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 左の前腕から肉と皮膚を突き破って飛び出している白い骨を、凌壽は片膝を突いてうっとりと見つめた。
「昌浩、痛むのか」
 応えはない。痛みに震える肩が微かに揺れているだけだ。
「すまないな、本当は痛い思いなんてさせたくないんだ……信じてくれるよな?」
 甘ったるい猫撫で声をかけながら、凌壽はゆっくりと昌浩に手を伸ばした。
「そんなに痛いんじゃ困るだろう。……さっき死んだ時に、そのままでいたらよかったのになあ」
 うつ伏せの昌浩の襟首を掴み吊り上げる。抵抗はなかった。だが、うっすらと瞼を開いて、苦痛に眉を寄せて、彼は真正面から凌壽を睨みつけていた。
 その黒瞳の中には、まだ白い焔が燃え上がっている。
 凌壽はひっそりと笑みを深くした。
「お前の死を感じたぞ。確かに感じた。これで終わりと思ったものさ、だってここには何もないからな。俺がそう創ったんだから。なのに、なんでまだ生きている? おかしいよなあ。……当ててやろうか」
 濁った鉛色の瞳が背後に向いた。それに気づいた昌浩の眉が吊り上がる。笑いながら、薄い唇が囁いた。
「あの男を殺しかけたんだろう?」
「……っ!」
 ぱん、と乾いた音が響いた。
 寸前まで全く動かなかった右手で凌壽の頬を張り飛ばした昌浩は、肩で大きく息をしながら凌壽を睨み上げていた。視線が武器になるのなら、そのまま射殺せそうなほど殺気を込めて。
 凌壽は打たれた頬を押さえようともしなかった。赤くなった肌がすぐに元の色を取り戻す。
 彼はにこりと微笑むや否や、昌浩の腹を蹴飛ばした。
 凌壽の手から離れた小さな体が地面を転がりくの字に折れ曲がる。息が詰まったのか、昌浩は胸と腹を押さえて肩を震わせていた。
 一部始終を目撃していた紅蓮の頭が燃え上がるように熱くなる。体の奥底から得体の知れない何かが沸き起こり、彼の全身を満たしていく。同時に、尽きかけていた神気が体の裡に僅かに蘇った。
「なんだ、図星か? 怒るなよこれくらいで」
 立ち上がった凌壽は昌浩に再び近づき、その体を足蹴にした。もはや呻き声すらたてることのできない昌浩は簡単に転がってしまう。その時、凌壽の視線がちらりと紅蓮へ向いた。
 その目は明らかに、紅蓮の焦燥と怒りを楽しむものだった。
 紅蓮は直感する。――奴は紅蓮の反撃の可能性も、何もかも承知の上で昌浩を嬲っている。
 それを防いでみせるという、確固たる自信があるからだ。
 凌壽は再度苦悶する昌浩へと視線を戻し、意地悪く問いかけた。
「そうそう、丞按はどうした。奴の姿が見えないぞ? 殺したのか?」
 びくりと昌浩の手が震え、拳を作る。あからさまな動揺を凌壽が見逃すはずもなかった。矢継ぎ早に、言葉という名の鋭い刃が突き立てられていく。
「確か十二神将っていうのは人間を傷つけちゃいけないんだろう? ならどいつが丞按を殺ったんだろうな。あそこで俺を睨んでる怖い奴か? いや、どうも違うなあ」
「……黙れ」
 昌浩がやっと言葉を口にする。
 痛みとは別の震えが、彼を襲っていた。
 砂と血が残る昌浩の頬に凌壽の指が伸びる。いっそ優しいほどの触れ方をして、血を拭うように長い指が這った。
「人の臭いのする血だな、昌浩」
「――っ」
 瞬間、昌浩の手に感触が蘇った。
 筋と肉を裂いて柔らかい内腑へ達した時の感覚。生臭い、噎せ返るほどの血臭。生きているものの、灼熱に等しい生の温度。
 気づけば昌浩は横を向いて、胃が痙攣するままに嘔吐していた。
 酸っぱい胃液が喉を焼く。食道と胃がひっくり返ったように捩れ、えずきが止まらない。涙が自然と滲んでくる。
「かわいそうに、」
 咳込む昌浩を見下ろしながら、凌壽は楽しげに哄笑した。
「あんなに大事にして、仲良くなろうとしていたのになあ。昔から人里に下りて遊んでいたっけか。妖よりも人間の方を守ろうとしていたお前が、とうとう殺したのか。
 ほら、俺が言ったとおりになっただろう。それがお前の本質だ。俺と同じ、黒い忌み子の血さ。
 お前は人を愛してなどいない」
「違う……!」
「違わないさ」
 酷い嗄れ声を張り上げて昌浩が反論する。それを、凌壽は無情なまでに切って捨ててみせた。
「お前はただ、自分の体の特性をだしにして奴らと自分を同一視していたにすぎない。いくら再生できようが、痛いのは変わらないんだろう? 自分の体が傷つくのは嫌なんだろう? だから同じ弱さの人間が傷つくのを目にしたくなかっただけだ。そこに埋没して同化したかっただけさ。そして他者と割り切ってしまいさえすれば、ほら」
 黒く長い爪が、丞按の血で赤く濡れた肢体を指した。
「こんなに簡単に命を奪ってしまえるんだよ」
 咳込んでいた昌浩の黒い瞳が息を呑んで凍りつく。

 刹那、風を切る音と共に銀光が煌めいた。

 凌壽が一瞬で振り返り黒爪で受け止める。甲高い異音が皆の鼓膜を平等に乱打した。中宮を安全な場所まで避難させに行っていた六合が、窮地に駆けつけたのだ。
 銀に光る穂先を受け止められると同時、槍が反転し石突部分の刃が弧を描いて襲う。右半身構えで繰り出される突きと薙ぎが、幾筋もの銀の軌跡を残して織り交ぜられる。一呼吸しない内に繰り広げられた攻防の軍配は、しかし、凌壽へと上げられた。
 全てを防ぎきった凌壽が、一気に間合いを詰めて六合に肉薄する。
「遅いんだよ」
 眼前の嘲りに、六合の無表情が初めて微かに歪んだ。
 凌壽はそれすらも楽しんでいるようだった。
 突如、六合の周囲を真っ黒な暗闇が包む。彼は槍の柄で凌壽を牽制しつつ身を引くが、その足を闇が掬った。体勢を崩した六合の全身に闇が絡みつき、地面へと引きずり倒す。ぶちりと音を立てて闇が千切れ、滲むように凌壽の元へと還っていく。
 邪魔者を片づけ、凌壽はつまらなさそうに髪を払った。
「まったく、しぶとい連中だな」
 転がった昌浩を軽く蹴飛ばし仰向けにする。凌壽の右人差し指から、爪が音を立てて伸びた。長い刃と化したその爪を、凌壽は無造作に昌浩の細い右腕へと突き立てた。
「っあ……!」
 悲鳴が上がる。
 爪は肉を貫通し地面まで至っていた。ぶるぶると痙攣する腕、その傷口から血が溢れ出す。無邪気な子供が戯れに虫を針で縫い止めるような、残酷な仕打ちだった。
 もがけばその分痛みが倍になって返ってくる。最早抵抗のみならず行動すらも制限され、苦痛を享受するよりほかにない。
 甘い絶望が昌浩の心臓にひたひたと押し寄せる。
 だが、それでも、彼は――凌壽を睨みつけるのをやめなかった。
 ひたむきといってもいいだろう眼光に満足げに微笑して、凌壽は口を開いた。
「さて、どう料理してやろうか。手足をぶち折るのは――昔にやったっけな。切り落とそうか? いくらお前でも、そこまでやったら難しいだろう。……それとも、」
 硬質な音を立て、爪が根本から折れる。
 凌壽は自由になった人差し指からまた爪を伸ばして、昌浩の襟首を鋭い切っ先でなぞった。
「あいつらの目の前で辱めるのもいいかな」
「――っ!!」
 昌浩が深く呼吸をして、双眸に灯った焔が激しさを増した。
「……殺してやる……!」
「おやおや、実の兄に酷い言い種だな」
「――俺はもう、お前の弟なんかじゃない……!!」
 血を吐くような、殺意と憎しみのこもった唸り。
 昌浩の口から放たれた言霊とは思えない、凄絶な殺意。
 それとは別の衝撃が、一部始終を見守ることしかできない神将たちを揺さぶっていた。

