六合は与えられる苦痛に耐えながら、その声を聞いた。
驚愕。
そして、得心。
幼い天狐に抱いていた違和感の正体を悟り、六合は愕然として視線を移した。
幼い顔立ちが蒼白に染まり、強張っていた。白炎を抱いた指先が震えている。幻妖の群れがすぐそこまできているというのに、少年は凍りついた瞳で棒立ちとなっていた。
両手の焔は解放されずにただ揺らめき続けている。
彼の心の、最もやわらかいところが貫かれたのだと――六合が息を呑んで気付いた時、怪僧は止めの確信を持って錫杖を高らかに地面へ打ち付けた。
遊環の作る音の連なりが地表を走る。地中に染み込んだ妖力がそれに呼応し、錫杖の先から玄い蔦が湧き出した。小さな芽が一瞬にして成長し、硬い棘を備えた茨と化す。意思を持ってうねる蔦は蛇のように地を這い、崩れ落ちていた六合の足を捕らえた。
「………!」
棘が肉に食い込む。それこそ蛇並みの膂力で締め付けられる。まるで獣に咬まれたような激痛が六合を襲った。
次いで、枯渇しかけるほどさらに神気が奪われる。為す術なく倒れ伏し、手も足も出ない状況に置かれ――しかし、眼だけは力を失わず、六合は敵を睨め付けた。
人間の枠を超えた怪物――丞按を。
無防備な昌浩の足下にも蔦が伸びていく。だが、彼はまるで気付いていないようだった。
真っ黒な瞳が、ぽっかりと虚無の色を覗かせている。
動かない獲物に滑らかに接近した蔦は、頭をもたげるとその茨で剥きだしの脹脛に咬み付いた。同時に何頭もの幻妖が、束縛された昌浩に飛びかかる。犬歯が喉笛を噛み裂こうと唾液の糸を引く。
皮膚が裂け、血が溢れる。ぎりぎりと締め付ける茨。鋭い痛みが彼の意識を叱咤する。
幻妖の顎は、すぐ目の前に迫っていた。
消滅していた思考が回復する。目の前に黄色い牙が踊る。
それを認めたと思った瞬間、昌浩は身の内の霊力を爆発させた。
「ぐっ……!」
強風が砂塵を孕んで丞按の全身を叩く。丞按の築いた結界をやすやすと通り抜ける風に、彼はたたらを踏んだ。嵐の如く荒れ狂う風は、ともすればこちらを浚うほどの勢いだった。腕で目を庇い、強風に耐える。
けれど丞按とは違い、下僕たちは耐えられなかった。
身体の芯に響く衝撃が、ずしんと皆を襲った。電光石火の早さで白炎が広がり、異空間内を荒らぶり蹂躙する。望月の夜の再現だった――幻妖も、蔦も、凌壽の毛髪さえもが、形を失い崩れていく。
焔に煽られ、昌浩の髪や服の裾が激しく翻った。
舞い散る粉塵の先で、憤然とした眼差しが丞按を見据える。
幼い天狐は怒りを顕わにして、感情に任せたまま霊力を放出していた。
突き刺さる怒気に、しかし丞按は戦意を失わなかった。籠手を嵌めた手で錫杖を握り締め、彼は冷静に計算した。
邪魔な十二神将が身体を動かせるようになるにはまだ時間がかかるだろう。理由は知らないが、弱体化している天狐は眼前。誰の邪魔も入らない。
ひゅっと呼気を吐き出し、僧は接敵した。
呪縛から解き放たれた神将たちは反応できなかった。丞按と昌浩の距離は近すぎ、また彼らも虚脱から回復しきっていない。身を封じる忌々しい呪縛は無くなったというのに。
昌浩は眉を吊り上げたまま、接近する丞按をじっと見つめていた。
動じる様子は、ない。
動けないのか――それとも、何らかの罠なのか。
一瞬不安がよぎる。だが丞按は構わずに錫杖を振りかぶり、石突を叩き落とした。
鈍い音が響く。
神将たちは固唾を呑んで、その音を聞いた。
手応えは硬かった。錫杖が触れたのは肉でも骨でもない――寸前で築かれた、障壁だった。
眉間の直前で静止した石突。霊力で固定し動けなくさせた錫杖に、昌浩は驚くべき豪胆さで声を発した。
「縛!」
