自分が生まれた時のことを詳細に覚えている生き物は少ないと思う。
いや、幼子は別だ。幼子は母親の胎の中にいた頃のことも覚えている場合があるのだそうだ。ただ長ずるにつれ、皆幼い日のことを忘れていくのだという。
俺も同じだ。けどひとつだけ、生まれ落ちた瞬間に感じた感情を明確に覚えている。
それは、恐怖という感情だった。
俺が生まれたその日、夜空には凶星が光輝いたらしい。一族の殆どは慄いたそうだ。だが両親と姉と兄、そして一族の長は動じなかった。慈悲深いと称される天狐という種の大半が生まれてすぐの俺を縊るよう長に進言したが、長は首を縦に振らなかったそうだ。もし長が俺の抹殺を宣言していたと思うとぞっとする。両親と姉はきっと死に物狂いで抵抗したに違いない。あのひと達は優しいひとだったから――天狐族全てを敵に回して、同族殺しの汚名も被って、血が穢れるのも厭わなかったに違いない。
それに、姉は天狐の中でも史上最強と噂された強い天狐だった。大陸全土の支配を企む九尾の魔の手を退けていたのは彼女だった。その姉をこの混乱の時期に長は失いたくなかったのだろう。
長は俺に忌み名を付け、俺を生かす道を選んだ。通り名は姉が付けてくれた。姉がよく訪れていた島国の読みらしい。その国では大陸と同じ文字が使われているが、話し言葉は違うのだそうだ。一人皆と違う読みを与えることで、俺が守られるようにという配慮らしい。
忌み名を知っていたのは、俺自身と両親、姉、そして長だけだった。家族の中で兄一人だけは俺の真名を知らないことになる。兄はずいぶんと家族と長に文句を言ったようだが、長は全てを突っぱねた。まったく、長には感謝してもしきれない――兄に俺の忌み名が伝えられていたら、多分俺はとうにこの世にはいなかっただろう。
天狐は皆白銀の頭髪で、変化すると真っ白な白狐となる。だが兄と俺だけは黒髪で、変化すると犬のように黒かった。皆は多分、俺が兄と同じ性質を持って生まれたのではないかと疑っていたんだろう。
兄は異質だった。一族の中にあって唯一残虐で酷薄な男だった。生まれたとき、俺が真っ先に感じ取った恐怖――あれは、兄に対する怖れだった。俺とは種類の違う異質さが、兄にはあった。
赤ん坊の頃から俺は兄に怯えていたらしい。兄が近くにいると火が点いたように泣き、妖気を感じ取っただけで母に縋りつく。近寄ると泣き喚く子供のことなんか嫌いになればよかったのに、何故か兄は度々俺に接触したそうだ。どうも泣く俺の顔を見て機嫌良さそうに笑っていたらしい。まったく、よくわからない男だ。
話しも走れもするようになる頃まで成長すると、俺は兄が近づいても泣きはしなくなった。この頃からなら朧気に記憶が残っている。そう、俺は兄を怖がってすぐに他人の影に隠れてはいたが、泣きはしなかった。真っ黒い闇色が俺を飲み込もうとして笑っているのを感じ取っていたが、家族が守ってくれると信じていたからだ。やがて一対一で接しても、虚勢ではあるが平静を保てるようになった。その頃はまだ、兄は俺に対して何の危害も加えようとはしていなかったからだろう。
そんなある日のこと――俺が七つ年を数えた頃だっただろうか。俺は里を一人抜け出して、離れた山の崖地で遊んでいた。同年代の子供などいなかったから、基本的に一人で遊んでいたことが多かったように思う。その日も一人きりだった。一人で遊んでいて、俺は足を滑らせて、崖下に転落したのだ。
普通の天狐だったら、幼子といえど丈夫な体のおかげで擦り傷と打ち身程度で済みすぐに回復するだろう。だけどあいにく俺は普通じゃなかった。崖から落ちて、俺は背骨を折って不随になりかけたのだ。
痛みで悲鳴を上げていた俺をまっさきに見つけたのは兄だった。無意識に上げていた魂の呼び声が届いたんだろう。兄はゆっくりと茂みをかき分けながら俺に近づき、しゃがんで俺を覗きこんだ。じいっと観察して、し終えて、あいつは、ぽつりとこう言ったのだ。
「なんだ、もう死ぬのか」
俺はその時あんまり痛かったから、詳しいことなんて覚えちゃいない。けどあの時、兄は道ばたの塵でもみるような軽蔑の視線を俺に向けていた。失望の、眼差しだった。
兄が俺になんの期待をしていたのか、俺は知らない。知らないけど、推し量ることはできる。兄は自分が異質であることをよく知っていた。だから仲間が欲しかったんだろう。そして俺は、その唯一の候補者だった。
しかし期待は裏切られ、兄は俺に興味を失くした。兄は倒れ伏した俺の襟首を掴むと、物のように引きずって歩きだした。森の中を突っ切ろうしてと茂みをかき分けたその瞬間――俺のもう一つの異質が初めて発現した。
兄は数瞬前に感づいて手を離したおかげで命拾いをした。跳びすさり、離れたところから俺を眺めている兄の目の前で木々や草花は枯れていった。俺は温かい奔流を全身で受け止めながら、薄れていく痛みを不思議に思っていた。やがて激痛が完全になくなり、驚きながら身を起こして周囲を見回すと、森の中で俺の周りばかりがぽっかりと死の荒れ地になっていた。
困惑しながらも、兄に手を引かれて俺は里に帰った。兄が目の前で起きた出来事を両親に報告すると、両親は慌てて長に相談しに行った。すぐに俺と兄も長の前に連れて行かれ、そこで俺は自分の異質を二つ知った。
一つは、俺の体は人間並に弱いということ。
もう一つは、俺は他者の命を喰らうことで自らの体を急速に癒すことができるということだった。