 誰もが耳を疑っていた。
 凌壽が、昌浩の兄なのだという事実に。

 機嫌良く笑いながら、凌壽は自らの弟を見下ろしていた。その指がぱちんと鳴ると、昌浩の体がゆっくりと浮き上がる。爪先が地面から離れ、砂地に赤い液体がぼたぼたと零れた。霊力で拘束され指一本動かせない昌浩の胸元に、舐めるような鉛色の視線が注がれる。
 汗みずくの真っ白な顔で、ひゅうひゅうと喉を鳴らしながら、昌浩は凌壽を睨めつけるのをやめなかった。
「抵抗するなよ。分かっているとは思うが、抵抗したら」
 凌壽が顎をしゃくってみせた。
「一匹ずつ殺してやる」
 昌浩が唾を嚥下して、必死に息を整えようとしている。紅蓮は地に伏しながらその様子を見上げていた。
 黒い帯に吸い取られないよう、細心の注意を払いながら深奥で高めている神気はまだ術を破るほど強まっていない。時が足りない――
 ぎりぎりと歯を鳴らしながら焦燥にかられていた紅蓮は、その時はっと息を呑んだ。
 凌壽の肩越しに、昌浩が紅蓮を見つめていた。唇を引き結んで。だが責めるのでもなく、泣きそうなのでもなく、怒りでもなく――いっそ穏やかと形容してもいい、透明な表情をして。
 それは真摯な眼差しだった。
 すぐにその視線は外され、凌壽へと戻る。微かに眉を寄せて睨む表情に紅蓮は不吉な物を感じた。酷く嫌な感じだった――大声を出して彼を止めたかった。しかしそれができないほど紅蓮の力は奪われていた。
 凌壽が最前までの様子とは打って変わり、ぞっとするほど静かな声音で問いかける。
「最後に何か言い残すことはあるか?」
 ゆっくりと深呼吸をして、昌浩は凌壽へと目を合わせた。
「――俺はお前とは違う。だから俺はお前の糧にはならないし、誰もお前の糧にはならない」
 ほんの少し、凌壽が瞠目する。彼は目を伏せ、静かに呟いた。
「……そうか」

 途端、鈍い音が空気を引き裂いた。

 真っ赤な液体が花のように散る。降り注ぐ花弁が砂に染み込んで黒くなる。貫かれた昌浩の細い肢体が衝撃に揺れ、垂れ下がった手足がびくびくと痙攣する。
 薄い胸郭を突き抜けて見える血塗れの腕には、仄白い玉が握られていた。
「――っはははは!!」
 癇に障るひきつった声が大笑する。
 凌壽が腕を振ってごみのように昌浩の骸を足下に叩きつけた。その拍子に昌浩の髪を結わえていた紐が切れ、地面に長い頭髪が散らばる。胸からは血が止めどなく流れ、砂が吸い切れずに大きな血溜まりを作っていく。
 出来の悪い人形のように放り出された昌浩は、目を見開いたまま口元を真っ赤に染めていた。
 即死だった。
 ほんのりと発光している薄蒼い天珠を手中に収め、凌壽は舌先を伸ばした。熱に浮かされたように、恍惚と残った血糊を味わう。
「ようやく手に入れたぞ……ああ、長かった」
 あれほど執着していたはずの昌浩に目もくれない。凌壽の眼中にあるのは天珠だけだった。
 歓喜にうち震えながら、彼は明滅する天珠を清めていく。
 直後、
「……ああああっ!!」
 その背後で巨大な火柱が噴き上がった。
 金属の砕ける音と共に膨大な神気が弾け飛ぶ。撒き散らされる熱が凌壽の血色の悪い肌を焼いた。振り返ると、黒髪を焼き切った赤い神将が白い炎に包まれ、真紅の眼光を凌壽に突き刺していた。
 額を飾る金冠に細かな罅が入り、今にも砕け散りそうである。
 仲間の神将の呪縛も炎によって弾け飛んだ。素早く立ち上がり体勢を整えた三人の神将が一斉に武器を出す。
 凌壽は見せつけるように天珠をぺろりと舐めた。
「俺は今機嫌がいいんだ。見逃してやるよ」
「貴様……っ!」
 炎を操る神将――紅蓮が歯軋りするや否や、一足飛びに間合いを詰めて手のひらを翳した。鉄すら溶かし尽くす煉獄の炎を、直接凌壽にぶつけるつもりなのだ。
 しかし、凌壽にはもう神将たちと戦う理由がない。彼の目的は既に達した。昌浩の心臓、天珠は彼の手の内にある。今更無用な戦いをする気などさらさらない。
 薄く笑ったまま、凌壽は跳び退こうとした。その瞬間だった。
 がくんとつんのめり、彼は完全に意表を突かれて驚愕した。
 片足を地面に縫い止めている何かがいる。凌壽の足首を掴んでいる何かが。驚きのままに見下ろすと、
 そこにいたのは、絶命した筈の弟だった。
「馬鹿なっ……」
 見開いた目には生気がない。死者の虚ろな暗闇が見当違いの方向を向いているだけだ。胸には大きな穴が空いて虚を晒している。口元からは口腔に残った血が未だ零れ落ちていた。奪い取った天珠は――天狐の力の源/心臓/魂は――物言わぬ肉体から遠く離れ、確かに凌壽の手にあるというのに。
 それなのに、死体の右手が信じられないような力で凌壽の足首を握りしめていた。
「この……!」
 ひとりでに動きだした骸の存在は、凌壽にとって全くの計算外だった。その動揺を十二神将が見逃すはずもない。間合いの遙か彼方から放たれた、光輝く神気の刃が凌壽に命中する。間一髪の所で築かれた霊壁が凌壽を守るが、攻撃と対消滅を起こして消失する。
 次の瞬間、燃え立つ白銀の龍を纏った貫手が目にも止まらぬ早さで凌壽の脇腹に突き刺さる。同時に――昌浩の骸が自動的に吸気の術を発動させた。

 薄暗い世界に、天狐の絶叫が響き渡る。

 生気を吸われ、内腑を煉獄の炎で灼かれ、凌壽が苦悶のままに髪を振り乱した。その足下の昌浩は目を見開いたまま、どことも知れぬ虚空を映している。だがその胸に空いた穴や身体に刻まれた傷が、桃色の肉を生んで急速に塞がっていく。右腕に刺さったままだった凌壽の長い爪が肉に押され、地面に転がった。
 質の悪い悪夢を見ているような、異様な光景だった。
 胸郭の虚が完全に埋まり、皮膚が表面を覆う。そこでようやく、昌浩の全身を包んでいた燐光が蛍火のようにぱっと散って消えた。
 深呼吸二回分ほどの、僅かな間の出来事だった。
 昌浩の指から力が抜ける。束縛から解放された凌壽が力を振り絞り、紅蓮の右腕を掴んだ。その鉛色の双眸が殺意に漲り、目の前の男に焦点を合わせる。未だ臓腑を灼く神将を睨み、凄絶な笑みを浮かべた。凌壽の身に戻ってくる妖力に操られ、その右手が掴んでいる天珠が淡く発光する。
 瞬間、紅蓮の体躯を隠れ蓑にして接近していた勾陳が、凌壽の死角から筆架叉を振り下ろした。
「かっ……!!」
 凌壽が両眼を見開いて仰け反る。
 注意力が削がれていた為であろう、刃はやすやすと凌壽の右肩へと食い込んだ。迸る神気が骨を断ち、空中高くに凌壽の腕と血を撥ね飛ばす。紅蓮が凌壽の腹から腕を引き抜き、地面を蹴った。断ち切られた右腕を掴み取り着地する。
 身体から離れてもなお、凌壽の腕は名残惜しげに天珠を握りしめていた。その小さな玉を紅蓮が毟り取る。用済みとなった腕を一瞬で灰塵へと変え、彼は凌壽へと向き直った。
 勾陳と六合の刃を避け後退った凌壽は、溢れ出る血を押さえながら憎々しげに神将たちを睨み返していた。やがてその視線が紅蓮の握りしめる天珠へと向けられる。
 一度は手に入れたものを奪われ、怒り心頭に達しているようだった。
「貴様……覚えておけ」
「いつでも来い。返り討ちにしてやる」
 冷え冷えとした応酬が交わされる。紅蓮も、凌壽も、共に眼光鋭く殺気と悪意に満ちていた。
 炎の闘気が一際大きく膨れ上がる。凌壽が舌打ちし、身を翻らせた。痩躯が薄闇に溶け消え失せる。
 人界へと逃げたのだ。
 異空間の中から凌壽の妖気が消失する。確信が得られるまで辛抱強く構えを取っていた紅蓮は、すぐさま昌浩へと駆け寄った。
「昌浩……!」
 一番近くにいた六合が目を閉じたままの昌浩を抱き起こし、口元に手を翳す。が、彼はすぐに首を横に振った。
「息をしていない」
 こんな時でも無感動に響く声音が、無性に心に爪を立てた。
 喉がひりつくように痛い。唾を飲み込むことすら苦痛になる。紅蓮は破れた服の上、薄い胸元に手のひらを当てるが、心臓の鼓動を感じることはできなかった。
 それもそうだ。昌浩の心臓は、今紅蓮の手の中にあるのだから。

 ――凌壽に貫かれる直前の昌浩の瞳を、紅蓮は思い出した。
 あの透明な眼差し。あの色に乗せられていた感情。悲痛な叫びでも、絶望でもない、真逆の声。
 あれは覚悟だった。そして信頼だった。
 彼はきっと、確信していたのだ。

