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 左の前腕から肉と皮膚を突き破って飛び出している白い骨を、凌壽は片膝を突いてうっとりと見つめた。
「昌浩、痛むのか」
 応えはない。痛みに震える肩が微かに揺れているだけだ。
「すまないな、本当は痛い思いなんてさせたくないんだ……信じてくれるよな?」
 甘ったるい猫撫で声をかけながら、凌壽はゆっくりと昌浩に手を伸ばした。
「そんなに痛いんじゃ困るだろう。……さっき死んだ時に、そのままでいたらよかったのになあ」
 うつ伏せの昌浩の襟首を掴み吊り上げる。抵抗はなかった。だが、うっすらと瞼を開いて、苦痛に眉を寄せて、彼は真正面から凌壽を睨みつけていた。
 その黒瞳の中には、まだ白い焔が燃え上がっている。
 凌壽はひっそりと笑みを深くした。
「お前の死を感じたぞ。確かに感じた。これで終わりと思ったものさ、だってここには何もないからな。俺がそう創ったんだから。なのに、なんでまだ生きている? おかしいよなあ。……当ててやろうか」
 濁った鉛色の瞳が背後に向いた。それに気づいた昌浩の眉が吊り上がる。笑いながら、薄い唇が囁いた。
「あの男を殺しかけたんだろう?」
「……っ!」
 ぱん、と乾いた音が響いた。
 寸前まで全く動かなかった右手で凌壽の頬を張り飛ばした昌浩は、肩で大きく息をしながら凌壽を睨み上げていた。視線が武器になるのなら、そのまま射殺せそうなほど殺気を込めて。
 凌壽は打たれた頬を押さえようともしなかった。赤くなった肌がすぐに元の色を取り戻す。
 彼はにこりと微笑むや否や、昌浩の腹を蹴飛ばした。
 凌壽の手から離れた小さな体が地面を転がりくの字に折れ曲がる。息が詰まったのか、昌浩は胸と腹を押さえて肩を震わせていた。
 一部始終を目撃していた紅蓮の頭が燃え上がるように熱くなる。体の奥底から得体の知れない何かが沸き起こり、彼の全身を満たしていく。同時に、尽きかけていた神気が体の裡に僅かに蘇った。
「なんだ、図星か? 怒るなよこれくらいで」
 立ち上がった凌壽は昌浩に再び近づき、その体を足蹴にした。もはや呻き声すらたてることのできない昌浩は簡単に転がってしまう。その時、凌壽の視線がちらりと紅蓮へ向いた。
 その目は明らかに、紅蓮の焦燥と怒りを楽しむものだった。
 紅蓮は直感する。――奴は紅蓮の反撃の可能性も、何もかも承知の上で昌浩を嬲っている。
 それを防いでみせるという、確固たる自信があるからだ。
 凌壽は再度苦悶する昌浩へと視線を戻し、意地悪く問いかけた。
「そうそう、丞按はどうした。奴の姿が見えないぞ? 殺したのか?」
 びくりと昌浩の手が震え、拳を作る。あからさまな動揺を凌壽が見逃すはずもなかった。矢継ぎ早に、言葉という名の鋭い刃が突き立てられていく。
「確か十二神将っていうのは人間を傷つけちゃいけないんだろう? ならどいつが丞按を殺ったんだろうな。あそこで俺を睨んでる怖い奴か? いや、どうも違うなあ」
「……黙れ」
 昌浩がやっと言葉を口にする。
 痛みとは別の震えが、彼を襲っていた。
 砂と血が残る昌浩の頬に凌壽の指が伸びる。いっそ優しいほどの触れ方をして、血を拭うように長い指が這った。
「人の臭いのする血だな、昌浩」
「――っ」
 瞬間、昌浩の手に感触が蘇った。
 筋と肉を裂いて柔らかい内腑へ達した時の感覚。生臭い、噎せ返るほどの血臭。生きているものの、灼熱に等しい生の温度。
 気づけば昌浩は横を向いて、胃が痙攣するままに嘔吐していた。
 酸っぱい胃液が喉を焼く。食道と胃がひっくり返ったように捩れ、えずきが止まらない。涙が自然と滲んでくる。
「かわいそうに、」
 咳込む昌浩を見下ろしながら、凌壽は楽しげに哄笑した。
「あんなに大事にして、仲良くなろうとしていたのになあ。昔から人里に下りて遊んでいたっけか。妖よりも人間の方を守ろうとしていたお前が、とうとう殺したのか。
 ほら、俺が言ったとおりになっただろう。それがお前の本質だ。俺と同じ、黒い忌み子の血さ。
 お前は人を愛してなどいない」
「違う……!」
「違わないさ」
 酷い嗄れ声を張り上げて昌浩が反論する。それを、凌壽は無情なまでに切って捨ててみせた。
「お前はただ、自分の体の特性をだしにして奴らと自分を同一視していたにすぎない。いくら再生できようが、痛いのは変わらないんだろう? 自分の体が傷つくのは嫌なんだろう? だから同じ弱さの人間が傷つくのを目にしたくなかっただけだ。そこに埋没して同化したかっただけさ。そして他者と割り切ってしまいさえすれば、ほら」
 黒く長い爪が、丞按の血で赤く濡れた肢体を指した。
「こんなに簡単に命を奪ってしまえるんだよ」
 咳込んでいた昌浩の黒い瞳が息を呑んで凍りつく。