人と同じ強さしかないからこの能力が備わったのか、それとも能力が備わったから人と同じ強さを持つ形になったのかはわからない。もしかしたら他の理由があるのかもしれない。長は両親にだけ何事か話していたようだったが、子供達には何も知らさなかった。後になって聞いてみたが、姉も兄も知らないといっていた。
だが、この一件で一旦は失望した兄の眼差しが変化したのは確かだ。兄は再び俺に期待する眼差しを向け、俺はそれを無視した。その頃は兄に対する嫌悪感よりも自分自身のことで手一杯だったように思う。兄に構っている余裕なんてなかった。まだ十を数えていない妖なんて赤ん坊とそう変わらないのだから、当たり前だと思う。
両親は姉と共に悩んでいたようだ。体が弱すぎて天狐として育てると成長途中で死にかねない。かといって異質な能力を制御するためには早くから霊力を育てた方がいい。三人が頭を捻っているそんな時、俺は空気を読まず質問した。「にんげんってなあに、」と。
体が弱いと言われてもちっともぴんとこなかった俺は、長に説明された人間という生き物が気になっていた。だってその生き物は天狐よりも肉体的には弱いが、寿命は数十年あるのだという。自分はその人間と同じくらい弱いらしいが、人間がちゃんと育つのなら自分だってその年月分育つはず。だから人間がどういうもので、どういう暮らしをしているか知りたかったのだ。
つたない言葉で訴えると、両親と姉は考え込んだ。しばらくしてから、姉が「自分が責任を持つ」と前置きして、俺の頭を撫でた。
姉の話した内容とはこうだった。人里近くに下りて人間を観察しながら、同時に姉の手ほどきを受けて修行をする。まずは自分の能力の把握から始め、能力を制御できるようにすること。体の使い方は人間を見ながらやってはいけないこと、やってもいいことを学ぶようにと。姉は九尾を探るために時々里の外へ出て人間の中に紛れていたことがあったから、人のことはよく知っていたんだろう。両親はその提案を飲み、俺も二つ返事で頷いた。
それから十年ほど、一族の里へはあまり帰らずに俺は人のごく近くで成長した。外見は十四歳ほどで止まってしまったけれど、いろんな村や町を周る間、見た目の年が近い子供とこっそり遊んだり、童試を受ける予定の息子がいる官僚の家に忍び込んで文字や学問を学んだり、時には東の海を越えて姉と仲のよい龍神に引き合わされたりした。その頃には俺も自分の体が他の天狐と違ってどの程度ひ弱なのか、またその不足分を補うための霊力の使い方を知るようになっていた。そして他者の命を吸い取ってしまう能力についても、ある程度理解できるようになっていた。
俺は能力を吸気の術、と呼んでいた。この能力は自分が外傷を負うと任意に発現することができる。発現には自分の手を対象に接触させる必要があり、対象の命――正確には寿命を吸収し、回復力に転化させる。寿命を切り貼りしているようなものと考えてもいい。
切り取った寿命は張り付けようとすると大半が磨耗して消えてしまう。だから寿命の短い動物に術をかけると傷はあまり回復しない。一番効率的なのは植物だった。寿命の長い樹木にかけると酷い怪我でも綺麗に直るし、運がいいと樹木自体も生き残った。
だけども、生死に関わるような大怪我をした場合は強制的に使用してしまうようだった。普通だったら対象を選べるけど、意識がないから見境なしに周りから奪ってしまう。なるべく気をつけるようにと姉からは言い含められた。
正直、俺はこの能力があんまり好きじゃない。でもあるからには制御しなきゃいけないのはよくわかっていた。嫌いなら使わないように留意すべきなのだ。そんな力だけど、一つだけ、好きな点もある。最初は他者から奪うだけかと思っていたこの力は、俺の寿命をも他者に貼り付けることができるのだ。
つまり、他人の傷を癒すことができる。このことに気づいたとき俺は浮かれるほどはしゃいだ。初めて自分に価値が持てたような気がしたんだ。だって、この力は自分を癒すだけで他人を殺していくばかりだと思いこんでいたから。この力を正しく使えたら、一族の皆を九尾からさえ護れるかもしれない、そう考えた。
ただ同時に、人間と触れ合う中でもう一つの選択肢を考えるようにもなった。
俺は妖だけど、身体は人間と同じ勁さしか持たない。妖力を隠して人間の中に埋没して暮らすこともきっと可能だろう。優れている一族の中でただ一人出来損ないとして暮らす未来よりも、それはずっとずっと魅力的なものに思えた。
でも、俺はまだ子供で、しかも不安定な情勢の中ではそんな選択をすることもできなかった。
そうそう、姉に指導されながら修行を続ける中、姉の友である龍神をひょんなことから助けたりしたこともあった。あれは偶然と幸運が組み合わさってなんとか収集がついただけなのだが、以来龍神は俺のことを気に入ったようで姉から色々と話を聞いていたようだ。彼女はあの国で祀られる神々の中でも特に高い位の神なので、俺などは畏れ多くてまともに喋ることもできないのだが、姉は気安く口を利く。まったく真似できない。いくら神に通じる力を持つ天狐とはいっても、俺なんかは出来損ないの端くれだ。姉は最も力の強い天狐だから、きっと龍神は親しくしているんだろう。
そんな日々の中でも、一族と九尾の軍勢の対立は続いていた。情勢が不穏化した為俺は久方ぶりに里に帰郷し、両親と再会を喜んでいた。澄んだ空の、五月のことだった。