 紅蓮が己を助けてくれるのだと。

「……っ」
 衝動的に、紅蓮は昌浩の手を取った。天珠を彼自身の手で握らせる。あるべき場所にあるべき物を戻したかったが、傷が塞がっていては戻せない。だからせめて、一番近い場所へ彼の魂を置いてやりたかった。
 どれくらいの時間がかかったのか、この時紅蓮は覚えていなかった。永遠に等しい程伸ばされた瞬間の中でせめぎ合う絶望と希望が心を千々に乱していく。耐えるしか術はなかった。直感で取った行動が、自身の望む結果へと繋がるよう祈るしかなかったのだ。
 やがて。
 ぶるりと昌浩が痙攣し、横を向いて血を吐いた。気道に入り込んだ血を噎せながら吐き出すその顔色は、だんだんと血色を取り戻している。
 安堵で全身から力が抜けながら、紅蓮はほっと息をついた。
 彼は助かったのだ。
 呼吸も霊力も体温も何もかもが弱まっているが、昌浩は生きている。
 ようやく周囲を見回す余裕ができ、紅蓮は視線を上げた。退避させていた中宮は、いつの間にか勾陳が抱き抱えて連れてきていた。そんなことにも気づかないほど、昌浩に集中していたことにようやく気づく。
 六合がそっと、そんな紅蓮に昌浩を差し出してきた。
「……すまん」
 寡黙な神将の鳶色の瞳が、はっきりと丸くなった。驚いているのだ。自然に口を突いて出ただけだったのに、どこか居心地が悪くなる。ただ礼を言っただけだというのに、こんな反応をされるのは理不尽ではないだろうか。
 目を逸らしつつ、紅蓮は昌浩を受け取った。その時だった。
 石を鑿で削り取るようなはっきりとした破砕音が耳に入り、一同は宙を見上げた。一定の間隔を置きながら、音はだんだんと大きくなっている。足下からは細かな振動が起き始めた。――これも時が経つごとに強まっている。
 空間の創世者である凌壽が消えたために、異空間が崩壊を起こしているのだろう。
「まずいな」
 六合がぽつりと呟いた。その視線はすぐ近くにある空間の歪みへと向けられている。
「脱出するぞ」
 勾陳が皆に声をかけ立ち上がらせた。像が歪む辺りに手を翳し、神気を発して探る。繋がっている先が人界でなく、全く違う異空間だった場合を危惧しているのだ。しばらくして彼女は同胞を振り返ると頷いて、道を確保するために神気を注ぎ始めた。
「間違いなく人界に繋がっている。騰蛇、お前から行け。私は殿になる」
「……わかった」
 異音はますます酷くなり、彼らの背を押すように急かしている。
 紅蓮は腕の中の昌浩に目をやった。口元を汚しているが、呼吸は正常に戻っている。だが覚醒する気配はない。この容態で位相の異なる空間を通り抜けられるかどうかはわからなかった。
 しかし、いつまでも留まっていられないことも彼はよくわかっていた。
 意を決し、昌浩を抱き直す。次元の回廊へと足を踏み出し、紅蓮は真っ白な光の渦へと身を投じていった。

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 真っ先に駆け寄ったのは紅蓮だった。
 ずっしりと重さを増した丞按をどかす。その拍子に、まだ熱さの残る血が昌浩の胸から腹にかけてぼたぼたと零れ落ちた。しっかりと握り締められている筆架叉が、丞按の腹から濁った音と共に引き抜かれる。
 割れた額から流れ落ちていた彼自身の血は、丞按のものに上塗りされて混じってしまった。顔も、胸も、腹も、腕も、鮮やかな真紅によって染め上げられ、端から生暖かい滴が滴り落ちている。鼻腔が立ちこめる血臭に麻痺するまでいくらもかからなかった。
 紅蓮にとっては、けして肯定することのできない過去を思い出す、凄惨な情景だった。
 時折噎せ、荒い息を吐きながら、昌浩は半身を起こした。その左手にはまだ筆架叉が握られている。鮮血で濡れた刃が、ぬらりと茜色に光った。その光を凝視したまま肩を上下させ、昌浩が呆然と呟く。
「……ごめん、」
 掠れた声が呼吸の合間に落ちる。
 のろのろと両腕が動き、べっとりとした血糊を衣装の裾で拭った。だが一度では拭き取れず、同じ動作を二度三度繰り返し、ようやく表面の曇りが晴れる。
 強ばった左手が震えながら開かれた。なかなか言うことを聞かない拳を昌浩は右手で無理矢理に広げる。鋼特有の硬質な音を立てて筆架叉が落ちた。その柄は真っ赤に染まっている。
 昌浩の手も同じ色に染まっていた。裾で乱暴に手のひらを拭ってから、彼が筆架叉を拾う。丁寧に柄の血を拭い終えると、昌浩は座り込んだまま、傍らの勾陳を見上げた。
「汚しちゃった。ごめん」
 血の気の引いた青白い肌。――失血のせいばかりではないだろう。
 逆手に持ち変えて差し出された筆架叉を、勾陳は無言のまま受け取った。
 昌浩の呼吸は未だ落ち着いていない。筆架叉を介して勾陳に細かな振動が伝わる。関節が強ばっているのか、彼は苦労して筆架叉から手を離した。重たそうに腕を持ち上げて、籠手で顔の血をぞんざいに擦る。それを見かねた六合が、有無を言わさず自分の霊布で昌浩の顔を拭った。
「いいって……」
「駄目だ」
 抵抗されたものの動きは緩慢で、血を拭き取るには問題なかった。赤い色が無くなってから手を離す。と、昌浩はすぐ側に転がっていた丞按の死体に視線を移していた。
 命の息吹を感じられない、完全に動かなくなった、物言わぬ骸。
 昌浩が殺した人間。
 戦いの際に放っていた硬質な光は既に彼の両眼からは失われていた。
 無言のまま、彼がゆっくりと立ち上がった。その足下はふらふらとして頼りない。たたらを踏みそうになったところを紅蓮に抱き止められる。短く礼を返して、昌浩は一歩、丞按に近づいた。
 服に染み込んだ血が一筋、太股を伝って地面に落ちる。
 昌浩は丞按の顔を見つめていた。――怨唆と苦悶、狂気と憤怒に満ちた表情を。死してなお安らかに眠ることのできない彼自身の呪いを。
 丞按の過去に何があって、何の為に動いていたのか、昌浩に知る術はない。知ったところで、何ができたかもわからない。やはり互いに相入れぬまま、こうして同じ結末を迎えたかもしれない。
 どうして丞按が藤原氏を狙ったのか。その理由くらい聞き出せばよかったのだろうか。
 それでも。
 昌浩の意思で――それも憎しみで、ひとつの命を奪ったことには変わりがない。
 だからこれは自己満足だ。自分の心を慰める為の取り留めのない思考。初めて人間を殺した自分自身を、慰める為の。
 ぼうと、空気の揺れる音がして昌浩の片手に炎が灯った。丞按に向けてその腕が翳される。すると炎はするすると伸びて、骸に点火した。
 白い狐火は幻想のように、熱も音も発さず丞按を包み込んだ。何も燃やさない筈のその火が、丞按の肌を、肉を、ゆっくりと焼いていく。溶けた屍肉が白い灰と化して地面の上に降り積もっていく様子を、昌浩は網膜に焼き付けるように、直視したまま目を逸らさなかった。
 やがて丞按の姿をしたものが完全に形を崩し、骨も何もかも灰に変化したのを見届け、昌浩は口を開いた。
「……帰ろう。中宮を連れて帰らなきゃ――きっと晴明が心配してる」
 丞按が向かおうとしていた、空間の歪み。それに視線を向けた、まさにその瞬間だった。
 轟音と衝撃、閃光が皆を襲った。予感も前触れもなく、完全に不意を突かれた形になって、昌浩は防御することもできなかった。寸前で障壁を創った神将たちは直撃を免れたが――昌浩は爆発から身を守れず、もろに喰らって吹っ飛んだ。
 神将の障壁の範囲内に昌浩は入っていなかった。故に、彼はあっけなく地に伏した。その左腕はあらぬ方向に捻れ、赤い肉と白い骨が覗いている。
 動かない。
 ざあっと紅蓮の全身から血の気が引いた。音が遠くなり、己の鼓動ばかりが頭の中で響く。思考は凍り付いた。反面、突然の奇襲に対応した体は自律して動いている。無意識に炎が両手に灯り、視線は襲撃者を求めて左右を見渡した。
 すぐ近くにわだかまる、禍々しい妖力を感じ取る。
 紅蓮の瞳が苛烈に煌めいた。真紅の双眼が砂煙の向こうの天狐を捉えるや否や、炎蛇が猛烈な速度で空を裂き襲いかかる。砂が熱と風に煽られ、ほんの一角のみ晴れる。その先に、敵が佇んでいた。
 岩に鉄が叩きつけられるような、耳障りな異音が上がる。赤々とした火の粉が舞い散り、蛇は左右にぱっと断ち割られた。
 鉛の瞳にざんばらの長髪。この異空間の創生者――天狐凌壽が、半球状の障壁の中からうっそりとした笑みを浮かべ、神将たちを睥睨していた。
「貴様…っ!」
 紅蓮が唸ると同時に、勾陳が疾風のように走った。
「六合! 中宮を連れて下がれ! すぐにだ!」
 彼女の鋭い声に六合は一瞬迷う素振りを見せた。だがすぐに鳶色の髪を翻し、結界に囲まれた中宮の元へ駆け寄る。中宮は攻撃に巻き込まれておらず無事だったが、今からこの一帯がどうなるかはわからない。凌壽の目的がこの娘にないにせよ、退避は必要だった。
 六合が中宮を抱え離れていくのを確かに見届け、勾陳は抜き放った筆架叉の刃を凌壽に振り下ろした。
 しかし、その袈裟掛けの一撃は耳障りな音に阻まれる。
 凌壽の片手から伸びた五本の爪が、彼女の筆架叉を受け止めていた。
「……っ」
 防がれると見るや一瞬にして得物を引き、一歩踏み込みながら勾陳はもう一方の筆架叉を下段から振り上げた。が、それも爪に阻まれる。ちっと舌打ちをして右足を凌壽の腹めがけて蹴り上げるが、凌壽はそれをも読んでいたのか、間合いを外して神速の一撃を避けた。
「――騰蛇!」
 けれども、凌壽が相対しなければならない敵は、勾陳だけではない。
 最強の神将が、この場には居るのだ。
 人間相手には奮えなかった、制限なしの神気が爆発するかの如く広がった。肌が爛れるほど熱い焔が、罪人を焼き殺す獄炎が、十二神将騰蛇に呼ばれ異界に召還される。凌壽が目を見張って、新しい玩具を与えられた幼児のようにはしゃいだ。
「へえ、意外にやるもんだな」
「ほざけ!」
 焔が勢いを増し、白炎と化す。大気が熱で歪む。その歪みの中から白銀の龍が形作られ、旋風を巻き起こしながら凌壽を追った。
 凌壽はこの状況になっても、常の薄笑いを崩していなかった。余裕を見せつけるかのように翳した腕の先に障壁が形成される。それで紅蓮の渾身の攻撃を防ごうというのだ。
 だが、紅蓮の執念が上回った。
 障壁に龍が激突し、消え失せる――そう見えたのはただの一瞬で、衝撃に身を崩すことなく、龍は天狐の障壁を自らの牙で食い破った。凌壽の笑いが消え、その片足が一歩後ろへと下がる。しかし、その回避は間に合わなかった。
 白銀の龍が痩身に食らいつき、真っ白な火柱が立ち上る。
 痛みを覚える程の高熱が勾陳たちの全身に叩きつけられた。勾陳が歯を食いしばって片腕で目を防ぐ。紅蓮は後方で火の行方を睨んでいた。どれだけ炎が上がろうと、薪が燃えかすにならなければ意味はない。それに――
 突如、冷水に焼けた石を投げ込んだような音が弾けた。同時に火柱が四散する。
 頬が裂けそうな凄絶な笑みを浮かべた凌壽が、ぎらぎらとした光を紅蓮へ向けていた。
 紅蓮の予想と違わない結果だった。相手は天狐なのだ。それもずっと凶悪で、力の強い妖狐。あの一撃だけで倒せるほど弱いとは考えていなかった。あれで倒せるのだったら、とうの昔に殺している。
「少し効いたぞ……」
 凌壽がうっそりと呟いた。力押しで消し飛ばした負荷の影響か、右手が小刻みに震えている。その機を逃さず、勾陳が両の筆架叉で斬りかかった。
「貴様を倒して、晴明を救う……!」
 一方が刃に、一方が盾に変幻自在に切り替わる二刀流ならではの猛攻が凌壽を襲う。が、凌壽は左の爪のみでそれらを受け流した。次第に勾陳の表情が険しくなっていく。
 騰蛇の攻撃は通じた。けれど自分の攻撃は通じない――これが十二神将の、埋まらない一番手と二番手の差なのだ。
 だんだんと焦りに満ちる彼女の思考を読んだかのように、次の瞬間凌壽が嘲った。
「この程度でか? やってみろよ、神将」
 強烈な侮蔑に、思わず勾陳の両眼が金色に煌めく。
「どけ、勾!」
 その時、彼女の背後から龍が殺到した。燃え盛る灼熱の神気が、さらなる高熱でもって彼女の心を引き戻す。己の感情を制御する術を思い出した思考は一瞬で平静に立ち返り、しなければならない行動を導き出した。
 微かに眉を歪めた凌壽の足を払う。と見せかけ、跳びのこうとしたその両腿を右の筆架叉で薙ぎ斬ろうとした――それも読まれる――けれど、本命は次撃だった。
 筆架叉を手放す。ごく自然な動作で、腰を右に勢いよく回す。同時にがら空きになった左の手のひらで、撫でるように、凌壽の鳩尾に触れた。
「――っ!」
 しゅっという蛇のような吐息が彼女の唇から漏れると同時に、衝撃で凌壽の身体が宙に浮き上がった。
 読まれないよう神気を用いずに使用した寸頸が、凌壽の足止めに成功したのだ。
 呼吸ができずに凌壽がたたらを踏む。勾陳は横っ飛びに転がって、その場を離れた。一瞬の後、その場に数匹の龍が牙を突き立てて業火が迸る。避ける暇はなく、凌壽はまたも正面から紅蓮の攻撃を受けた形になった。
「やれるか……!?」
「いや……」
 紅蓮は険しい顔のまま、勾陳の問いに答えた。その額に汗が浮いている。全力の神気を行使して龍を操っているのだ。
 彼の視線の先の白い火柱は先ほどのように打ち消されてはいない――けれど微かな抵抗を紅蓮は感じ取っていた。
「まだ死んでいない――」
 そう口走ると同時に、背後で小さな呻き声が聞こえた気がして、彼ははっと振り返った。
「昌浩っ……?」
 視線の先、うつ伏せになっていた昌浩が僅かにもがいていた。意識を取り戻したのだ――
 しかしほっとするのもつかの間、けたたましい笑い声が周囲を満たした。
「どうした昌浩! 俺を殺すまで死なないんじゃなかったのか?」
 太い火柱の中から響く哄笑に、紅蓮は視線を戻した。炎はまだ消されてはいない――だが、凌壽の抵抗は強さを増している。
 炎の中、天狐の妖力がさらに膨れ上がっていく。やがて白い光に紛れ、うっすらと紫色の燐光が見えた。その光は強まり、ついに全景を現す。
 火柱の中、球状の結界を纏った凌壽が、呵々として三人を見下ろしていた。
 結界に防がれ炎は凌壽に届いていない。紅蓮は舌打ちして火勢を強めた。しかし、憎き天狐には堪えた様子が見られなかった。いや、気づいていないのか――凌壽の意識はもう、十二神将から全く離れたところに注がれていたのだった。
 