込められた言霊が、一時的に高まった天狐の霊力をもって具現化する。かけられた強力な縛魔術――だがそれを、丞按は歯を食いしばるなり力任せに法力で跳ね返して見せた。
昌浩の瞳が驚きで見開かれる。
(どれほどの力が――)
錫杖を固定していた霊力が丞按の術でかき消される。再び振り下ろされる錫杖を今一度阻んで、彼は後退った。
丞按の力はあまりに強く、束縛することすら満足にできない。生半な霊力では太刀打ちのしようがない。
ならば――
唇を噛んで、昌浩が三度錫杖を阻んだ、その時だった。
丞按の背後に鳶色の長髪が踊り、銀光が迸った。
銀輪を槍に変じた六合が丞按の足首の辺りを薙ぎ払う。常人であれば反応できず何も分からぬまま腱を斬られるだろう速度。しかし丞按は見事にそれを見切ってみせ、すんでのところで身をかわした。さらに、返す錫杖の先で尚も昌浩の首を狙う。それもまた阻まれるが、次第に昌浩の反応が遅れてきているのは明白だった。動体視力が追い付いていないのだ。その事実に気付いた六合は素早く間に滑り込み、幼い天狐を背に庇った。
得物の奪い合いが再発する。槍と錫杖が数合打ち交わされるが、実のところ六合の不利は変わらない。――彼は十二神将で、理に縛られている。
「昌浩!」
幼い子どもの声に、昌浩ははっと振り返った。五丈も離れたところで、あちこちに咬み傷を負った玄武が白い焔の中、さらに血塗れの太陰を助け起こしていた。
昌浩と同じ黒曜の瞳が、炯々と光っている。
その叫びの意味するところを正確に察し、昌浩は歯噛みした。
丞按に、呪縛は効かない――何度も試して分かっているはずなのに。
それでも再度戒めをかけようと集中した、その時だった。
六合の槍を弾き返した丞按が蛮声を張り上げた。
「……その傷も命を喰らって癒すか、呪われた天狐め!」
嘲りの籠った悪意が昌浩の耳を打つ。昌浩は――ひくりと喉を震わせて、今度こそ完全に凍りついた。
六合の注意が逸れ、動きが僅かに鈍る。その隙を突き、間合いを詰めると丞按は彼の肩を強打した。神将がよろめく。が、追い打ちはなかった。丞按は身を翻すと短く呪を唱え、結界を解いたのだ。
僧が素早く飛び離れ疾走する。逃げるつもりなのだと気付き、玄武は眦を釣り上げた。すかさず波流壁を生みだし、逃げかける丞按の行く手を遮ろうとする。
だが、法力が込められた錫杖が打ち鳴らされると水壁はあっけなく崩壊した。
どうと大量の水が地面に流れる。その音で昌浩がはっと我に返った。彼は咄嗟に丞按の背に縛魔法をかけたが、僧は後ろに目が付いているかのようにやすやすと避けた。
未だ不安定な空間が揺らめき、丞按の姿を押し隠してしまう。
――結局、昌浩たちはおめおめと丞按の逃亡を許してしまった。
一同の存在する大路が、だんだんとざわめいていく。ずれていた相が噛み合い、本来の雑踏に戻っているのだ。六合はふっと息をつき、銀槍を転変させてから天狐を振り返った。
彼は俯いている。
その横顔は、窺い知れない
陽炎のように実体を伴わない影が像を結んでいく。通行人のひとりと接触しそうになり、玄武は太陰を抱えたまま慌てて身を引いた。彼らは人ならざる者ゆえ眼に映らないものの、物質としての肉体は保有している。ぶつかれば騒ぎになるだろう――そう考え、彼は道の真ん中で立ち尽くす昌浩に声をかけようとした。
けれど、それよりも早く、天狐は面を上げて神将たちを見やった。
憮然とした面持ちだった。
「……場所を移すぞ」
六合が玄武たちに近寄り、傷の酷い太陰に自身の長布をかけた。太陰は意識こそ保っているものの、あちこちを酷く咬まれ出血が酷い。少女の小さな体躯はそこここが牙によって引き裂かれていた。痛みが酷いのか、呼吸も荒い。……早く処置しなければ危ないだろう。