 刹那、風を切る音と共に銀光が煌めいた。

 凌壽が一瞬で振り返り黒爪で受け止める。甲高い異音が皆の鼓膜を平等に乱打した。中宮を安全な場所まで避難させに行っていた六合が、窮地に駆けつけたのだ。
 銀に光る穂先を受け止められると同時、槍が反転し石突部分の刃が弧を描いて襲う。右半身構えで繰り出される突きと薙ぎが、幾筋もの銀の軌跡を残して織り交ぜられる。一呼吸しない内に繰り広げられた攻防の軍配は、しかし、凌壽へと上げられた。
 全てを防ぎきった凌壽が、一気に間合いを詰めて六合に肉薄する。
「遅いんだよ」
 眼前の嘲りに、六合の無表情が初めて微かに歪んだ。
 凌壽はそれすらも楽しんでいるようだった。
 突如、六合の周囲を真っ黒な暗闇が包む。彼は槍の柄で凌壽を牽制しつつ身を引くが、その足を闇が掬った。体勢を崩した六合の全身に闇が絡みつき、地面へと引きずり倒す。ぶちりと音を立てて闇が千切れ、滲むように凌壽の元へと還っていく。
 邪魔者を片づけ、凌壽はつまらなさそうに髪を払った。
「まったく、しぶとい連中だな」
 転がった昌浩を軽く蹴飛ばし仰向けにする。凌壽の右人差し指から、爪が音を立てて伸びた。長い刃と化したその爪を、凌壽は無造作に昌浩の細い右腕へと突き立てた。
「っあ……!」
 悲鳴が上がる。
 爪は肉を貫通し地面まで至っていた。ぶるぶると痙攣する腕、その傷口から血が溢れ出す。無邪気な子供が戯れに虫を針で縫い止めるような、残酷な仕打ちだった。
 もがけばその分痛みが倍になって返ってくる。最早抵抗のみならず行動すらも制限され、苦痛を享受するよりほかにない。
 甘い絶望が昌浩の心臓にひたひたと押し寄せる。
 だが、それでも、彼は――凌壽を睨みつけるのをやめなかった。
 ひたむきといってもいいだろう眼光に満足げに微笑して、凌壽は口を開いた。
「さて、どう料理してやろうか。手足をぶち折るのは――昔にやったっけな。切り落とそうか? いくらお前でも、そこまでやったら難しいだろう。……それとも、」
 硬質な音を立て、爪が根本から折れる。
 凌壽は自由になった人差し指からまた爪を伸ばして、昌浩の襟首を鋭い切っ先でなぞった。
「あいつらの目の前で辱めるのもいいかな」
「――っ!!」
 昌浩が深く呼吸をして、双眸に灯った焔が激しさを増した。
「……殺してやる……!」
「おやおや、実の兄に酷い言い種だな」
「――俺はもう、お前の弟なんかじゃない……!!」
 血を吐くような、殺意と憎しみのこもった唸り。
 昌浩の口から放たれた言霊とは思えない、凄絶な殺意。
 それとは別の衝撃が、一部始終を見守ることしかできない神将たちを揺さぶっていた。