◆◆◆


 昌浩は激痛にくらむ視界で、息も絶え絶えに声の在処を探していた。左腕が燃えるように熱い。身体は言うことを聞かず動かなかった。唯一動くのは頭だけだったが、それも酷い頭痛で殆ど使いものにならない。どうにか見当をつけて前髪の間から見上げた景色は昏かった。ただ、一点だけが明るい――真っ白な光、太陽の光のように眩しい明かりがあって、大嫌いな男の声はそこから聞こえてくる。
 なんだか無性に悔しくて、昌浩は痛みとは別の涙をぽたりと落とした。
 

◆◆◆


 凌壽がにやりと笑い、結界に包まれたまま右手で天を指した。次の瞬間――轟音が響いたと感じる前に、紅蓮たちは天紫に撃たれ膝に土を付けていた。
 躱す暇はなかった。いくら神将でも、雷撃の速度にかなうわけがない。来るとわかっていればまだ防御のしようもあっただろうが、まさか天狐が雷まで操るとは考えていなかった。
 震える膝を叱咤しながら、彼らは神気で無理矢理に肉体を回復させようとした。動けなければやられるだけ――それがわかっていたからだ。
 だが遅かった。
 黒い帯が風切音を立てて大気を裂く。十二神将が再び立ち上がる前に、長く伸びた凌壽の黒髪が彼らの四肢を拘束して地に叩きつける。衝撃に勾陳が咳き込み、紅蓮がぎろりと眼光を強めた。囚われのまま、拘束を燃やし尽くそうと神気を発しかける。
 が、その瞬間、急激な神気の喪失が彼らの身を襲った。
「ぐっ……!」
 がつんと殴られたような目眩を覚え、視界が暗転する。顔面に砂混じりの固い何かが押し当てられる。それが地面なのだと数瞬遅れて気づき、紅蓮はようやく、自らが地に倒れ伏していることを悟った。
 黒髪がぶつりと途切れ、紅蓮と勾陳を拘束する黒い帯と化す。猛烈な吐き気と強烈な頭痛が交互に襲い来た。抗おうにも力は出ず、凌壽の拘束から逃れることもできない。歯噛みする紅蓮の目の前を、凌壽は悠々と歩んでいく。
 昌浩の前で立ち止まる足を、紅蓮は形容しがたい憎悪を込めて睨みつけた。
 この瞬間、紅蓮にできることといったら、それくらいしかなかったからだ。

「まっ……!」
 どうしようもない既視感が紅蓮の肺を満たしていく。心臓の周りで渦を巻く。まだ半刻も経っていない過去が明滅する。伸ばした腕を無力感と絶望が掴んだ気がした。
 ようやく手に入れたものを奪われる予感に、指が震える。
(俺は――)
 彼を救うと決めた。他でもない紅蓮自身が決めた。言葉にしないだけで、それは誓いだった――ならば、躊躇などするわけにはいかない。
 それでも、人に対して危害を加えることはどうしてもできなかった。
 紅蓮の手を赤く染めた罪業は消えない。もう二度も生みの親を手にかけたのだ。紅蓮の心の奥底にはいつだって重しが、枷が嵌められて、自身を痛めつけている。
 今この時、三度目を犯す勇気は、紅蓮になかった。
 だが――だが、誓いを破ることも、紅蓮にはできなかったのだ。
 神気が渦巻く。誓いが導いていく。
 勾陳に釘を刺されたばかりで動かなかった手が、欲求に従って真っ赤な火を熾す。
(……間に合え!)
 一瞬で顕現した炎蛇が空を滑って、今にも落とされそうな三鈷杵へと突進した。
 けれど、紅蓮は気づいていなかった。

