「まっ……!」
どうしようもない既視感が紅蓮の肺を満たしていく。心臓の周りで渦を巻く。まだ半刻も経っていない過去が明滅する。伸ばした腕を無力感と絶望が掴んだ気がした。
ようやく手に入れたものを奪われる予感に、指が震える。
(俺は――)
彼を救うと決めた。他でもない紅蓮自身が決めた。言葉にしないだけで、それは誓いだった――ならば、躊躇などするわけにはいかない。
それでも、人に対して危害を加えることはどうしてもできなかった。
紅蓮の手を赤く染めた罪業は消えない。もう二度も生みの親を手にかけたのだ。紅蓮の心の奥底にはいつだって重しが、枷が嵌められて、自身を痛めつけている。
今この時、三度目を犯す勇気は、紅蓮になかった。
だが――だが、誓いを破ることも、紅蓮にはできなかったのだ。
神気が渦巻く。誓いが導いていく。
勾陳に釘を刺されたばかりで動かなかった手が、欲求に従って真っ赤な火を熾す。
(……間に合え!)
一瞬で顕現した炎蛇が空を滑って、今にも落とされそうな三鈷杵へと突進した。
けれど、紅蓮は気づいていなかった。
今この瞬間にも、昌浩の瞳が凍ったまま動かないことに。
短くとも、鋭く研がれた刃が振り下ろされる。防ぐものはなく、そのまま三鈷杵は昌浩の頭蓋に突き刺さった――はずだった。
脳天に命中した、と見えたその瞬間。
鈍い音を立てていたのは三鈷杵のほうだった。刃は昌浩ではなく、見えない壁に突き立てられていた。ぐにゃりと歪んだ空間が三鈷杵を飲み込み、鋼の砕ける音が甲高く響く。
その中に、ほんの少し遅れて炎蛇が突っ込んだ。
人ならざる三つの力が一瞬だけ拮抗した。しかしせめぎ合いは一瞬にすぎず、すぐに混沌と混じりあって崩壊する。破れた堤から迸る濁流のように、霊力が丞按と昌浩の間で爆裂した。
「……っ!」
昌浩の小柄な身体が、爆風に耐えきれずに吹っ飛んだ。微かな悲鳴。宙に舞う赤。それを目にし、紅蓮の心臓がぎゅっと絞られる。
腕を伸ばしたままに紅蓮は駆け出した。昌浩が地面に叩きつけられる直前に、すくい上げるようにしてなんとか受け止める。抱えながら身を起こすと、昌浩は意識を失うことなく戦意を両眼に漲らせ、素早く立ち上がった。
「昌浩、」
「平気だ」
きっぱりと、彼は振り向きもせずに短く切って捨てる。額はぱっくりと割れ、鮮血がだらだらと零れ落ちているにも関わらず。が、それとは別に、微かに漂ってくる鉄臭を紅蓮は察知した。その出所も。
燃えるような焦燥が紅蓮の心臓を掴んだ。
彼の古傷が、再び開き始めている。
神将でなくとも嗅ぎ取れるほど強まっていく血の臭いが、やがてそれだけに留まらないだろうことは容易に想像がついた。――残された時が多くないことも。
じきに昌浩は動けなくなる。
それは確信だった。
思わず、紅蓮は昌浩の腕を引き留めていた。
大きな目が掴まれた腕に向く。ついで紅蓮へ。
共に口を利かぬまま、二人の視線が数瞬絡み合った。
永遠にも思えた沈黙が続くが――それを破ったのは紅蓮だった。
「俺が――」
紅蓮の唇から言葉が零れる。彼はそのまま続けようとした。
が、それは中途で切れて転がった。
(――俺が、代わりに、)
代わりに。
代わりに、何をするのだ?
