暴風の中から解放されると、不安定な大気が耳を押さえてきた。
唾を飲み下せばすぐに圧迫感は消え去り、通常の音の世界が戻ってくる。
土御門殿から太陰の風で一気に戻ってきた六合たちは、主の家の庭にやっと足を着けた。その肌にはかすり傷一つなく、戦闘の後を窺わせない。
ただ一人昌浩だけが、乾きかけの傷をそのままにしていた。
意識を取り戻し完全に復調した太陰は、口を噤んだままのその背を見つめていた。彼はめっきり口数を減らして、終始むっつりとしている。……機嫌が悪いわけではないようだった。仕草はけっして乱暴ではないし、いらいらしている者特有のぴりぴりとした空気を発散しているわけでもない。単純に、神将たちとの会話を忌避しているようだった。
六合は気付いているのだろうが口出ししていない。玄武は気まずそうに明後日の方を向いている。青龍がこの場にいなくてよかった、と太陰は胸を撫で下ろした。今は一人中宮の警護に当たっている青龍だが、もし彼がいたら余計な口を出してさらに話をこじらせていただろう。
彼はきっと、訊ねられることをを怖れている。
朦朧とする意識の中、太陰は丞按の声を聞いていた。直後に荒れ狂う霊圧が体の芯を貫いたのも覚えている。怒りに満ちた炎飄は猛々しく、拒絶に満ちていた。
だのに、彼の燐光はあんなにも暖かかったのだ。
血管を巡り、心臓に流れ込んだ『何か』。体躯を隅々まで満たしたあれが、きっと――昌浩の、命なのだろう。
霊力ではない力。原始的で単純な、しかしそれ故に力強く脈動する術。
彼の欠片が、まだ太陰の中で息づいている。
ぎゅっと胸を押さえると、心臓はまだはっきり熱を持って鼓動を続けていた。
一度も神将と視線を合わせないまま、昌浩が一歩を踏み出す。その背に、太陰は思わず声を発していた。
「ねえ!」
昌浩の肩がびくりと震えた。ゆっくりと、顎を引いて、彼は振り返る。
現れた硬い面持ちは唇を引き結んで、まるで敵を見据えるかのように太陰に向けられていた。
だが、不思議と怖くはない。
何故だろうと考えて、太陰は胸に当てたままの手のひらの下の熱を思った。
ゆっくりと同化していく温度。心臓を満たす血の流れは緩やかな速度で拡散している。
――そう、きっと、この熱のおかげなのだ。
「助けてくれてありがとう、昌浩」
だから、太陰は笑いかけた。
途端、昌浩の真っ黒な瞳が不自然に揺れて伏せられる。貝のように合わせられていた唇が戦慄き、ささやかな音を零した。
「べつに……」
尻切れトンボに着地した言葉が、行き場を失って転がる。みるみるうちに顔色を曇らせた少年を、太陰は驚いて見やった。
どうして、そんな顔をするのだろう。
さらに顔を俯けて、昌浩はぼそりと呟いた。
「足洗うから、井戸借りるよ」
鉤裂きの傷ができた脚が回れ右をする。それっきり、彼は一度も振り返らなかった。
遠ざかる背中を立ち竦んだまま見送って、太陰は服の端を力一杯握りしめた。
どうしてあんな顔をするのだろう。
あんな――傷口を抉られたような、痛みに耐える顔を。
「ね、六合……」
訳が分からなくて、彼女は傍らの同胞を見上げた。悔しいが、自分よりずっと大人びている長身の同胞なら何か教えてくれると思ったのだ。
だというのに、六合はすうっと透明に溶けて、神気を隠してしまった。
異界に逃げたのだ。
ぽかんとしてからその事実に気付いた太陰は、やがて小さな拳をぶるぶると震わせた。おそるおそる様子を窺っていた玄武が雷に打たれたように背を伸ばす。一歩二歩と後ずさりして、やめておけばいいのに、彼はつい声をかけてしまった。
「太陰……?」
瞬間、童女は愛らしい顔立ちを怒りで歪ませて、玄武に射殺さんばかりの眼光を向けた。
「ちょっと、なんであんた何も言わないのよ!」
「そ、それはだな」
「玄武のばか! もう知らない!」
きいきいと地団太を踏んで、太陰が六合を追う。八つ当たりされた格好の玄武は耳を押さえて、一人深いため息をついた。
天狐が身を屈めていた。井戸枠に体重を預け、脚に巻いていた細長い布を解いている。近くに水の張られた釣瓶が、少し量を減らして置かれていた。