 今この瞬間にも、昌浩の瞳が凍ったまま動かないことに。

 短くとも、鋭く研がれた刃が振り下ろされる。防ぐものはなく、そのまま三鈷杵は昌浩の頭蓋に突き刺さった――はずだった。
 脳天に命中した、と見えたその瞬間。
 鈍い音を立てていたのは三鈷杵のほうだった。刃は昌浩ではなく、見えない壁に突き立てられていた。ぐにゃりと歪んだ空間が三鈷杵を飲み込み、鋼の砕ける音が甲高く響く。
 その中に、ほんの少し遅れて炎蛇が突っ込んだ。
 人ならざる三つの力が一瞬だけ拮抗した。しかしせめぎ合いは一瞬にすぎず、すぐに混沌と混じりあって崩壊する。破れた堤から迸る濁流のように、霊力が丞按と昌浩の間で爆裂した。
「……っ!」
 昌浩の小柄な身体が、爆風に耐えきれずに吹っ飛んだ。微かな悲鳴。宙に舞う赤。それを目にし、紅蓮の心臓がぎゅっと絞られる。
 腕を伸ばしたままに紅蓮は駆け出した。昌浩が地面に叩きつけられる直前に、すくい上げるようにしてなんとか受け止める。抱えながら身を起こすと、昌浩は意識を失うことなく戦意を両眼に漲らせ、素早く立ち上がった。
「昌浩、」
「平気だ」
 きっぱりと、彼は振り向きもせずに短く切って捨てる。額はぱっくりと割れ、鮮血がだらだらと零れ落ちているにも関わらず。が、それとは別に、微かに漂ってくる鉄臭を紅蓮は察知した。その出所も。
 燃えるような焦燥が紅蓮の心臓を掴んだ。
 彼の古傷が、再び開き始めている。
 神将でなくとも嗅ぎ取れるほど強まっていく血の臭いが、やがてそれだけに留まらないだろうことは容易に想像がついた。――残された時が多くないことも。
 じきに昌浩は動けなくなる。
 それは確信だった。

 思わず、紅蓮は昌浩の腕を引き留めていた。
 大きな目が掴まれた腕に向く。ついで紅蓮へ。
 共に口を利かぬまま、二人の視線が数瞬絡み合った。
 永遠にも思えた沈黙が続くが――それを破ったのは紅蓮だった。
「俺が――」
 紅蓮の唇から言葉が零れる。彼はそのまま続けようとした。
 が、それは中途で切れて転がった。

(――俺が、代わりに、)

 代わりに。
 代わりに、何をするのだ?
 突発的に口を突いて出た衝動は、伴ってこない覚悟をあざ笑うように胸中で渦巻いた。唇も、舌も、凍り付いたまま動こうとしない。額を飾っている金冠がひどく冷たく感じられた。心臓が耳の近くで痛いほどに鳴り響く。こんなに急かされているのに、脳は痺れてまともな思考を行わない。
 覚悟が足りない。
 理を犯す勇気も、踏み出した先の荒れ地を踏破する覚悟も、今の紅蓮には絶対的に足りていない。
 昌浩のほうが紅蓮よりも、ずっとずっと強い覚悟で臨んでいた。彼は最初からこうなることを予想していたに違いない。だからこそ、全ての容赦も躊躇もかなぐり捨てて、慈悲の欠片もなく力を奮うことができるのだ。
 紅蓮が黙りこくってしまった間、昌浩は何も言わずにただ見上げていた。しかし動揺の見られない双眸がふと瞬き、背後を振り返る。
「騰蛇はそこにいて」
 言うなり彼は駆けだした。
 つなぎ止めていたはずの紅蓮の腕を、ひどくあっさりとふりほどいて。
 言霊も何も込められていないはずなのに、その音は紅蓮の足を縫い止めて放さなかった。
 

◆◆◆


 昌浩と同じように爆炎に押されて吹っ飛んだ丞按は、けれど昌浩のように無様に転がったりなどはしていなかった。僧衣の裾を翻して着地するなり右手で三鈷杵を構え、生き残った幻妖が神将たちの視界を塞ぐよう操る。八体もの怪物が主人を守護するように展開し、大きな体躯で僧の姿を隠した。
 六合と勾陳がそれぞれの武具の切っ先を向けるが、幻妖の間合いを読めずに踏み込めないでいる。戦況が膠着しかけた、その時だった。
「勾陳、貸して!」
 紅蓮から身を離した昌浩が駆け抜けざま、地面に突き立ったままだった筆架叉の片割れを引き抜いた。その横を太い炎蛇がさっと追い越し、幻妖の一体に牙を立てる。毛皮の焦げる臭いと共に、耳障りな唸り声が銅鑼のように響いて獣の群がざわめいた。
 幻妖たちが動く。
 炎蛇に巻き付かれた幻妖がぶわりと妖気を迸らせた。赤い焔が弾けて消える。同時に、群から離れた二体が頭から六合たちに突っ込んできた。
 躱すは容易い。だが前線の二人が幻妖の突破を許してしまえば、背後の結界で守られている中宮への接近を許してしまう。
 六合と勾陳の神気が膨れ上がった。それぞれが真っ正面から幻妖の牙と爪を受け止める。力押しで負ける気は毛頭なかったが、質量の差は如何ともしがたかった。高まった神気が幻妖の表皮を鋭く裂く。闇色の毛の下から現れた桃色の肉がすぐに真っ赤に染まる、にも関わらず、幻妖は戦意を落とさなかった。
 ぐわりと開いた大きなあぎとは、勾陳の筆架叉一本だけで防ぐには分が悪い。苛立ちにまみれた彼女の眼が、一瞬だけ金色に輝いた。
 十二神将二番手の甚大な通力が、圧倒的な衝撃と共に炸裂する。
 六合が押さえていたもう一体の幻妖も巻き込んで、衝撃波が地面を立ち割った。すかさず横手から紅蓮の炎蛇が飛び込み、深手を負った幻妖に燃え盛る牙を差し込んでいく。
 一方丞按を押し隠す幻妖たちに動きはない。仲間がやられていくのを唸りながら眺めているだけだ。

 その場所に、昌浩はまっすぐ突っ込んでいった。

 武器など持ったことはなかった。そもそも天狐は妖であるから、武器など必要ではない。誇るべきは自身の霊力と肉体であり、道具の使用などは無粋の極たるものだ。あの凌壽だって、その範疇にまだ収まっている。
 初めて手にした武器。扱い方など、まるでわからない。
 だが、武器を手にすることで霊力の御し方に変化が起きることは知っていた。
 走りながら筆架叉に力を込める。神将の武器であるその刃は、思っていたよりもすぐに天狐の霊力に馴染んだ。白炎が陽炎のように刀身にまとわりついていく――十分に練ったその霊力を、昌浩は一動作で解放させた。
 まるで鉄砲水だった。怒濤の如く白炎が広がる。一文字に薙ぎ払われた刃の軌跡を追って、放射状に広がっていく。洪水のように、全ての幻妖を飲み込んでいく。
 獣たちが甲高い悲鳴を上げた――消滅はしない。丞按に与えられた妖力のおかげだ。ただ、代わりに炎に炙られて動作が緩慢になっている。
 十二神将にとっては、それで十分だった。
 勾陳の一撃で深手を負わされた幻妖の一体が起き上がる。太い四肢は先ほどよりも明らかに重みを増していた。その真上に影が落ちる。
「―――っ!」
 鋭い呼気と共に、幻妖の頭蓋に筆架叉が根本まで埋まる。幻妖の全身がびくりと痙攣した。
 筆架叉を手放した勾陳は間髪入れず地面に降り立ち、その長い足を振り抜いた。藍色の帯が弧を描き、踵が幻妖の頸椎を蹴り砕く。
 同時に、もう一体の幻妖の首が銀槍によって切り落とされた。
 幻妖たちは確実に弱体化している。
 丞按を取り囲む幻妖の一角にも、白銀の龍が炎鱗を撒き散らしながら絡み突いていた。じゅうじゅうと肉の焼ける音と異臭が立ちこめ、とぐろに巻かれた獣がもがき苦しむ。すぐに動けなくなり、炭化した幾体もの骸が転がる。
 幻妖の群が破られたことで間隙が生まれた。昌浩はただひたすらに、丞按だけを目指してそこを駆け抜ける。僧の姿は目前だった。幻妖も無視して、間をすり抜ける。
 背後は考えなかった。
 何事か真言を唱えながら、丞按は三鈷杵を逆手に構えている。逆に昌浩は筆架叉を構えなかった。何も持っていない左手を振りかぶる。振りかぶって、手を伸ばす。
 その手のひらに霊力が輝くのを見切った丞按は、三鈷杵を昌浩の手に突き刺すように振るった。
「――サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン!!」
 しかし。
 勝敗を決する瞬間は、やはり呆気ないものだった。
「砕!」
 たった一言。たったそれだけの言葉に込められた言霊が、不動明王の真言を打ち砕く。
 耐えきれず三鈷杵が破片と化して爆ぜた。手の中の確かな手応えを失って、丞按が呆然とする――その腹を、筆架叉が刺し貫いた。
「がっ……」
 羅刹の力を解き放ったときは違う灼熱が、丞按の胃の腑を焼いてこみ上げる。嘔吐感に負け、彼は思わず口を開けた。口腔を熱い液体が満たしていく。鮮やかな血液が、嫌な音と共にごぶりと吐き出される。
 刃はなおも押し進められていた。
 頭上から滴り落ちる鮮血が昌浩の額を濡らす。それでも彼はやめなかった――片目に血が入って見えなくなっても、髪が赤く染まっても。
 筆架叉の刃が根本まで肉に埋まるまで、全身の力を振り絞って。

