだすだけではなかったのだ。
地下から妖気を侵食させ、丞按にとって有利な空間を創りだすことこそが本来の目的。
今更勘付いたところで遅すぎるが。
一同の足下から直接獣の口が生え伸び上がる。寸前でそれぞれ身を躱していくが、妖気に塗れた地は逃れた先でも幻妖を生み出し、息つく暇を与えない。気付けば、一塊りになっていたはずの四人はばらばらとなっていた。
(――白炎を再び出したとして、祓えるだろうか)
おそらく無理だろう。霊力の低下した白炎はきっとなんの効果も為さない。
では幻妖を滅しながら丞按を倒さなければならない。なんて地道で原始的な。
歯噛みした、その時だった。
最早分厚い壁と化している幻妖の向こうから、遊環の音が響いた。
音波の集合が戒めとなって昌浩を襲う。足下に注意しながら、彼は圧縮した霊力を前方に解放した。幻妖を巻き込んで光が炸裂する――同時に戒めの術を粉砕する。
なかなか皆の援護に回ることができない。昌浩はちっと舌を鳴らした。丞按はまるで人間の限界を超えたような強さだ。殺さずに打ち倒すことなど夢のような話で、到底できそうに――
刹那、粉塵の奥で動いた影に彼は勘で対応していた。
錫杖の先が突き込まれる前に障壁を形成する。金属が弾かれる音がして、昌浩は後方に下がった。
いつの間にか接近していた丞按が、障壁を避けて回り込もうとしている。続けて全方位に結界を創り、昌浩は焦りと共に周囲を見回した。
六合は長布と銀槍で幻妖を捌いている。太陰は宙に浮いているからいいが、竜巻を撃っても撃っても敵が減らず、援護になっていないことに腹を立てているようだ。最も危ないのは玄武。結界で持ちこたえているが、破られるのは時間の問題だろう。
完全に分断されている、これではまずい――
丞按が再び錫杖を振りかぶる。意識を戻し、霊壁に力を注ぎながら、昌浩は怪僧と真正面から睨み合った。
淀んだ眼光が暗く輝いている。
真っ黒な憎しみが溢れ出してくるような眼差しだった。
初めて接する、深い憎悪――背筋が寒くなる、強い怨嗟。
ぞっとした瞬間、昌浩は視界の端で蠢く黒い物を認めた。
それは空をひらりとまって、太陰に近づいていた。
「――太陰!」
咄嗟に注意を呼び掛ける。少女は「え?」と振り向き、昌浩を見た。その時には、もう手遅れだった。
凌壽の髪が、太陰の細い足首に巻きつく。少女が悲鳴を上げた――纏っていた風が呆気なく消失し、太陰は足下に群がっていた幻妖の只中に落下していった。
「太陰!」
青褪めた玄武が声を上げる。六合が銀槍を薙ぎ払い、幻妖を何匹か両断した。だが太陰の元までは辿り着けない。寡黙な神将の無表情が、焦りで彩られた。
幻妖の群れは、依然として蠢いている。
丞按の打ち付けてくる法力に耐えながら、昌浩は六合と玄武に叫んだ。
「凌壽の髪だ! 気をつけろ、呪縛にかかる!」
けれども、その叫びは一瞬遅かった。
玄武の織りなす結界を蛇のようにくねって髪がすり抜ける。玄武は気付かなかった――いや、直前に飛び退こうとしたが、相手が早かったのだ。
波流壁がどうと音を立てて崩れ落ちる。飛沫を跳ね飛ばし、何頭もの幻妖が突進する。
玄武は神気が失われていくのを知覚していた。長い紐に転じた黒糸、髪が、神気を根こそぎ奪っていく。抗うことすらできない。膝を突いて、迫りくる幻妖を睨みつけるのが関の山だ。
圧し掛かってきた幻妖に転がされる。大きな顎が開く。涎で糸を引く牙と牙を気丈に見据える。
悲鳴一つ洩らさず、細い肩を牙で貫かれる同胞を、六合は幻妖の壁越しに確かに見た。
長布を振り払う。幻妖が跳ね飛ばされ、道が作られる。しかしそれは瞬く間にすぎない。斬っても斬っても、妖は地面から妖気を吸い取って際限なく現れ出でる。
丞按の何度目かの攻撃を防いだ昌浩は、結界を消すと幻妖の隙間に飛び込んだ。太陰と玄武の元に向かおうとする。だが、丞按は甘くなかった。戒めの術と共に錫杖が打ち込まれる。周囲の幻妖も爪と牙を鳴らして飛びかかってくる。仕方なく結界を形成してそれを防ぎ、その場に留まって敵を倒すほかなくなる。
六合の援護もできない、太陰と玄武を助けにいくこともままならない。幻妖を全滅することも、丞按の妨害により不可能だ。
なんてことだ――歯軋りして、昌浩は己の迂闊さを呪った。
忌々しい男の声が脳裏で木霊する。
(お前は)
びりと、古傷が痛む。
(優しい。故に愚かだ)
冷たい指がうなじに触れる、錯覚。
(甘さを棄てなければ面倒くさいことになるぞ)
草いきれの匂い――夏の日の忌まわしい記憶。
(こんな風にな)
「うるさい!」
幻聴を振り払うように、昌浩は吠えた。古傷の痛みを無視して霊力を込める。結界がぎゅんと拡大し、丞按と幻妖とを跳ね飛ばした。
が、離れたところにいた六合には届かない。幻妖に埋もれた太陰と玄武にも。
そして、それが六合にとっての仇となった。
幻妖の体に隠れて忍び近付く糸は、宙に舞い上げられた幻妖が目くらましになったその瞬間を逃さなかった。
長く転じた糸が長布ごと六合を縛り上げる。強制的な神気の流出が実行され、すぐさま束縛の妖力に転化される。急激に襲いくる眩暈に呻き、六合は萎えた右手で槍を振るった。間合いに入り込んでいた幻妖の頭を穂先が断ち割る――だが、そこまでだった。
六合の手から銀槍が滑り落ちる。地面に落ちたそれは乾いた音を立てると、形を崩して元の腕輪へと変化した。
「六合!」
神将の最後の一人が囚われ、昌浩の顔色が変わる。
刹那の躊躇があった――しかし、彼はすぐに選択した。
結界を解かずに丞按を倒すのではなく、結界を解いて仲間を救う道を。
自らが傷を負うことは考えず、昌浩は結界を解いた。途端、幻妖が津波のように押し寄せてくる。
最大限の霊力を駆使して、幻妖たちを消し去らねばならなかった。結界を解いてから間髪入れずに焔を生み出す。掌に灯った白炎が、輝きを増す。けれどまだ足りない。さらに霊力を込めた上で、黒い波よりも早く対応しなければならない。
――丞按が声を上げたのは、その時だった。
「貴様の身体のこと、聞いたぞ」
動きが止まる。
予感で凍りついた昌浩の耳朶に、声は容赦なく爪を立てる。
(動かなければ――)
頭の奥では冷静な自分がそう囁いているのに、彼は焔を広げることができなかった。
竦んだように、足に力が入らない。
事実、彼は怯えていた――数瞬後に訪れる未来を感じて。
津波の向こうで、丞按が嘲りの色を隠しもせずに叫んだ。
「人間の肉体しか持たない、できそこないの天狐め!」