狐火を走らせたはいいが、為す術なく体力と霊力を奪い取られ続け昌浩の疲労は限界に達していた。攻撃する余裕はない。動くことすらできない。ただ震える足を叱咤して、倒れずに狐火を熾すのが精一杯だ。
(……つよく、なったと)
胸元は流れ出る血液でしとどに濡れている。
(思ったんだけどな……)
都に帰ってきた時の昌浩の霊力は確かに成長していた。一族虐殺の夜から何度も死にかけ、その度に生還した結果だ。死の淵から甦った生き物は力を強める。凌壽に何回も殺されかけ吸気の術で息を吹き返す度、昌浩は己の霊力の向上に気づいていた。結果、八十三年前より確実に昌浩は強くなった。
しかし凌壽に植え付けられた呪詛は、昌浩の予想以上に力を持っていたのだ。
凌壽の妖気が昌浩を弱めなければ、おそらく彼は楽々と丞按を取り押さえられていた。それができないほど霊力が低下している。今の昌浩だったら、天后でも苦もなく打ち倒せるだろう。
だが、まだ倒れるわけにはいかない。
浅く早くなる呼吸に、失血から砂がかる視界。それらと闘いながら残り少ない霊力を振り絞る。せめてこの場を脱出するまでは狐火を維持しなければならない。
距離を稼げばなんとかなる――
けれど、その考えが浅はかなものであることを昌浩はすぐに思い知らされた。
みちりと裂ける肉の痛みが、脳天に突き刺さる。
「……ぁっ」
傷口を無理矢理こじ開けられる。妖気が――体内の凌壽の妖気が暴れている。
ごく近くから凌壽の視線を感じた。傷口が灼熱の痛みを伴って広がっていく。呼応する妖気を、止められない。
耐えきれず膝を突く。鮮血が黒い砂に落ちた。ぼたぼたと砂の色が濃くなっていく。凌壽が見ている――昌浩を嘲笑っている。激痛に耐え、首を押さえて蹲り、脂汗を流しながら歯を食いしばった。声すら出すことのできない拷問が昌浩の身を襲っている。
急激に衰えていく霊力に気づいたのか、紅蓮が昌浩を振り返った。その視線の先で狐火が弱まっていく。昌浩の指の間から零れる赤い滴に、彼は息を呑んだ。
丞按はその隙を見逃さなかった。
遊環が鳴り響き、音波が広がる。錫杖が突き立てられた地面がのたうち波打った。消えかけていく白炎の下から幻妖が再び這いだしてくる。何匹かが完全にその姿を引き上げると、神将たちの表情に焦燥が生まれた。
中宮を連れ離脱しようとしていた六合の足下にも幻妖が現れる。再び銀槍を手にし、彼は一匹の頭を串刺しにした。が、六合が得物を抜いて攻撃するよりも早く、新たな幻妖が槍に噛みつきその動きを封じる。さらに牙を剥いた別の幻妖が彼の背後から迫り、躍りかかった。
六合の左腕に抱かれていた中宮が悲鳴を上げる。
銀槍を幻妖から抜く暇はない。だが、六合はそれ以外の方法で己の得物を抜いた。
銀の光がきらめく。一瞬で銀槍を腕輪に戻し、呼吸する暇もなく再度銀槍を現す。槍に噛みついていた幻妖の牙が対象を失ってがちんと打ち鳴らされた。
間髪入れず、六合は身を捻った。銀槍を空中の幻妖の咥内に突き立てる。翻った霊布が足下の幻妖を撥ね飛ばした。内蔵まで綺麗に貫かれた幻妖から、銀槍を再び腕輪に戻し取り戻す。
その瞬間だけ、六合の周囲はぽっかりと凪いでいた。
機を逃さず、彼は結界を敷いた。中宮を中に残し自分は円の外に出、背後に彼女を庇う。
紅蓮と勾陳は三丈も離れたところで戦っている。昌浩は膝をついたまま、六合から二丈ほどのところで蹲っていた。彼の周りでも幻妖が身を起こし始めている。しかし、六合が助けに向かうことはできない。彼は中宮を護らねばならなかったし――幻妖の数が、あまりに多かった。
紅蓮が炎蛇を召還した。何匹もの幻妖が一気に呑み込まれ、灰塵と化す。だが、丞按が新たに生み出す数の方が勝っていた。
煉獄を操り次々に幻妖を壊滅させながら、紅蓮はじりじりと退いた。退きながら、動かない昌浩の周囲に群がる幻妖たちを滅していく。