黒髪に隠されて、彼の表情は窺えない。
紅蓮が足音を立てながら近付いても、彼の視線が移動することはない。長身の影が足下に落ちて、ようやく、天狐は顔を上げた。
神気すら隠していなかったというのに、彼はぱちぱちと瞬きして紅蓮を見上げる。今し方気付いたばかりの様子で、彼は外した布を所在無げに持ち変えた。
精彩を欠いた瞳が、ぼんやりと紅蓮を映す。
この妖の、こんな目を見るのは初めてだった――予想もしていなかった。
知らず眉根を寄せて睨み付けるような眼差しを注ぐ神将に、天狐は首を傾げた。
その指先が持ち上がり、喉に、触れる。視線が揺れて、外れる。
「……白い、蝶が」
ややあってから手を下ろし、彼は囁いた。
あの辻で初めて会った時から一貫して保たれていた筈の芯を、紅蓮は彼の瞳の中に捉えることができなかった。
「飛んでいたのを見たよ。……晴明の式だろう。一緒に見てた?」
気付いていたのか。
晴明の飛ばしていた遠見の式は戦闘の後しか垣間見ていなかった。僅かな時しか動いていなかったというのに、彼は微かな霊力を感じ取っていたのだろう。
あの時苛立たしげに感情を硬化させていたのは、覗き見に気付いていたせいもあったのだろうか。
今はもう冷たさなど微塵も感じられない声音で、彼は茫洋と続けた。
「――この前は、ごめん」
唐突な謝罪に、紅蓮はさらに眉を寄せた。天狐が困ったように微笑する。乱暴にして悪かったとさらに続けた彼は、面差しを伏せて表情を隠した。
笑みを作った口元だけが、夕焼けに照らし出されていた。
「あまり……他人に、見せたいものじゃないから」
驚かせてごめんね、と笑って、彼は手の内の布を握りしめた。
ようやく、いつかの塗込での件を指しているのだと気付いて、紅蓮は目を瞬いた。今更そんなことを言われるとは思っていなかった。しかも謝られるいわれがない――強引な手段を取ったのは、紅蓮も同じだからだ。
あの日蒼白だった顔色が、残照を受けてやわらかく染まっている。
泣き出しそうだと頭の片隅で鳴っていた警鐘は、今は何事もなくただ揺れていた。
水に濡れた天狐の左脚が目に留まる。簡単に血を洗い流されただけの肌には、まだ傷口が真っ赤な色を広げて残されていた。
――知らず、紅蓮は訊ねていた。
「お前は、どちらなんだ」
ひくりと、天狐の指が震えた。が、構わずに紅蓮は続けた――普段の彼を知る者がいれば目を見張るほど饒舌に、金眼をさらに鋭くして、彼は目の前の子供に問うていた。
「触れられた時から違和感があった。お前はばらばらなんだ。どっちつかずで気配が混じり合って、周りが惑ってしまう、」
微かな躊躇いが、最後に語気を弱める。
けれど結局彼は、その先を口にした。
「もしお前が人に近いものなら、俺たち…俺は、」
「ずっと昔に」
なのに言いたかった言葉は口早に遮られて、かき消されてしまった。
「考えたことがあるよ。人であったら良かっただろうかって。でも、」
昌浩はようやく顔を上げて、紅蓮ににっこりと微笑みかけた。
「妖だろうが人であろうが、俺の望みに変わりはないんだって気付いたんだ。だったら俺はこのまま妖として死ぬんだって、もう決めたんだ」
だんだんヒッキー紅蓮が……vv
本当に天孤昌浩かわいいです。それと絡んでいる紅蓮も好きですvv
忙しいでしょうががんばってくださいっ。
でも、「前まで来た」だけなんですよね。ふふふ。
昌浩に関してもお褒めの言葉ありがとうございます。ですがただ可愛いだけの奴にしてはいないので、これから先の昌浩くんに乞うご期待です。
ポメラを買ったので更新速度上げますよ! 頑張ります!
うまく言い表せないけど、GOODJOB!!です。
これからも応援してます、風邪引かぬように気をつけて頑張ってください!
ぐっさんの反応は、うん…多分期待を裏切っております。次回をお楽しみに。
第八章はついに中盤に突入、そしてまたまたバトルフェイズ予定であります。ここまで長かった……
季節の変わり目ですので、ほととぎすさまもお風邪など召されぬようにお気をつけて下さいね。