 神将たちがその光景を目にしたのは、最後の幻妖を倒し終えたその時だった。
 さっと紅蓮の顔が青褪める。駆けつけようと足を踏み出す。が、昌浩自身の制止によって阻まれた。
「来るな……!」
 髪も、顔も、真っ赤な血に染まった昌浩が苦しげな声を発した。鉄臭にまみれた体にあるのは擦り傷だけ。彼自身は重傷ではない。わかっているのに、赤い色は紅蓮の記憶を否応なしに呼び覚ます。どうしようもなく心拍は高まっていく。嫌な予感しか降りてこない。
 昌浩の両腕は丞按の堅い手によってがっしりと掴まれていた。
「……ら、せつ」
 丞按の顎から血泡が垂れる。ひゅうひゅうと喉笛を鳴らしながら、丞按はまだ立っていた。そうしている間にも、昌浩の白い肌は丞按の血液によって汚されていく。その血が、不自然にぶくりと蠢いた。
「羅刹よ……こいつに……」
 両腕が咄嗟に跳ねそうになるのを、昌浩は無理矢理押さえ込んだ。
 丞按の血が、意思を持って流れ出ていく。昌浩の首の古傷から侵入を果たそうとしている。丞按の、最後の呪詛だ。
 今すぐにでも筆架叉を手放して解呪したくなる。全力でその本能をせき止め、昌浩は震える声で言霊を絞り出した。
「消えろ…!」
 同時に、全身の霊力を筆架叉を介して流し込む。丞按が――羅刹鳥が――耳障りな悲鳴を上げて仰け反った。この世のものでない、人間ではあり得ないものの絶叫。首の傷から広がっていた、植物の根のような呪いがぱきぱきと砕けていくのを昌浩は感覚した。呪詛の流れを手繰り、遡り、丞按の体内に渦巻く瘴気を消し去っていく。同時に、彼は滑る手で筆架叉を持ち直した。刃を横に倒し、押し広げる。傷口を横に裂いて、空気を入れる。
 確実な「死」を、この男に与えてやりたかった。

 ……やがて、長く響いていた悲鳴が途切れた。
 丞按の両手が重力に従ってだらりと外れる。上背のある頑健な体が揺れて、崩れ落ちる。
 のしかかってくる死体を支えきれずに、昌浩は丞按と折り重なったまま、仰向けに転倒した。

 時は少し遡る。
 示された綻びの場所へと皆が無言で駆ける中、昌浩はだんだんと顔色を悪くしていた。紅蓮が神足の速度を落とし覗き込むと、彼は青い顔で喉元を押さえ、か細い呼吸を続けていた。
 先程奪った生気だけでは足りなかったのだろうか。残された自分の体力を考えながら、紅蓮は抱いた腕の力を強めた。
「……やはりお前、まだ」
 回復が十分ではなかったのか、そう尋ねようとした。が、言葉は痛みで潤んだ眼差しに遮られた。
「――そうじゃ、ない」
 切れ切れに小さな答えが返る。「りょうじゅが……、」言って、彼は咳きこんだ。跳ねる小さな体を押さえこみ、紅蓮は思わず口走った。
「お前は戦うな」
 人間たる丞按の排除にどうしても昌浩が必要なことは重々承知していた。彼の力に頼らざるを得ないことも。それでも、この状態の彼を戦闘に参加させたくはなかった。
 だが、彼は首を横に振った。
「……何故」
 心のどこかで、自分の言葉なら受け入れてくれるだろうと考えていた紅蓮は衝撃を受けた。自覚すらしていなかった淡い期待。裏返せばそれはできたばかりの昌浩への信頼だったが――それを裏切られて、紅蓮はすっと心が冷えていくのを止められなかった。
「俺の仕事だから。……平気だよ」
 紅蓮の胸に頬を寄せて、細い声が答えを返す。痛みを堪えているのか、咳が治まっても昌浩は微かに表情を歪ませていた。
 到底信じられるような言葉ではない。けれど拒否された以上、紅蓮にはどうすることもできないのだ。――昌浩の代わりに丞按を殺すなど、できるわけがない。
 それを知っていて拒んだのだろうか。それが彼の思いやりだというのだろうか。
 喉元までこみ上げた詰問をなんとか呑み下した、その時だった。
「――いた」
 ぼそりと声が落ちた。
 訝しむ暇など欠片もない。さやかに過ぎる呟きが耳に届いた時にはもう、瞬き一つの時間で閃光が周囲を満たしていた。
 光が留まっていたのもまた僅かな間だった。網膜に赤い軌跡を描いて光の雨は前方へと一直線に突き進み――遠くでうずくまっていた何かを直撃した。ぎょっとした仲間たちが振り返る。
 放たれた十数個の拳大の光弾は半ば地面を抉り取り、そこにいた人間を結界ごと吹き飛ばしていた。
 容赦など微塵も存在してはいなかった。
 呆然としていた紅蓮の耳朶を、静謐な声が叩いた。
「下ろして」
 抗い難い何かがあった。
 自然と足が止まる。轡を嵌められたように声を出せぬ紅蓮の身体は、手綱を引かれた馬の如く従順に従った。
 言霊が込められているわけでもない単純な言の葉。拘束力などまるでないはずなのに、身体は操られて動いてしまう。その原動力がどこにあるのかわからず、紅蓮は困惑した。
 細い肢体が両腕から逃れ、するりと前へ歩を進める。直進――振り返った式神たちの間を抜け、俯せに倒れ動かない丞按へと。迷いなく。
 儚さなど消え失せて。
「手を出すな。……丞按は俺がやる」
 砂塵に紛れて皆の耳に届いたのは、感情という感情を削ぎ落とした、無機質な殺意だった。
 姿形はどこも変わっていない。その後ろ姿も、発する霊力の波動も。にも関わらず、目の前の少年はまるで知らない誰かのようだった。
 ほんの少し前に耳にしたばかりの彼の声が、もう思い出せない。
 無意識に紅蓮は呻いた。
 どんな者であれ、彼は人間を傷つけることを忌避していた。丞按に対してすら、なるべくなら殺さずにすませたいという手心が透けて見えた。こんなに真っ直ぐな敵意を抱いてはいなかった。
 その理由を尋ねたわけではない。が、推し量るのは簡単だった。
 彼は骨身に染みて知っているのだろう。人間という生き物がどれだけ壊れやすいのか、簡単に死に至る弱い生物かということを。
 実際に手をかけた紅蓮とは真逆の方法で。
 それを知っていながら――彼は自分自身にかけたはずの枷を今、取り除いている。

(ああ――)

 昌浩は、丞按を殺そうとしている。
 晴明が彼に下した命を知らないわけではなかった。十二神将たちでは手を出せない丞按に対し攻撃を加えるのが彼の役目だった。彼自身も納得し従っていた命令で、神将たち皆が昌浩に期待を寄せていた。紅蓮ですら例外ではなかった。
 だがどうだ、今まさに丞按を殺すべく歩みを進める彼の眼は。
 冷たく凝った闇がしんしんと触手を伸ばすように、昌浩の小さな身体から溢れ出る霊力が周囲を満たしていく。図らずも、その波動は仇敵たる凌壽によく似ていた。
 殺意に侵された黒い瞳はただ丞按だけを見据えている。
 彼に理はない。そのはずだった。だから昌浩だけが丞按を害すことができると誰もが考えていた。
 体のいい生け贄として身代わりに使った彼に、理よりも重い心の枷が嵌められているなど気づきもしないで。
 紅蓮を庇って丞按に殺され、その守るべき紅蓮の命を得て甦ったが故に、昌浩は丞按を憎んでいる。
 枷を取り除いてしまっている。
 このまま彼の思うままに力を奮わせたとして――枷を外した反動が昌浩の心にどのような傷痕を残すのか、考えたくもなかった。
 そしてきっと幸福な結末を迎えることはないと確信できるのに、紅蓮には彼を止めるだけの理由が存在しないのだ。心はこんなにも大声で叫んでいるというのに。
 昌浩の手を血で汚すなと。