 誰もが耳を疑っていた。
 凌壽が、昌浩の兄なのだという事実に。

 機嫌良く笑いながら、凌壽は自らの弟を見下ろしていた。その指がぱちんと鳴ると、昌浩の体がゆっくりと浮き上がる。爪先が地面から離れ、砂地に赤い液体がぼたぼたと零れた。霊力で拘束され指一本動かせない昌浩の胸元に、舐めるような鉛色の視線が注がれる。
 汗みずくの真っ白な顔で、ひゅうひゅうと喉を鳴らしながら、昌浩は凌壽を睨めつけるのをやめなかった。
「抵抗するなよ。分かっているとは思うが、抵抗したら」
 凌壽が顎をしゃくってみせた。
「一匹ずつ殺してやる」
 昌浩が唾を嚥下して、必死に息を整えようとしている。紅蓮は地に伏しながらその様子を見上げていた。
 黒い帯に吸い取られないよう、細心の注意を払いながら深奥で高めている神気はまだ術を破るほど強まっていない。時が足りない――
 ぎりぎりと歯を鳴らしながら焦燥にかられていた紅蓮は、その時はっと息を呑んだ。
 凌壽の肩越しに、昌浩が紅蓮を見つめていた。唇を引き結んで。だが責めるのでもなく、泣きそうなのでもなく、怒りでもなく――いっそ穏やかと形容してもいい、透明な表情をして。
 それは真摯な眼差しだった。
 すぐにその視線は外され、凌壽へと戻る。微かに眉を寄せて睨む表情に紅蓮は不吉な物を感じた。酷く嫌な感じだった――大声を出して彼を止めたかった。しかしそれができないほど紅蓮の力は奪われていた。
 凌壽が最前までの様子とは打って変わり、ぞっとするほど静かな声音で問いかける。
「最後に何か言い残すことはあるか?」
 ゆっくりと深呼吸をして、昌浩は凌壽へと目を合わせた。
「――俺はお前とは違う。だから俺はお前の糧にはならないし、誰もお前の糧にはならない」
 ほんの少し、凌壽が瞠目する。彼は目を伏せ、静かに呟いた。
「……そうか」

 途端、鈍い音が空気を引き裂いた。

 真っ赤な液体が花のように散る。降り注ぐ花弁が砂に染み込んで黒くなる。貫かれた昌浩の細い肢体が衝撃に揺れ、垂れ下がった手足がびくびくと痙攣する。
 薄い胸郭を突き抜けて見える血塗れの腕には、仄白い玉が握られていた。
「――っはははは!!」
 癇に障るひきつった声が大笑する。
 凌壽が腕を振ってごみのように昌浩の骸を足下に叩きつけた。その拍子に昌浩の髪を結わえていた紐が切れ、地面に長い頭髪が散らばる。胸からは血が止めどなく流れ、砂が吸い切れずに大きな血溜まりを作っていく。
 出来の悪い人形のように放り出された昌浩は、目を見開いたまま口元を真っ赤に染めていた。
 即死だった。
 ほんのりと発光している薄蒼い天珠を手中に収め、凌壽は舌先を伸ばした。熱に浮かされたように、恍惚と残った血糊を味わう。
「ようやく手に入れたぞ……ああ、長かった」
 あれほど執着していたはずの昌浩に目もくれない。凌壽の眼中にあるのは天珠だけだった。
 歓喜にうち震えながら、彼は明滅する天珠を清めていく。
 直後、
「……ああああっ!!」
 その背後で巨大な火柱が噴き上がった。
 金属の砕ける音と共に膨大な神気が弾け飛ぶ。撒き散らされる熱が凌壽の血色の悪い肌を焼いた。振り返ると、黒髪を焼き切った赤い神将が白い炎に包まれ、真紅の眼光を凌壽に突き刺していた。
 額を飾る金冠に細かな罅が入り、今にも砕け散りそうである。
 仲間の神将の呪縛も炎によって弾け飛んだ。素早く立ち上がり体勢を整えた三人の神将が一斉に武器を出す。
 凌壽は見せつけるように天珠をぺろりと舐めた。
「俺は今機嫌がいいんだ。見逃してやるよ」
「貴様……っ!」
 炎を操る神将――紅蓮が歯軋りするや否や、一足飛びに間合いを詰めて手のひらを翳した。鉄すら溶かし尽くす煉獄の炎を、直接凌壽にぶつけるつもりなのだ。
 しかし、凌壽にはもう神将たちと戦う理由がない。彼の目的は既に達した。昌浩の心臓、天珠は彼の手の内にある。今更無用な戦いをする気などさらさらない。
 薄く笑ったまま、凌壽は跳び退こうとした。その瞬間だった。
 がくんとつんのめり、彼は完全に意表を突かれて驚愕した。
 片足を地面に縫い止めている何かがいる。凌壽の足首を掴んでいる何かが。驚きのままに見下ろすと、
 そこにいたのは、絶命した筈の弟だった。
「馬鹿なっ……」
 見開いた目には生気がない。死者の虚ろな暗闇が見当違いの方向を向いているだけだ。胸には大きな穴が空いて虚を晒している。口元からは口腔に残った血が未だ零れ落ちていた。奪い取った天珠は――天狐の力の源/心臓/魂は――物言わぬ肉体から遠く離れ、確かに凌壽の手にあるというのに。
 それなのに、死体の右手が信じられないような力で凌壽の足首を握りしめていた。
「この……!」
 ひとりでに動きだした骸の存在は、凌壽にとって全くの計算外だった。その動揺を十二神将が見逃すはずもない。間合いの遙か彼方から放たれた、光輝く神気の刃が凌壽に命中する。間一髪の所で築かれた霊壁が凌壽を守るが、攻撃と対消滅を起こして消失する。
 次の瞬間、燃え立つ白銀の龍を纏った貫手が目にも止まらぬ早さで凌壽の脇腹に突き刺さる。同時に――昌浩の骸が自動的に吸気の術を発動させた。