突発的に口を突いて出た衝動は、伴ってこない覚悟をあざ笑うように胸中で渦巻いた。唇も、舌も、凍り付いたまま動こうとしない。額を飾っている金冠がひどく冷たく感じられた。心臓が耳の近くで痛いほどに鳴り響く。こんなに急かされているのに、脳は痺れてまともな思考を行わない。
覚悟が足りない。
理を犯す勇気も、踏み出した先の荒れ地を踏破する覚悟も、今の紅蓮には絶対的に足りていない。
昌浩のほうが紅蓮よりも、ずっとずっと強い覚悟で臨んでいた。彼は最初からこうなることを予想していたに違いない。だからこそ、全ての容赦も躊躇もかなぐり捨てて、慈悲の欠片もなく力を奮うことができるのだ。
紅蓮が黙りこくってしまった間、昌浩は何も言わずにただ見上げていた。しかし動揺の見られない双眸がふと瞬き、背後を振り返る。
「騰蛇はそこにいて」
言うなり彼は駆けだした。
つなぎ止めていたはずの紅蓮の腕を、ひどくあっさりとふりほどいて。
言霊も何も込められていないはずなのに、その音は紅蓮の足を縫い止めて放さなかった。
◆◆◆
昌浩と同じように爆炎に押されて吹っ飛んだ丞按は、けれど昌浩のように無様に転がったりなどはしていなかった。僧衣の裾を翻して着地するなり右手で三鈷杵を構え、生き残った幻妖が神将たちの視界を塞ぐよう操る。八体もの怪物が主人を守護するように展開し、大きな体躯で僧の姿を隠した。
六合と勾陳がそれぞれの武具の切っ先を向けるが、幻妖の間合いを読めずに踏み込めないでいる。戦況が膠着しかけた、その時だった。
「勾陳、貸して!」
紅蓮から身を離した昌浩が駆け抜けざま、地面に突き立ったままだった筆架叉の片割れを引き抜いた。その横を太い炎蛇がさっと追い越し、幻妖の一体に牙を立てる。毛皮の焦げる臭いと共に、耳障りな唸り声が銅鑼のように響いて獣の群がざわめいた。
幻妖たちが動く。
炎蛇に巻き付かれた幻妖がぶわりと妖気を迸らせた。赤い焔が弾けて消える。同時に、群から離れた二体が頭から六合たちに突っ込んできた。
躱すは容易い。だが前線の二人が幻妖の突破を許してしまえば、背後の結界で守られている中宮への接近を許してしまう。
六合と勾陳の神気が膨れ上がった。それぞれが真っ正面から幻妖の牙と爪を受け止める。力押しで負ける気は毛頭なかったが、質量の差は如何ともしがたかった。高まった神気が幻妖の表皮を鋭く裂く。闇色の毛の下から現れた桃色の肉がすぐに真っ赤に染まる、にも関わらず、幻妖は戦意を落とさなかった。
ぐわりと開いた大きなあぎとは、勾陳の筆架叉一本だけで防ぐには分が悪い。苛立ちにまみれた彼女の眼が、一瞬だけ金色に輝いた。
十二神将二番手の甚大な通力が、圧倒的な衝撃と共に炸裂する。
六合が押さえていたもう一体の幻妖も巻き込んで、衝撃波が地面を立ち割った。すかさず横手から紅蓮の炎蛇が飛び込み、深手を負った幻妖に燃え盛る牙を差し込んでいく。
一方丞按を押し隠す幻妖たちに動きはない。仲間がやられていくのを唸りながら眺めているだけだ。
その場所に、昌浩はまっすぐ突っ込んでいった。
武器など持ったことはなかった。そもそも天狐は妖であるから、武器など必要ではない。誇るべきは自身の霊力と肉体であり、道具の使用などは無粋の極たるものだ。あの凌壽だって、その範疇にまだ収まっている。
初めて手にした武器。扱い方など、まるでわからない。
だが、武器を手にすることで霊力の御し方に変化が起きることは知っていた。
走りながら筆架叉に力を込める。神将の武器であるその刃は、思っていたよりもすぐに天狐の霊力に馴染んだ。白炎が陽炎のように刀身にまとわりついていく――十分に練ったその霊力を、昌浩は一動作で解放させた。
まるで鉄砲水だった。怒濤の如く白炎が広がる。一文字に薙ぎ払われた刃の軌跡を追って、放射状に広がっていく。洪水のように、全ての幻妖を飲み込んでいく。
獣たちが甲高い悲鳴を上げた――消滅はしない。丞按に与えられた妖力のおかげだ。ただ、代わりに炎に炙られて動作が緩慢になっている。
十二神将にとっては、それで十分だった。
勾陳の一撃で深手を負わされた幻妖の一体が起き上がる。太い四肢は先ほどよりも明らかに重みを増していた。その真上に影が落ちる。
「―――っ!」
鋭い呼気と共に、幻妖の頭蓋に筆架叉が根本まで埋まる。幻妖の全身がびくりと痙攣した。