 そのはずなのに。

 突如、空間そのものが高い音を立てて軋んだ。同時に昌浩の周りに光矢が十本浮かび上がる。一呼吸する暇もなく、それらは輝く光の帯と化しぴくりとも動かない丞按へと放たれた。
 が、直前にその体を守るようにして地面から何かが起き上がった。矢は全て壁となったそれに防がれ、耳障りな獣の悲鳴が空気をつんざく。幻妖に身を挺して防がせた丞按は、召還の印を結んだまま素早く立ち上がった。
「馬鹿な、本当に生きているだと……!」
 背後から突き刺した錫杖は、確かに致命傷を負わせたはずだった。激痛に声もなくくずおれ、この幼い天狐は虫の息になっていた。よく見れば天狐の衣装は帯に穴が空いていたが、傷口は見えず、血も一滴たりとて流れてはいなかった。
(化け物め)
 なんというしぶとさか。凌壽の話にあった通り、この状況で仲間の命を喰らって生き延びたのか。だとしたら神将は弱体化しているかもしれない。まだ丞按に活路は残されていた。
 印に応えて幻妖たちが異界へ召還される。それを横目に認めて、六合は気を失ったままの中宮を地面へ下ろした。
「露払いをする。騰蛇は中宮を守れ」
「なに?」
 眉間の皺を深くして睨みつける紅蓮に、勾陳が口を挟んだ。
「お前だと勢い余って丞按まで殺してしまいそうだからだよ。援護は頼んだ」
 言うや否や返答も待たず、筆架叉を両の手に収めて勾陳は駆けだした。六合もすぐにその後を追っていってしまう。残された紅蓮はちっと舌打ちして、固い砂の上に寝かせられた中宮の前に出た。
 掌に炎蛇を招きながら、苦い焦りを抱く。
 昌浩が死んだと思ったさっきは、理など糞食らえだと感じていた。途轍もない怒りが、紅蓮にそれだけの力を与えていた。それが――今や影も形もなく、紅蓮はまた理を犯す恐怖に怯えている。
 昌浩の代わりに丞按を殺す勇気もない。彼を救う手段がどこにも見つからない。救ってやりたいと今し方望んだばかりなのに、ふがいない自分に失望する。たった一人を救うこともできず、何が十二神将最強だ――そう心中で罵っても、事態が変わるわけでもない。
 歯軋りしながら、紅蓮は召還した炎蛇を幻妖めがけて解き放った。
 同朋たちもまた幻妖の数を減らそうと奮闘している。昌浩は彼らの後ろに陣取り、ずっと奥に佇む丞按を睨みつけているようだった。
 印を結んだまま、じりじりと丞按が動いた。四丈ほど離れた場所にある空間の亀裂ににじり寄っていく。けれども昌浩がすっと指をさした途端、その身に途轍もない重圧がのしかかった。みしりと関節から異音が響き、丞按が呻く。
「ぐっ……!」
「逃がすと思うな」
 低く落とされた呟きは、闘いの騒音に紛れることなく全ての者に届いた。含まれた冷たさにぞっとしながらも、紅蓮は炎蛇を操り向かってくる幻妖を薙ぎ払った。
 法具である錫杖を失っている為か、幻妖は以前よりも倒しやすかった。おかげで召還され増えていく速度よりも紅蓮たちが倒す速度のほうが上回っている。召還印を崩せない丞按は他の手段を取ることもできず、消耗していくばかりだ。さらに術で拘束され、逃げ場もない。
 ついに左肩から一際大きな異音が響き、僧の精悍な顔に脂汗と苦痛が浮かんだ。関節が負荷に耐えかねて悲鳴を上げている。それでも綻びに接近しようと足掻いていた足が、ぴたりと止まった。
 かけられていた術は一つではなかったのだ。いつの間にか不可視の結界に囚われ、身動きができない。
「―――!」
 丞按の表情が憤激に彩られた。ぎらりと光る眼差しが昌浩へと向けられる。
 どう考えても今の丞按に勝ち目はなかった。霊力は既に残り少なく、枯渇の時は近い。逃げることもできないのであれば、後は嬲られるのを待つばかりだ。

 今の状態では。

 丞按の視線が昌浩を逸れ、さらにその後方へと向けられた。炎を操る神将が背後に庇っている、姫へ。藤原の娘へ。
 あの娘さえ手に入れられればよいのだ。
 その為なら自分の身体などどうなっても構わなかった――とうに復讐に捧げた身など、ここでその目的を成就させるのであれば朽ちても構わなかった。

 だから、彼は呼んだ。
「羅刹……!」
 身の裡に封じていた魔物の名を。
 解放する。

 瞬間、五臓六腑を焼き尽くす激痛が丞按の全身を走り抜けた。内腑が灼痛に満たされ喉元までせり上がる。血管という血管を、血液ではない何かが循環していく。眼窩から、鼻腔から、口腔から、体中の穴という穴から熱風が吹き出して止まらない。
 魂が浸食されていく痛みだった。
 丞按の肌を焼きながら妖気が噴出していく。次第に拡散していくそれに、昌浩たちはもちろん気づいていた。
 昌浩が真っ先に丞按にかけていた術の威力を強めた。とうとう圧力に負けて、丞按の片足ががくりと折れる。顔を上げた僧の口元からは赤い液体が一筋零れ――
 だというのに、彼は凄絶な笑みを浮かべていた。
 昌浩が表情を歪めた。間に合わないことを察したからだった。
 黒い羽虫か煤にも似た妖気が意思を持つもののように空気中をうねり、幻妖へ到達する。醜い獣の毛皮にべとりとくっついたかと思うと、妖気はすうと消えて色を失くした。
 幻妖が一際大きな唸り声を上げた。劣勢を強いられていた獣たちの肉体が、みるみるうちに膨らんでいく。頸部に切っ先を突き込もうとしていた六合の鉄面皮が揺らいだ。幻妖の体躯は一回りほど大きくなり、その一撃では到底倒せそうにはなかったからだ。鍛えた鋼を寄り合わせたような四肢がさらに太くなり、牙も爪も鋭さを増している。濁った瞳がぎらりと赤く光り、六合に飛びかかった。
「………!?」
 獣の攻撃に反応して反撃の穂先が下段から跳ね上がる。つい先程までだったら獣の体を断ち割ることができただろうその槍は顎を砕くだけに終わり、使い手は柄を引き戻さざるをえなかった。
 勾陳も同じ結果に終わっていたようだ。彼女の筆架叉すらも通さぬ肉体を獲得した幻妖は、がちがちと牙を鳴らして神将たちを威嚇した。その後ろで、印を結んだままの丞按の影から――妖気に接触されて汚染された地面から、幻妖が数を増やしていく。漏れ出る妖気の拡散は留まるところを知らない、かのように見えた。
 突然、ぱぁんと乾いた音が響いた。
 空気中の妖気が瞬時に祓われる。それだけではなく、丞按から吹き出ていた謎の妖気の流出も止まっていた。穢れてしまった地面も一瞬にして浄化され、異空間の只中にあって清浄な空気が戻ってくる。
 柏手一つで妖気を祓った昌浩は、険しい眼差しで丞按を見据えていた。
 術を同時に複数行使するには限界があった。結界と縛魔術の維持の為には、それ以外に集中をするわけにはいかなかった。――そう、柏手一つ打つにしても。
 それが妖である昌浩の限界だった。
 丞按にかけていた術を解いて打った柏手だったが、強化された幻妖の弱体化はできなかった。彼らの肉体自体が殻、外と内とを分ける結界となって浄化を阻止しているからだ。
 だが、これでもう数は増やせない。
 丞按が印を解いた。彼もそのことを理解していたのだ。
 召還はできない。であれば、丞按は他の方法を取らざるをえなかった。再び結界で拘束される前に、一番厄介な敵の排除が必要だった――すなわち、昌浩の排除が。
 幻妖の群の真ん中を割って、丞按が昌浩へと走った。はっとした勾陳と六合が対峙していた幻妖から離れようとする。けれど隙を突けずに終わり、立ち位置を変えられない。最も後方に位置し戦場全体を見渡せる紅蓮は丞按の意図に気づくと、思わず炎蛇を放とうとした。
 すかさず、
「騰蛇!」
 勾陳の怒声が飛んだ。紅蓮の動きが一瞬凍り付く。そうして紅蓮を制止しながら、彼女自身は、筆架叉を丞按めがけて投擲していた。
 もちろん勾陳に人間を傷つける意思はない。狙いはあくまで丞按の足下――進路を妨害し、昌浩に反撃の機会を与える為の牽制の一撃だった。
 しかし、澄んだ金属の音がそれを阻止した。
 丞按が走りざま懐から取り出した三鈷杵が、筆架叉を弾く。短い三つの刃に防がれ、筆架叉は離れた場所に突き刺さった。
 鈍く震える鋼の音が響く。その頃には、丞按は昌浩の目の前でとうに三鈷杵を振りかぶっていた。

 勾陳はなるべく平坦に聞こえるよう口を開いた。
「帰るぞ、」
 素っ気ない響きが異空間に消える。苛立ちも怒りも彼女の中にはとうに存在しない。完全に平静を取り戻して、勾陳は現実を見据えていた。
「目的である中宮の奪還は果たした。幸い皆無事ときているし、こんな辛気くさい場所からはさっさと脱出すべきだろう。いつまでも留まっていると、やめろというのに乗りこんできそうなはた迷惑な主もいることだしな」
「……そうだな」
 年老いた主の顔を思い出しながら、紅蓮が首肯した。
 帰還が遅くなれば晴明は式神たちを案じるだろう。大体、異空間などに囚われているという時点で彼が離魂術を使ってきてもおかしくない。ここ数日はずっと体調が良さそうで、狩衣と狩袴を身に着けている日も多いが、確実に彼の天命は削られているのだ。
 大きな術を使えば使うほど、晴明の命は短くなる。
 忘れていないわけではなかった。
「昌浩、凌壽の位置を」
 凌壽をこの空間から排除しないことには帰り道が創られない、と話した昌浩の言葉を勾陳は忘れてはいなかった。そもそも最初は凌壽を探そうとしていたのだ。中宮に害をなそうとする丞按を発見したのはたまたまであり、使命を果たせたのは偶然の産物にすぎない。
 精彩を欠いたまま、子どもは緩慢に頷いた。が、すぐに顔をしかめて首を横に振る。
「……わからない」
「何?」
「まだ回復しきっていないのか?」
 紅蓮が心配そうに、細い肩に片手を乗せた。その様に勾陳と六合は目を丸くする。まったく、先程から驚いてばかりだ。騰蛇のこんな声音や表情など、ついぞ想像できなかった。
 昌浩は紅蓮から身を捩るように一歩離れ、焦ったように両手をぶんぶんと振った。
「身体はもういいんだ! いいんだけど……なんだかぼんやりしてて、」
「ぼんやり?」
「何が」
「その……。あいつの、が」
 ぎゅっと首が押さえられた。血を吸って真っ赤に染まった包帯を隠すように。昌浩は上手く言葉に表せないようで、神将たちを惑いながら見上げていたが、やがてこの地の果てを指さした。
「凌壽の居場所はよく分からないけど、あっちに綻びがある」
 空間の綻び。人界に戻るために必要な扉。この異空間に落とされた時にはなかったはずのもの。
 時が経つことによって自然発生したものかもしれない。そこから帰れるとは思う、と告げて、昌浩は眉尻を下げた。
「――あいつの罠かもしれないけど」
「その可能性はあるな」
 黙っていた六合が、少し眉を寄せて言った。
「丞按は気づいただろうか」

