「騰蛇!」
声が唱和した。
同朋が倒れていく。十二神将最強たる騰蛇が、成す術もなく。
ありえないと考えもしなかった事態を目の当たりにして、二人は全身から血の気が引いていくのを感じていた。
「おいしっかりしろ、騰蛇!」
勾陳が体に手をかけ名を繰り返し呼ぶが、反応はない。いくら揺すぶってもぴくりとも動かない。
(何が――)
いきなり紅蓮が昏倒した理由がわからず、勾陳は愕然としたまま彼の大きな背を見つめた。
その時だ。昌浩に覆い被さるように倒れたその体の下で、蛍火のようなぼんやりとした燐光が漏れ出たのは。
「………!」
何度か眼にしたことのある、光。その光が瞬く時何が起きるのかを、二人はけっして忘れてはいなかった。
瞬時に真実を悟った六合の背筋に悪寒が走る。咄嗟に紅蓮を背後から抱えるようにして抱き起こすと、燐光がふつりと掻き消えた。僅かに安堵するが、ほっとするにはまだ早い。六合は紅蓮を仰向けに横たわらせると呼吸を確かめた。
「騰蛇、」
勾陳が膝を突いて紅蓮の顔を覗き込む。至近距離からの呼びかけにも答えがない。瞼を閉ざし、彼は完全に意識を失っていた。
顔色は少し悪いだろうか。だが目に付く異常といったらそのくらいで、脈拍も呼吸も正常だ。命に別状の無いことを確認して、二人は一息をついた。
「おい起きろ、騰蛇」
勾陳が容赦なしに紅蓮の両頬を張る。何度か乾いた音が響き渡った後、瞼が振動したのに気づいて彼女は振り上げた平手を止めた。ただの生理的な痙攣かと思ったが違うようだ。続いて発された呻き声が、紅蓮の覚醒を示唆していた。
金色の瞳がゆっくりと現れる。
同朋の中で最も神気の強い男が倒れるところなど、十二神将の誰もが目にしたことがない。六合と勾陳は神将の中でも冷静さの際立つ方だったが、流石に動揺を隠せずにはおれなかった。無表情を崩すことのない六合でさえ、心臓の鼓動はずっと早鐘の如く打ち鳴らされていた。
紅蓮の眼差しはぼんやりとして定まっていない。が、頭上から見下ろす勾陳と六合を認識するように視線が左右に揺れた途端、急速に焦点を取り戻した。途端彼は手を突いて勢いよく上体を起こそうとするが、失敗した。再び地面に転がりながら短く悪態をつく様子に、勾陳は呆れながら安堵のため息をついた。
「……顔が痛いぞ」
「手加減しなかったからな。悪かった」
紅蓮は両手で目を塞いだまま動かない。眼底が痛むのだろうか。
喋ることは問題ないのか、彼は続けざまに尋ねてきた。
「何が……あった」
「それはこちらの台詞だ、」
いきなり昏倒されたのだ、状況把握など二の次だった。ただ――
「昌浩は……」
二人は黙り込んだ。
紅蓮は彼らが故意に沈黙したのに気づいて頭を動かした。側頭部はどくどくと脈打ち、視界は赤い砂嵐がかかってまともに働かない。耳鳴りも酷く、勾陳たちの声も水を通したようにくもって届く。全身が気だるく力が入らない。脈動はゆっくりと治まってきているから、しばらくしたら起き上がれるようにはなるだろう。
けれどそれはどうでもいい。
自らの消耗。意識を失う直前に目にしたもの。
紅蓮は疑っていなかった。
「昌浩、」
すぐ側にいるはずの、彼の名を呼ぶ。
六合は傍らの、死体だったはずの者に目をやった。青白く鎮静していた肌。それが今や、完全に血色を取り戻して存在している。
ひくりと、細い指先が痙攣した。