相棒である勾陳は二振りとも筆架叉を引き抜き、莫大な神気で衝撃波を放った。轟音と共に地面が抉れ、砂粒が飛ぶ。地面ごと敵を一気に消し飛ばし、十数匹を纏めて始末した彼女は、術者である丞按に斬りかかった。
その隙に、紅蓮の神気が蒼く燃え立つ。焔が白銀の龍に転じ、残る幻妖を一掃すべく放たれた。縦横無尽に駆けめぐる龍が、片っ端から再生する幻妖を喰らい尽くす。
狐火とは違う白い焔が昌浩を焙ったが、彼は微動だにしなかった。
ようやく近づけた紅蓮が、その肩を掴む。
「おい」
指先から感じる彼の霊力が微かにしか感じられないことに、紅蓮は愕然とした。
ひゅうひゅうと喉笛を鳴らす昌浩の顔色は、失血から土気色をしている。じっとりと湿った額から、汗が一滴流れ落ちた。項に黒髪が幾筋も張り付いている。肌に触れられたことに反応して瞼が持ち上がった。現れた瞳は焦点を結ばず、茫洋としたまま何も映さない。血液はどろどろと流れたまま止まっていない。
彼の冷えきった体温が、近い未来を示唆していた。
頭を強烈に殴られた気分が紅蓮を襲った――どうしてすぐに気づかなかったのだろう。
ここでは昌浩は傷を癒せない。
そしてきっと、それこそが凌壽の目的だったのだ。
「……っ、くそっ」
吐き捨てて紅蓮は昌浩を抱き寄せた。人間と同じ、やわらかい子どもの身体。並べば紅蓮の胸下までしかない背丈に目眩がする。
知らず、震えが走った。
五十五年前からずっと、紅蓮は願っていた。
誰も傷つけたくない。――傷つきたくない。
晴明を手にかけた時の絶望は、未だ紅蓮を苛んでいた。主を死地に陥れた強大過ぎる力を厭い封じても、同朋からの嫌悪も自分自身への嫌悪も消えはしない。だから他人と関わりたくはなかった。
関わりさえしなければ、嫌悪を投げかけられることもない。
ずっと一人でいさえすれば全てが丸く収まるのだと、信じていた。
(――ありがとう)
だのに、この子どもが関わってくるから。
何も知らない妖のくせに、怖がりもしないで勝手に近寄って、勝手に好きなことを言って、勝手に笑いかけて。
そうだ、こいつは俺を怖れなかった。天狐だからだと、多少傷つこうと構わない能力を持っているからだと思っていたが、そうではなかった。そうではない理由があるから、こいつは俺を怖れなかったのだ。
その証拠に、紅蓮の痛いほどの神気に包まれながらも弱りきった身体で縋りついてくる。霊力もなく、柔い身体で、一歩間違えばすぐにでも紅蓮は彼を縊り殺すことができるのに。
紅蓮を信じきっているからだ。
心臓がぐっと掴まれた。苦しい。きりきりと引き絞られる感触を紅蓮は知っていた。晴明に名前を貰った時と全く同じ痛みが、彼の心を襲っていた。
この痛みに付けられる名前を、紅蓮は知らない。
この少年なら知っているのだろうか。もし知っているのなら、この場所を脱出した後に聞いてみたかった。
今度は護れるだろうか。
晴明の時と同じに――傷つけることなく、今度は護り抜けるだろうか。
……やって、みなければ。
「わからないだろう……!」
金色の瞳を煌めかせて、紅蓮は召還した煉獄を解き放った。
幻妖を焼き尽くしつつ丞按を探す。怪僧は勾陳と斬り結んでいた。炎蛇を二匹六合の支援へ、もう一匹を勾陳に跳びかかろうとしていた幻妖を焼くために操る。勾陳は見事な体捌きで幻妖を躱していたが、それにも限界があった。紅蓮の援護により幻妖が減らされたおかげで丞按自身に集中できるようになり、彼女は疲労を見せぬ動きで丞按の錫杖を奪い取ろうと手を伸ばした。
だが、踏み出した右足ががくりと崩れる。
地面から直接生えた頭だけの幻妖が、勾陳の脹ら脛に牙を突き立てていた。
怜悧な瞳に動揺が走る。けれど一瞬で感情を押し潰し、勾陳は右手の筆架叉で獣の頭部を断ち切った。痛覚を無視し、自由になった足に力を入れ、地面を蹴る。
しかし丞按にとっては、その僅かな間で充分だった。