筆架叉を手放した勾陳は間髪入れず地面に降り立ち、その長い足を振り抜いた。藍色の帯が弧を描き、踵が幻妖の頸椎を蹴り砕く。
同時に、もう一体の幻妖の首が銀槍によって切り落とされた。
幻妖たちは確実に弱体化している。
丞按を取り囲む幻妖の一角にも、白銀の龍が炎鱗を撒き散らしながら絡み突いていた。じゅうじゅうと肉の焼ける音と異臭が立ちこめ、とぐろに巻かれた獣がもがき苦しむ。すぐに動けなくなり、炭化した幾体もの骸が転がる。
幻妖の群が破られたことで間隙が生まれた。昌浩はただひたすらに、丞按だけを目指してそこを駆け抜ける。僧の姿は目前だった。幻妖も無視して、間をすり抜ける。
背後は考えなかった。
何事か真言を唱えながら、丞按は三鈷杵を逆手に構えている。逆に昌浩は筆架叉を構えなかった。何も持っていない左手を振りかぶる。振りかぶって、手を伸ばす。
その手のひらに霊力が輝くのを見切った丞按は、三鈷杵を昌浩の手に突き刺すように振るった。
「――サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン!!」
しかし。
勝敗を決する瞬間は、やはり呆気ないものだった。
「砕!」
たった一言。たったそれだけの言葉に込められた言霊が、不動明王の真言を打ち砕く。
耐えきれず三鈷杵が破片と化して爆ぜた。手の中の確かな手応えを失って、丞按が呆然とする――その腹を、筆架叉が刺し貫いた。
「がっ……」
羅刹の力を解き放ったときは違う灼熱が、丞按の胃の腑を焼いてこみ上げる。嘔吐感に負け、彼は思わず口を開けた。口腔を熱い液体が満たしていく。鮮やかな血液が、嫌な音と共にごぶりと吐き出される。
刃はなおも押し進められていた。
頭上から滴り落ちる鮮血が昌浩の額を濡らす。それでも彼はやめなかった――片目に血が入って見えなくなっても、髪が赤く染まっても。
筆架叉の刃が根本まで肉に埋まるまで、全身の力を振り絞って。
神将たちがその光景を目にしたのは、最後の幻妖を倒し終えたその時だった。
さっと紅蓮の顔が青褪める。駆けつけようと足を踏み出す。が、昌浩自身の制止によって阻まれた。
「来るな……!」
髪も、顔も、真っ赤な血に染まった昌浩が苦しげな声を発した。鉄臭にまみれた体にあるのは擦り傷だけ。彼自身は重傷ではない。わかっているのに、赤い色は紅蓮の記憶を否応なしに呼び覚ます。どうしようもなく心拍は高まっていく。嫌な予感しか降りてこない。
昌浩の両腕は丞按の堅い手によってがっしりと掴まれていた。
「……ら、せつ」
丞按の顎から血泡が垂れる。ひゅうひゅうと喉笛を鳴らしながら、丞按はまだ立っていた。そうしている間にも、昌浩の白い肌は丞按の血液によって汚されていく。その血が、不自然にぶくりと蠢いた。
「羅刹よ……こいつに……」
両腕が咄嗟に跳ねそうになるのを、昌浩は無理矢理押さえ込んだ。
丞按の血が、意思を持って流れ出ていく。昌浩の首の古傷から侵入を果たそうとしている。丞按の、最後の呪詛だ。
今すぐにでも筆架叉を手放して解呪したくなる。全力でその本能をせき止め、昌浩は震える声で言霊を絞り出した。
「消えろ…!」
同時に、全身の霊力を筆架叉を介して流し込む。丞按が――羅刹鳥が――耳障りな悲鳴を上げて仰け反った。この世のものでない、人間ではあり得ないものの絶叫。首の傷から広がっていた、植物の根のような呪いがぱきぱきと砕けていくのを昌浩は感覚した。呪詛の流れを手繰り、遡り、丞按の体内に渦巻く瘴気を消し去っていく。同時に、彼は滑る手で筆架叉を持ち直した。刃を横に倒し、押し広げる。傷口を横に裂いて、空気を入れる。
確実な「死」を、この男に与えてやりたかった。
……やがて、長く響いていた悲鳴が途切れた。
丞按の両手が重力に従ってだらりと外れる。上背のある頑健な体が揺れて、崩れ落ちる。
のしかかってくる死体を支えきれずに、昌浩は丞按と折り重なったまま、仰向けに転倒した。
もう丞按さんには当分会いたくない…
今回は休み休み書いてたので、部分部分で微妙に文章の書き方にバラつきがあります、すみません…私などまだまだ精進が足りませんよ。もっと上手く書きたいですね!
今回もコメありがとうございます。メリクリですー。
サイトの方にもサンタさんがプレゼントくるかもですよ