(やはり)
勾陳と六合が共に息を呑んだ。
背後から腹部を貫かれた天狐は、黄泉の縁から甦っていたのだ。
おそらくは、紅蓮の寿命を対価として。
紅蓮は周囲の霊力を探っていた。五感と頭は負荷に耐えかねて悲鳴を上げていたが、その分それ以外の感覚は明瞭に働いていた。
枯れた泉が再び沸き出るように、彼の霊力が噴出していくのが感じられる。
うっすらと紅蓮は片目を開けた。暗い視界の中、砂の帳に隠れて横たわる昌浩の肢体を見つけようとして。すぐ側にいるはずの、彼に会うために。
重い手を伸ばし、紅蓮は再度呼びかけた。
「昌浩」
こんこんと満たされていく彼の霊気に触れたかった。
かけられた声に気づいたのか、ぼんやりと昌浩の黒瞳が現れる。深淵の黒を塗り込めた眼差しはつかの間天空を仰ぎ、その後視界に入り込んだ皆の顔に向けられた。意思の感じられない視線が順繰りに回る。何度か瞬きを繰り返し、彼は勾陳と六合の愕然とした表情にふと不思議そうな目を向けた。
「……どうしたの……、」
掠れた囁きが落ちる。
その囁きが昌浩自身の耳に届いた瞬間、彼ははっと両目を見開いた。
「なんで、」
双眸が同じく横たわる紅蓮に移動する。彼が、紅蓮だけが横臥していることに気づき、その幼い面がみるみるうちに青褪めていった。
唐突に跳ね起きるや否や、反射的に紅蓮に触れようとする。だが直前で火傷を負った時のようにびくりと引っ込め、昌浩は代わりに自分の肩を抱いた。
様子がおかしい。
紅蓮は無理矢理に身を起こした。一瞬砂嵐が色を変え強くなる。しかし気分の悪さは意思力で押さえ込み、彼は昌浩へと膝立ちのまま近づいた。
「おい」
けれど昌浩は怯えた目をして、逆に後退さりをするばかりだった。
嫌な音を立てて紅蓮の心臓が脈打つ。己が動揺しているのだと自覚するのに数瞬の時を要した。自覚した途端、さらに心臓が軋んで紅蓮は動けなくなってしまった。
昌浩に怯えられるのは、これが初めてだった。
他人に畏怖の目を向けられるのは慣れていた。生を受けた時から、同朋にすら怯えられていたのだから。だが昌浩は違う。彼だけは、紅蓮を恐れずに接してくれた。自身の弱い体躯が紅蓮によって傷つく可能性などこれっぽっちも考えやしないで、最初から紅蓮に接触してきたのだ。
あの時の小さな掌の体温は、今でも紅蓮の皮膚に留まっている。
だというのに、今更紅蓮に怯えるというのか。
紅蓮の何に怯えているというのだろうか。
(俺の何に)
昌浩の剥き出しの二の腕が、痕が残るほど爪を立てられている。黒瞳は紅蓮に対して向けられたまま、感情の渦がせめぎあって歪んでいた。
悲哀と怯惰――そしてほんの少しの憎悪。
その眸を、いつかどこかで目にしている気がした。
つい最近だった気もする。遙か遠く昔だった気もする。ごく近く、毎日でも見続けていたような気さえする。
そう、この眸は他人に対して向けられるものではない。これは自分自身に対して、己を厭った時に向ける目だ。
晴明を手にかけ自身の力に怯えてからずっとこの眸をしていた。無くなってしまえばいい、必要ないと金冠を施してもらっても力への憎悪は消えなかった。ごくたまに水鏡を覗くと、その中には力を厭う者が紅蓮を責めて映っていた。
だからわかった。
(――そうか)