小柄な神将を二名とも抱えると、六合は大きく跳躍して近くの築地塀を乗り越えた。すぐに晴明の元に連れて行き天一に移し身の術を使ってもらわねばならないが、一旦二人の傷の具合をしっかり見定めねばならなかった。
万が一を考えると、晴明に癒しの術は使わせられない。けれどその身を犠牲にする天一の術は、彼女に負担がかかりすぎる。十二神将が自力で治癒できる傷ならば、できるだけ術を行使せず自己再生を待つべきだった。
地面に太陰と玄武のふたりが下ろされる。と、六合の背に低く抑えられた声がかかった。
「傷治すよ」
彼が振り返ると、幼い天狐が硬い瞳を向けていた。
昌浩は足早に近寄ると、迷いなく太陰の側に膝を突いた。
冷たくも聞こえる声音に、氷のような無表情――しかし、六合はその中に微かな揺らぎを感じ取っていた。
自制――熱さを内包した、冷たさ。
誰に苛立っているのか。
昌浩の指が、鼓動を確かめるように太陰の首筋に触れる。だが、すぐにそれは払い除けられた。
半身を起した玄武が太陰を護るように引き寄せ、その面立ちを不信に揺らしている。
「“命を喰らって癒す”とはどういう意味だ」
真っ向から視線をぶつけ、玄武は詰問した。
「真実なのか。ならば、お前が癒したという騰蛇や勾陣は――」
「そうだ」
強い応えに遮られ、彼は思わず口籠った。
天狐の目が、ぎらぎらと燃えている。……抑圧された怒りが漏れ出ている。
昌浩は黒瞳を眇めて、神将たちに有無を言わせず太陰の喉元に掌を当てた。気圧され止める暇もなかった――昌浩の身体が、淡く発光する。
あっという間だった。数瞬後には光が消え、その時には太陰の傷はもう跡形もなくなっていた。
楽になったのか、今まで顰めていた顔をふっと緩めて、太陰が瞼を開ける。
覗き込む面々の顔を確認するようにひとつひとつ焦点を合わせ、彼女は最後に天狐へと眼差しを移した。
「昌浩、」
乾いた唇がゆっくりと動く。
そうして、そっと瞼を下ろした。
彼女の乱れた前髪を、昌浩が優しく撫ぜる。それから、彼は玄武によく研がれた刃の視線を向けた。
「吸気の術」
ぶっきらぼうに、昌浩はその名を口にした。
「と、俺は呼んでる。生命力、つまり寿命を対価に傷を癒すものだ」
不穏な言葉に、さっと神将たちの気配が変わった。昌浩にとってはよく見知った反応――警戒と疑心。拒絶。ごく自然な、当たり前の反応だった。
胸は痛まない。
ただ――昌浩は生涯付き纏っている疎ましさを、この時強く感じていた。
そして、変に攻撃的になっている自分を自覚する。理由は明白だ。――これは八つ当たり。
ふっと自嘲して、昌浩は視界を閉ざした。できるだけ穏和に聞こえるよう声を落とす。
「安心していい。傷を負った者から奪うわけじゃない」
「――では、あのとき桂が枯れたのは?」
昌浩の告白に、六合が疑問を呈した。
自失した昌浩が運ばれた夜に枯れた大樹。あの時、彼は多少なりとも傷を負っていた。……あれは彼自身の傷を治すために、命を奪われたのではないだろうか。
その問いに、なんでもないことのように彼は答えた。
「そう」
同意する。
「施行者と対象者が同一の場合、つまり俺が怪我を負った場合だな。その時は他者から対価を得ることになる」
言い置いて、彼は玄武に手を伸ばした。脈を取るように手首に当てられた指の感触は、柔らかい。玄武は黙ったままそれを受け入れた。
――もう昌浩の双眸には、細波一つ立たない。
彼の指先が仄かな灯りを点す。昌浩が大きく息を吐き出したその時、六合が囁いた。
「お前が他人を癒すとき、対価は誰が支払う」
天狐はほんの少し目を細めた。灯りは指先に留まったまま広がらない。
やがて数拍ののち、彼は微笑して燐光を纏った。
「――俺自身だよ」