 薄暗い世界に、天狐の絶叫が響き渡る。

 生気を吸われ、内腑を煉獄の炎で灼かれ、凌壽が苦悶のままに髪を振り乱した。その足下の昌浩は目を見開いたまま、どことも知れぬ虚空を映している。だがその胸に空いた穴や身体に刻まれた傷が、桃色の肉を生んで急速に塞がっていく。右腕に刺さったままだった凌壽の長い爪が肉に押され、地面に転がった。
 質の悪い悪夢を見ているような、異様な光景だった。
 胸郭の虚が完全に埋まり、皮膚が表面を覆う。そこでようやく、昌浩の全身を包んでいた燐光が蛍火のようにぱっと散って消えた。
 深呼吸二回分ほどの、僅かな間の出来事だった。
 昌浩の指から力が抜ける。束縛から解放された凌壽が力を振り絞り、紅蓮の右腕を掴んだ。その鉛色の双眸が殺意に漲り、目の前の男に焦点を合わせる。未だ臓腑を灼く神将を睨み、凄絶な笑みを浮かべた。凌壽の身に戻ってくる妖力に操られ、その右手が掴んでいる天珠が淡く発光する。
 瞬間、紅蓮の体躯を隠れ蓑にして接近していた勾陳が、凌壽の死角から筆架叉を振り下ろした。
「かっ……!!」
 凌壽が両眼を見開いて仰け反る。
 注意力が削がれていた為であろう、刃はやすやすと凌壽の右肩へと食い込んだ。迸る神気が骨を断ち、空中高くに凌壽の腕と血を撥ね飛ばす。紅蓮が凌壽の腹から腕を引き抜き、地面を蹴った。断ち切られた右腕を掴み取り着地する。
 身体から離れてもなお、凌壽の腕は名残惜しげに天珠を握りしめていた。その小さな玉を紅蓮が毟り取る。用済みとなった腕を一瞬で灰塵へと変え、彼は凌壽へと向き直った。
 勾陳と六合の刃を避け後退った凌壽は、溢れ出る血を押さえながら憎々しげに神将たちを睨み返していた。やがてその視線が紅蓮の握りしめる天珠へと向けられる。
 一度は手に入れたものを奪われ、怒り心頭に達しているようだった。
「貴様……覚えておけ」
「いつでも来い。返り討ちにしてやる」
 冷え冷えとした応酬が交わされる。紅蓮も、凌壽も、共に眼光鋭く殺気と悪意に満ちていた。
 炎の闘気が一際大きく膨れ上がる。凌壽が舌打ちし、身を翻らせた。痩躯が薄闇に溶け消え失せる。
 人界へと逃げたのだ。
 異空間の中から凌壽の妖気が消失する。確信が得られるまで辛抱強く構えを取っていた紅蓮は、すぐさま昌浩へと駆け寄った。
「昌浩……!」
 一番近くにいた六合が目を閉じたままの昌浩を抱き起こし、口元に手を翳す。が、彼はすぐに首を横に振った。
「息をしていない」
 こんな時でも無感動に響く声音が、無性に心に爪を立てた。
 喉がひりつくように痛い。唾を飲み込むことすら苦痛になる。紅蓮は破れた服の上、薄い胸元に手のひらを当てるが、心臓の鼓動を感じることはできなかった。
 それもそうだ。昌浩の心臓は、今紅蓮の手の中にあるのだから。