闇色の絶望がじわじわと押し寄せて、昌浩の四肢を絡めとっている。常闇の牢獄。眼前に現れた罪。彼は償う方法すらわからず、抗うこともできず、諾々と受け入れるより他にないと信じているのだ。
いつかの紅蓮のように。
(こいつは)
知らず、腕が伸びていた。
「俺は平気だ」
有無を言わさずに昌浩の手をしっかと握りしめる。昌浩の喉がひくりと鳴り、筋肉が強ばっていくのを感じた。逃れようとする腕を引き留めて、紅蓮は子どもの両眼を正視した。
「この通り生きている。問題はない。気にするな」
「……うそ」
「ないと言っている」
「だって」
「――わからんやつだな」
昌浩の手を握ったまま、紅蓮は立ち上がってみせた。視界が一瞬だけ暗くなるが、表面にはおくびも出さない。僅かに残る吐き気にも平然と耐える。昌浩はつぶさに一連の様子を追っていた。が、何事もないかのように振る舞う紅蓮を呆然として見上げるより他になかった。
ふと、紅蓮は考えた。
(「気にするな」など)
何故さっき、そんなことを言えたのだろう。
胸を針が刺すような痛みと共に、焔に巻かれて床についていた主を思い出す。ほんの数十年ばかり前のことだ。縛魂の術に囚われて晴明を害し、術が解けて半狂乱のまま岦斎を殺した。荒ぶる焔は晴明を飲みこみ、大火傷を負わせ――紅蓮の心にも癒えない傷を刻み込んだのだ。
全身を包帯で覆った晴明の枕元で俯く紅蓮に、主は言った。
(……お前が悪かったわけではない。気にするな)
その言葉を、ずっと受け入れることができなかった。今だってそうだ。到底自分を許せるとは思っていない。けれど晴明がかけてくれた言葉を昌浩に渡すことができた。自分自身は受け入れられなかったというのに――
どうしてだろう。
昌浩が、紅蓮と同じだからなのか。
彼は己の力が他者に向くことを恐れている。紅蓮と同じに、自分の力を忌まわしいと断じている。震える昌浩の眸は紅蓮と同じように嫌悪に歪んでいた。見た瞬間にわかった。
初めはほんの少しだけ興味を持っただけだったのだ。騰蛇の神気を恐れずに触れてくるのに戸惑い、子どもの姿に動揺し、その力を警戒した。霊力以外は全く人と同じであることを知ってからは、彼からの接触が恐ろしくなった。
礼を言われてからは――その素直な好意にどう応えればいいのかわからなくて、逃げた。
失ったと思いこんでからは、喪失に怒りを覚えた。
もう認めるしかないだろう。
そうだ。俺はあの時お前に微笑まれて、嬉しかったんだ。
触れられて嬉しかった。言葉を交わすのが楽しかった。
同時に期待を裏切られるのが嫌で、お前を信じることができなくて、だからお前を拒んだんだ。
それでも期待を捨てることはできなかった。心のどこかでお前を信じかけていたから、死によって奪われることに我慢がならなかったのだ。
だが今はどうだ。逆に拒絶し返されて、俺はこんなにも衝撃を受けている。驚恐を司る最強の十二神将騰蛇が、なんともみっともない話だ。
好きだと告げられた、あの時。本当は――本当は、言葉を失うほど嬉しかったのだと、今ならわかる。
(晴明、)
俺はまだ、自分自身を許すことはできない。俺の咎は大きすぎるからだ。だがお前がくれたもののおかげで、代わりに他人を許すことができた。この子どもが傷つくことがないようにと、願うことができた。
昌浩も俺と同じように、自身を許すことはできないかもしれない。だが他人から許しを与えられたいと希むのは、おかしなことだろうか?
