「太陰!」
庭に走り出るや否や、昌浩は風将を呼んだ。
「太陰! いる!?」
「ここよ!」
人界に降りていた太陰が滑空して近づく。昌浩は東を指さした。
「土御門まで風を流してくれないか、早く!」
怪訝な顔をしたが、すぐさま太陰は風を起こし始めた。
「私が風流に乗せていってもいいのよ、」
太陰の風は速い。有り難い申し出だったが、彼は首を横に振った。
「凌壽が出てくる。何が起きるか分からない」
少女の顔が僅かに強ばる。昌浩はそれを見ない振りをした。もし凌壽が現れた場合、太陰では相手にならないだろう。それが分かっていながら口にしないのは、太陰の矜持を慮ってのことだった。
空を見上げたまま、風に乗って闘将たちに追いつく、と説明する。その間にざわざわと草木が揺れ始めた。次第に木々のざわめきが大きくなる。太陰が鋭く叫んだ。
「できたわ!」
「ありがとう!」
昌浩が地面を蹴った。
同時に発せられた通力によって身体が重力から解き放たれる。浮いた、かのように見えたのはほんの一瞬だった。風が彼の髪を乱した、と思った次の瞬間、燕のように黒い軌跡が青空を切り裂いていった。
神将たちは神足で駆けていた。強風に乗りその後を追う。大路に沿って翔けていけば、いくらもしないうちに彼らの姿が見えてくる。土御門まであと僅か、二十丈程離れている場所にその背中はあった。昌浩がほっとして風から降りようとした、その時だった。
皮を剥ぐような痛みが弾け、視界が霞んだ。霊力が苦痛に吸われて消えていく。四肢に纏わりつく風は思考を離れて思い思いに散っていった。ぎちりと根の音が響き、片足が引っ張られる。
(来た……!)
呻き、昌浩は体勢を崩した。風を操作する気力も霊力も最早ない。あるのは仇敵を滅するために存在する意思、それのみだ。
闘将たちの眼前には、もう一人の天狐が現れていた。
「貴様…!」
ぐわりと鎌首をもたげた炎蛇が空を裂く。禍々しい妖気を振りまく天狐はひらりと体をかわし、躍りかかってきた勾陳と六合の攻撃すら両の爪を長く伸ばして受け止めてみせた。
爆裂する神気と妖気は、徒人の目にこそ映らないが確かな影響を引き起こす。同心円上に巻き起こる砂埃と闘気に当てられ、白昼の異変に気が付いた人々が悲鳴を上げた。皆が自失しなかったのは幸いとしか言いようがない。大路を行き過ぎていた何十人もの人々は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。凌壽は薄ら笑いを張り付けている。その嬲るかのような目つきが、神将たちの闘気を逆撫でた。
勾陳の連撃が速度を増す。二本の筆架叉から繰り出される鋭い斬撃は、だが軽やかに避けられた。下方から撥ねた六合の槍が凌壽の爪を割るが、断たれた側から瞬時に再生が始まり元の長さに収まる。再び襲いくる紅蓮の焔すら霊力で力任せに散らし、十本の刃はばらばらの動きで紅蓮たちを攪乱させていく。殺気に満ちた神将を余裕に満ちた態度でいなし続ける。
「舐めた真似を、」
勾陳が忌々しげに吐き捨てた、その時だった。
氷のような霊気が空から降ってきた。凌壽の鉛色の双眸がはっと息を呑む。刃を合わせていた六合と勾陳を弾きとばし、その場を離れようとした。しかし時すでに遅く、反応しかけた瞬間には既に巨大な霊力が痩躯を押し潰していた。
頭上からの圧力に屈し、凌壽は地面に諸手を突いた。そのまま動けずに、前髪の間から天空を睨み上げる。すぐに凌壽と同じ色の影がすとんと大路に落ちてわだかまった。小さな背中。両肩が負担に上下している。息を荒げつつも、彼は凌壽に片手を翳し続けることをやめなかった。
「とう、だ」
十二神将最強の名が、苦しげな呼吸の間に呼ばれた。表情は見えない。昌浩は神将たちの前線に立っている。
昌浩に促されるまでもなかった。紅蓮は自らの焔を赤から蒼へ、さらに白へと転じさせた。白銀の龍が二匹、炎鱗を燃え立たせ顕現する。真紅に色づいた紅蓮の眼は、うずくまる凌壽のみに据えられていた。
「くらえ……!」
白い火の粉が散った。召還された地獄の業火の化身が牙を剥く。凌壽の胴体を龍身で締め上げ、あぎとはそれぞれが手足に突き立てられた。耳障りな喘鳴が迸り、白炎が火柱となって立ち上る。その様を、昌浩は瞠目して見つめていた。
昼日中でも篝火の如く燃え立つ白い火柱の中。その中で、昌浩と同じ黒髪が焼け落ちていく。妖力の抵抗は少なかった。みるみるうちに肌は爛れ、肉が焦げ、白い骨が覗く。肉の焼ける異臭が鼻をつく。昌浩は、それを唇を引き結んで凝視していた。
凌壽は動かない。動けない。昌浩は神通力の行使をやめていないのだから当たり前だ。凌壽を拘束しているのは昌浩なのだ。彼の腕は一度たりとも下ろされず、小さくなっていく火柱に向けられていた。
やがて燃えるものがなくなり、焔が消える。