 ――凌壽に貫かれる直前の昌浩の瞳を、紅蓮は思い出した。
 あの透明な眼差し。あの色に乗せられていた感情。悲痛な叫びでも、絶望でもない、真逆の声。
 あれは覚悟だった。そして信頼だった。
 彼はきっと、確信していたのだ。

 紅蓮が己を助けてくれるのだと。

「……っ」
 衝動的に、紅蓮は昌浩の手を取った。天珠を彼自身の手で握らせる。あるべき場所にあるべき物を戻したかったが、傷が塞がっていては戻せない。だからせめて、一番近い場所へ彼の魂を置いてやりたかった。
 どれくらいの時間がかかったのか、この時紅蓮は覚えていなかった。永遠に等しい程伸ばされた瞬間の中でせめぎ合う絶望と希望が心を千々に乱していく。耐えるしか術はなかった。直感で取った行動が、自身の望む結果へと繋がるよう祈るしかなかったのだ。
 やがて。
 ぶるりと昌浩が痙攣し、横を向いて血を吐いた。気道に入り込んだ血を噎せながら吐き出すその顔色は、だんだんと血色を取り戻している。
 安堵で全身から力が抜けながら、紅蓮はほっと息をついた。
 彼は助かったのだ。
 呼吸も霊力も体温も何もかもが弱まっているが、昌浩は生きている。
 ようやく周囲を見回す余裕ができ、紅蓮は視線を上げた。退避させていた中宮は、いつの間にか勾陳が抱き抱えて連れてきていた。そんなことにも気づかないほど、昌浩に集中していたことにようやく気づく。
 六合がそっと、そんな紅蓮に昌浩を差し出してきた。
「……すまん」
 寡黙な神将の鳶色の瞳が、はっきりと丸くなった。驚いているのだ。自然に口を突いて出ただけだったのに、どこか居心地が悪くなる。ただ礼を言っただけだというのに、こんな反応をされるのは理不尽ではないだろうか。
 目を逸らしつつ、紅蓮は昌浩を受け取った。その時だった。
 石を鑿で削り取るようなはっきりとした破砕音が耳に入り、一同は宙を見上げた。一定の間隔を置きながら、音はだんだんと大きくなっている。足下からは細かな振動が起き始めた。――これも時が経つごとに強まっている。
 空間の創世者である凌壽が消えたために、異空間が崩壊を起こしているのだろう。
「まずいな」
 六合がぽつりと呟いた。その視線はすぐ近くにある空間の歪みへと向けられている。
「脱出するぞ」
 勾陳が皆に声をかけ立ち上がらせた。像が歪む辺りに手を翳し、神気を発して探る。繋がっている先が人界でなく、全く違う異空間だった場合を危惧しているのだ。しばらくして彼女は同胞を振り返ると頷いて、道を確保するために神気を注ぎ始めた。
「間違いなく人界に繋がっている。騰蛇、お前から行け。私は殿になる」
「……わかった」
 異音はますます酷くなり、彼らの背を押すように急かしている。
 紅蓮は腕の中の昌浩に目をやった。口元を汚しているが、呼吸は正常に戻っている。だが覚醒する気配はない。この容態で位相の異なる空間を通り抜けられるかどうかはわからなかった。
 しかし、いつまでも留まっていられないことも彼はよくわかっていた。
 意を決し、昌浩を抱き直す。次元の回廊へと足を踏み出し、紅蓮は真っ白な光の渦へと身を投じていった。

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 土塚理弘先生を激しくリスペクトする初心者デュエリスト。腐女子の前にオタク。最近は遊戯王にハマっています。
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