俺は自分を罰しながら救いを求めていた。罪深い考えなのはわかっている。それでも、どうしても、希まずにはいられなかった。
そう、俺は救われたかった。
救われたいんだ。
そして今度は、救ってやりたいんだ。
「立て」
促し、腕を引き寄せる。引っ張られるままに昌浩は立ち上がったが、その間、けっして目を合わそうとはしなかった。
紅蓮の手の中の指は、ずっと冷えきって震えていた。
「ほんとに、」
蚊の鳴くような囁き声。
聞き逃すまいと耳をそばだて、紅蓮は続きを待った。
「平気なの」
「ああ」
おずおずと、目線が上がる。瞳にありありと書かれた「信じ難い」という感情に、紅蓮は苦笑した。
それでも、冷えた手は離さなかった。
六合と勾陳は黙ったままそれを眺めていた。微かに眉間に皺を寄せているのは勾陳だ。六合はちらりとそれに目をやったが、口は出さなかった。
「昌浩、」
びくりと昌浩の肩が跳ねた。弾かれたように六合に怯えた視線が向けられる。昌浩の手が紅蓮の手を強く握り返した。恐怖に強ばった幼い顔は誰かに似ていた。そう、騰蛇とはち合わせた太陰とそっくりだった。
その事実に少し胸を痛めたが、表面にはおくびも出さず六合は続けた。
「お前の忠告を活かすことができなかった。すまない」
「……え、」
「言っただろう。離れろと」
「――ああ」
昌浩は地面に目を落とした。
戦場に向かう途中で六合に残した忠告。本人は遺言のつもりだったのだろうが、結局六合はその言葉に従うことができなかった。
「だが」
続けられた言葉に、昌浩は顔を上げた。
「実行したほうが良かったのか、俺にはわからない」
もしあの時六合が皆を遠ざけていたら、紅蓮が吸気の術にかかることはなかっただろう。ただし昌浩は甦らないまま、神将たちは異空間に取り残されていたに違いない。ひょっとしたら晴明が離婚術を使って救出にきていたかもしれなかった。それは神将たちの望む未来ではない。
結果からすれば、全員が欠けることなく救われている状態だ。昌浩が生き残った、その事実は喜ばしいことのはずだった。――なのに、これでよかったのだと断じることはできなかった。
騰蛇は確かに危害を加えられたのだから。
答えを出すにはまだ早すぎた。
「……まあいい」
ずっと沈黙を保っていた勾陳が、ため息をつくように言葉を吐いた。
「同朋を傷つけられたことは大変遺憾だが、今はどうこう言う時機ではない。騰蛇も問題はないようだしな。結論は晴明が出すだろう」
私はそれに従うまでだ、と言いおいて、彼女は紅蓮を見やった。昌浩の手を握ったままの、彼を。
紅蓮は勾陳を僅かに険のある眼差しで見据えていた。
(不服か、)
くすりと勾陳は朱唇を笑みに形作った。
あの騰蛇が!
なんと愉快な話だろうか。ほんの少し前まで冷酷非情の代名詞のようだった男だというのに、今のこの体たらくといったら。氷のように頑なな態度は、取り付く島のない刺々しい言葉はどこへ行ってしまったのか。特に子どもなど邪険にしていたはずなのに、相手が妖とはいえ手まで繋いでやっているなど!
まして気遣いまで見せてやるとは、比類なく愉快な話だった。
騰蛇の身に悪いことが起きる可能性は丁重に断りたかったが、彼の変化は好ましかった。
口では釘を刺すように昌浩の所行を非難したが、実のところ、勾陳本人に悪意はなかった。――よくよく考えれば神将に寿命などないのだから、一時的に生気を奪われて、悪ければ昏倒する程度なのだろう。十二神将最強たる紅蓮の生命力が強かったのも幸いした。当人はすでにぴんぴんしていることだし、そう深く責任を追求する気にはなれなかった。
紅蓮のデレはこれから加速しますよ! 紅蓮ヒーロー! 昌浩ヒロイン! そちらを朧月夜はモットーとしております!!(握り拳)
客観的になって、
初めて気がつくことってありますよね。
私はまだ、道の途中で
途方にくれているような気がします。
その時々で難しいとは思いますが、寄り道して草むらから道を眺めたり、もう少し頑張って歩いてみて自分の足跡を振り返るのもいいと思いますよ。
道の真中に立っていると、よくわかんなくなりますからね。