現れたのは黒い骸だった。炭化し、高熱により自然に手足が折り曲がった死体。もうなんの妖力も発さない、――凌壽だったものの、遺体。
「やったのか…?」
真っ先に疑念を投げたのは、勾陳だった。
彼女は用心深く筆架叉の切っ先を向けたままにしていた。凌壽は天狐なのだ。昌浩よりも遙かに強い、天狐。それが――たとえ凶将騰蛇の獄炎に囚われようと、こうもあっさりと命を落とすとは思えなかった。
焼き尽くした当人の紅蓮も、打ち合った六合も思いは同じだった。……これは罠ではないのか。油断した瞬間に骸がふらりと立ち上がるのではないだろうか。
歩を進め、紅蓮は昌浩の隣に立った。何かあればすぐに炎を出せるように気をはりながら。横目で窺った昌浩はというと、何故か呆然とした様子だった。傷が開いたのか、その喉元から染み出した血が胸元まで垂れている。押さえた指と包帯が真っ赤に染まっていた。黒装束と血の気の引いた真っ白な肌の中で、唯一色づいている場所。その鮮やかな赤が、やけに紅蓮の目についた。
昌浩がふらりと一歩踏み出す。彼の様子に一瞬気を取られた、その時だった。
突如みしりと音を立て、空間が歪んだ。
はっとして顔を上げた皆が辺りを見回す。青いはずだった空が、いつしか紫色に染まっていた。夕焼けに似て いるがそのものではない。もっと禍々しい気配に満ちている。
天空から男の声が反響した。
「残念だったな」
先程倒したはずの、凌壽の声だった。
昌浩たちの反応が驚きで一瞬遅れる。その一瞬が命取りだった。何の前触れもなく足下が罅割れ、暗闇が覗く。跳び退く暇すらなく、皆の半身が地割れの中に吸い込まれた。
いや、地割れではない。亀裂の間から染み出した暗闇は、次元が異なる領域に通じる通路。つまりこの空間自体が罅割れているのだ。
いつの間にか結界内に閉じこめられていたのか。昌浩にも、神将たちにも悟られずやりのけた妖は、未だ姿を見せない。
「凌壽!」
仇敵の名を、昌浩は異空間に飲み込まれながらも叫んだ。
「お前…まさか、天珠を……」
「ああ、」
嘲笑が耳障りに響く。
「身代わりを立たせてもらった」
はっとして、神将たちは目をやった。凌壽だと思いこんでいた、黒焦げの焼死体――その輪郭が崩れていく。固く縒り合わさっていた繊維が、ぶちぶちと解けていくのが見えた。
あれは凌壽の髪の毛を媒体に創られた、精巧な偽物だったのだ。
「お前の両親の天珠を使わせてもらったぞ」
あまりの怒りに、昌浩の目の前が真っ赤に染まる。
抗う術なく神将たち共々空間の亀裂に飲み込まれながらも、昌浩はせめてと怒声を張り上げた。
「この恥知らず! 裏切り者――」
なおも罵声を浴びせようとしたが、それは叶わなかった。ぎらぎらと内から燃え上がるような憎しみの瞳が暗闇に飲み込まれて消える。同時に異空間の扉は閉じられ、結界が消失した。
未の刻。まだ陽は高い。凌壽は見物をやめて土御門殿の築地塀の上から地面に降り立った。安倍晴明麾下の十二神将と同族を異空間に送りこんで尚、妖力の憔悴は見られない。ただひとり人界に残り、凌壽は吹き付ける生暖かい風に黒髪を遊ばせていた。
今夜は有明月、昇るのは丑寅の刻。日毎に凌壽の刻限は近づいている。この策で天珠をも使い切った。今夜中に片が付かなければ、後はない。
なんとしても昌浩の天珠を奪い、晶霞を討つための糧としなければならなかった。
「さて、丞按はどこまでやるかな――?」
高淤は閉ざしていた瞼を開いた。貴船の深奥で人形を取っていた彼女の隣には、つい最近再会を果たしたばかりの友がいる。先ほどまで静かに瞑想を続けていた筈の彼女はすっくと立ち上がり、南方の空を睨みつけていた。
「どうした」
長い銀髪を風にそよがせ、数百年全く変わらぬ少女の容貌を微かにきしませた彼女――晶霞は、寒々しい薄手の衣の上から二の腕を抱いた。
「……昌浩の気配を感じない」
「死んだか」
青灰の瞳が危険な色を孕んで向けられた。
「冗談だ」
高淤は肩をすくめた。この友人は一族の末息子に関して筋金入りの過保護なのだ。ちょっとからかった程度で本気で腹を立てるのだから始末が悪い。八十年前に昌浩が囮を申し出たと きも最後まで反対して、渋々頷いた程だ。
高淤とて、何も昌浩がすぐに死ぬような男ではないことは熟知している。彼の体質と気性、双方が昌浩を生かし続けてきた。死を嫌うできそこないの体と妖の魂、どっちつかずの精神――狭間で揺れ続ける心が出し続ける答えは、いつも高淤に好ましい。彼を気に入りにしているのはそのためだ。
では、死んでいないのに気配が辿れないというのは何故なのか。
「おそらく、異空間に」
凌壽が天珠を使ったのだろう。
彼女が語る声はあくまでも静かだったが、ぎり、と歯を噛みしめる音を高淤は耳にした。
晶霞の想いも分からないではなかった。だが、昌浩からの頼みを、貴船の祭神は忘れていなかった。
「誓約を忘れるなよ」
「……分かっている」
苦々しげに呟き、彼女は俯いた。