黒い頭髪が砂地に落ち、その真上から錫杖の柄が突き立つ。
たちまち現れた黒い茨が、勾陳を、六合を、紅蓮と昌浩を絡めとった。
憤激で勾陳の瞳が燃え上がる。けれど苦痛によって閉じられた瞼が早くも彼女の双眸を隠した。聞き取りにくい罵倒が朱唇から発せられ、霞んで消える。
紅蓮がこの術を受けるのは二回目だった。一度目は乱入した昌浩が浄化の狐火で解いてくれたが、あの時と同じ量の霊力は彼にはもう、ない。昌浩の力による解呪は不可能だ。
茨が神気を吸い、皆の身体から力を奪っていく。紅蓮ですら腕が持ち上がらず、膝を突いたまませいぜい歯噛みすることしかできなかった。頭が割られるような頭痛が襲いかかり、否応なしに気力が萎えていくが、神将たちは呻き声ひとつ立てずに耐えてみせた。
だが、ただでさえ傷つき弱っている身体では無理だったのだろう。神封じの術で追い打ちをかけられた格好の昌浩は細い悲鳴を上げた。ぎりぎりと締め上げる茨がきつく肌に食い込んでいる。手足を封じられたあげく、残り少ない霊力を根こそぎ奪われているのだ。
昌浩は紅蓮のすぐ側で倒れ伏しているというのに、手が届かない。
「……っ!」
犬歯を剥き出して歯軋りする紅蓮の前に、影が落ちた。
擦り切れた僧衣から伸びる節くれ立った腕が、上段に錫杖を振りかぶっている。その柄はまっすぐに紅蓮の心臓を狙っていた。
「藤原より先に殺してやる、邪魔な十二神将どもめ……!」
怨讐に塗れた邪悪な視線が、金色の眼を刺し貫く。
――紅蓮はまだ諦めてはいなかった。神気を奪われながらも、それを上回る圧倒的な量でもって茨を打ち砕こうと足掻いていた。急所さえ当たらなければ、通力で茨を砕きこの場を凌いでみせるつもりだった。
要は心の臓と肺腑さえ傷つかなければいいのだ――重傷になろうと生き抜く自信はあった。
錫杖が刺さる寸前に身を捩れば、なんとかなる。
怪我は覚悟の上だった。
昏い視界の中でも、どうしてかあのひとの表情だけは読めていた。
その様をつぶさに把握していた。
(……いやだ)
自由を奪われても、懇願の声すら出なくても、思考はまだ明瞭だった。
丞按が強く砂利を踏み込む音さえ、きちんと認識できていた。
(やめて)
騰蛇が殺される。
だというのに、昌浩は見ているしかないのか。
通力も行使できず、指一本動かせないままで。これでは八十三年前とまったく変わらない、進歩していない。役立たずなままだ。
もう時間がないのに。
終わってしまうのに。
変われないままで死ぬのは嫌だった。
好いたひとが殺されるのを見るしかできないのは、もっと嫌だった。
音にならない絶叫が喉から迸る。
(――奪わないで!)
◆◆◆
突然塞がれた視界に、紅蓮は目を疑った。
灰の匂いが鼻孔をつく。白い破片が視界の隅を舞う。
事態を把握するまで数瞬を要した。目の前の真っ黒な装束がぐらりと揺れてもたれ掛かってくるのを、呆然と見ているしかなかった。
紅蓮の肩に、力なく頭と腕が落ちる。
顔は前髪に隠れて見えなかった。薄く開いた青い唇だけが見えた。
彼の細い肩越しに突き立っている物が見えた。
錫杖が昌浩の背中から生えていた。
丞按がけたたましい哄笑を上げた。その手が柄を捻り、錫杖を抜き取る。体温が下がった冷たい腕が震え、動けない紅蓮の肩を滑り落ちていく。
仰向けに転がった彼の下から、真っ赤な血溜まりが広がっていった。
紅蓮はただ目を見開いていた。
紅蓮さんがだんだん覚醒してきた…と思った矢先。びっくりです。
頑張れ昌浩頑張れ紅蓮!
という気持ちです、はい。
暑くなってきたので、体調などお気をつけてください。いつまでも更新、楽しみにしています。では!
昌浩くんには辛い展開がずーっと続く形になりますが、見守って頂けたら幸いです。
ちなみに騰蛇さんにはこのまま覚醒し続けてもらう予定です(笑)この男のデレはしつこいので。