 その名に反応して昌浩の体が強ばった。
 神将たちは皆難しい顔をして考えこんでいた。昌浩に目を向けている者は誰もいなかった。だから、この時の変化に気づくことができなかった。
 後に紅蓮は後悔することになる。
 もし、この場で彼を注視していたら。未来という轍をなぞっていた、現在という名の車輪は脱線していたのだろうかと。
 新たな轍を刻んでいたのではないだろうかと。
 だが紅蓮は気づけなかった。それが事実で、全てだった。

 勾陳は長い睫を伏せて、予想される最悪の展開を計算しているようだった。
「……それもまた、わからないな」
 頭を振る。六合の指摘通り、可能性は十分にある。かと言って現状維持も得策ではない。今はとにかく行動すべき時だ。外部には頼れない、自分たちでどうにかするしかない。
 彼女は歩を進めると、結界の中に取り残したままの中宮を抱き起こした。顔色はあまり良くないが、意識を喪失したそもそもの原因は心的なものだ。丞按に傷を負わせられている様子もない。ああだこうだと詮索されたり悲鳴を上げられるよりは、抵抗もしないのでこの方が好都合だ。
 六合を呼ぶなり彼に中宮を預ける。彼は黙ったまま受け取った。凌壽が襲ってくる可能性がある以上、闘将二番手の腕が塞がっていてはお話にならない。騰蛇は論外だ。ならば六合にお鉢が回ってくるのは当然の帰結だった。
 腰に両手を置いて勾陳は一同を見渡した。
「とにかく今はそこへ向かうしかないだろう。その綻びとやらもいつまでもあるとは限らないしな」
 昌浩が指し示した先に向かって顎をしゃくる。
「ここに居続けたとしても、今内裏の神隠し騒ぎが大きくなるだけだ。晴明が祈祷に引っ張り出されてはかなわん」
「……そうだな」
 出された結論は尤もだった。肯いて、紅蓮は昌浩の顔を覗きこんだ。
 彼の背丈は紅蓮の胸下までしかないので、近すぎると逆に表情が読めない。紅蓮が屈まないと昌浩の顔が見えないのだ。しかも、何故だか昌浩は黙りこくったまま顔を上げないので余計にわかりにくい。
 気分が悪くなってきたのだろうか。「身体は大丈夫」と申告されたものの、彼が一度死んだのは事実なのだ。体調に影響が出てもおかしくない。
 昌浩の能力を一番把握しているのは当の昌浩本人なのだろうが、それでも不安を拭えずに、紅蓮はおそるおそる声をかけた。
「移動するぞ」
「……うん」
「掴まれ」
 手を伸ばす。昌浩は言われるがまま素直に抱きついてきた。まだ幼い少年の体温が密着してくるのに慣れず、酷く居心地が悪い。不器用に小柄な身体を抱えながら、紅蓮は最初の夜を思い出していた。
 十日も前の満月の日。あの時もこんな風に、昌浩を抱いていたのだ。
 彼は意識を失い力なく瞼を閉ざしていた。首元は今と同じに真っ赤に染まり、紅蓮はといえば、腕の中の他人の体温に戸惑っていた。
 そう容易く人の意識は変わらない。想いを自覚しても、哀しいほどに切り替わらなかった。嫌いではないのに、どうしても怯えてしまうのだ。
 今とあの晩の違いは、彼が起きているかいないかくらいだった。
(―――?)
 ふと気づく。肩と首に回された腕、その先で肌に這う昌浩の指。体躯は温かいのに指だけがまだ冷えていた、……もう血が通ってもいい頃だというのに。
 言いしれない不安に襲われ、紅蓮は抱き上げた昌浩の瞳を間近に見た。瞬間、予感が確信へと変貌する。
 彼の黒瞳は昏かった。黒曜石のように煌めいていた光はどこにも見つからない。完全な暗闇が支配する夜の眼――光が失くなっただけなのに、今や彼から受ける印象はまるで違ってしまっていた。
 軽い混乱が紅蓮の思考をかき乱す。

 どうして彼はこんな――まるで、妖そのもののような瞳をしているのだろう?

 紅蓮に術を使ったことでまだ己を責めているのだろうか? いいや、違う。自責でこんな目はしない。心を閉ざすならもっと凍りついた感情がそこにはあるはずだ。今の昌浩からは、ただ静けさのみしか伝わらない。
 直感的に、紅蓮は悟った。
 昌浩の心に息づいていた、大事なものが喪失している。
 今まで昌浩という人格を構成していた重要なもの。それが失くなったために、彼はこんな瞳をしているのではないのか?
 刃を突き立てられるような痛みが心臓に走った。このままではいけないと、紅蓮の勘が叫んでいる。しかし同朋は既に紅蓮を置いて砂利を蹴立てていた。足を止めている余裕はない。
 数瞬の葛藤の後、紅蓮はせき立てられるように仲間の背を追っていた。
 

◆◆◆


 ――ずっと人を傷つけるのが怖かった。
 妖を滅するのは簡単にできた。でも人間を傷つけたり、ましてや殺すことはどうしてもできなかった。
 だって人間は弱い生き物なのだ。ほんの少し力をかけるだけであっけなく死んでしまう。そんなの、身に染みて一番よく知っている。
 だからできなかった。
 だけど、……だけど、人間のせいで、自分が好きな人を傷つけてしまうなんて考えてもいなかったのだ。
 丞按。
 俺が泣き言を言ってお前を殺そうとしなかったから。
 俺が躊躇したせいで、あの人が死にかけたのだ。
 だったらもう、決めるしかない。

 やるしかない。
 

◆◆◆


 手頃な岩に腰掛けて凌壽は瞼を閉ざしていた。自分の創った異空間だ、どんなに遠くで起こっていることでも手に取るように把握できる。荒れ狂う霊力と通力の気配を精密に読みとりながら、凌壽はその時を待っていた。
 やがて微かな霊気がぱっと弾けて消える。くすりと笑みを浮かべ、彼はさらに時を待った。このままよく見知った霊気が復活しなければ、策は成功だ。同時に晶霞に対して勝ったも同然になる。
 が、やはりそうそう思惑通りにはいかなかった。消失からしばらくして霊気が復活する。凌壽はわかりやすく肩を落として落胆し、舌打ちするなり腰を上げた。
「しぶとい奴め…」
 長い黒髪をがりがりと掻き毟り、あーあと子どものような拗ねた声を出す。次にぱちんと指を鳴らし、彼は己が創生した世界に干渉した。
 石が砕けるような硬い音と共に、真横の何もない空間に亀裂が入る。
「仕事はまだ終わってないぞ、丞按」
 わざと創り出した異空間の綻びの横で、漆黒の天狐は待った。
 霞む闇の先から人影が現れるのを。
 いくらもしないうちに、砂地の向こうから男が現れた。錫杖を失った僧衣の壮年男性。頬の痩けた厳つい顔をさらにしかめ面にして、彼は歩調を緩めると凌壽の眼前に立った。
 天狐はにやにやと悪童の笑みを浮かべている。すぐ側にある空間の綻びに目をやるが、今更ながらこの妖の意図が読めず、丞按は眉間の皺を増やした。
「ふがいないもんだな。これだけ俺が手伝ってやったっていうのに、もう逃げるのか?」
「貴様……」
 この天狐はいちいち人の神経を逆撫でする。思わず丞按が唸ると、芝居じみた仕草で相手は両腕を上げてみせた。
「お前にはまだここにいてもらわなきゃ困るんだ。お疲れのところ悪いがまだまだ働いてもらうぞ」
「何?」
 ぞわりと悪寒が項を撫で、丞按は反射的に跳び退こうとした。しかし一歩遅く、両足が黒い縄に捕らわれる。いや、それは縄ではなかった。丞按自身が使っていた天狐の呪縛だった。
 あっという間に全身が大蛇に締め上げられる。真っ先に両腕は後ろ手に戒められ、身動きすらできない。立っているのがやっとだ。
 圧力に手足の骨が軋む音を聞きながら、丞按は殺気を天狐にぶつけた。
「凌壽……なんのつもりだ」
「さっきも言っただろう、働いてもらうと。もう少し昌浩とあの連中をやりこめてもらわないと困るんだ。俺はあいつの天珠がどうしても欲しいんでね」
 呼吸をするのも苦しい。てんしゅ、と口の中だけでその単語を呟く。
 凌壽が異空間を創った時、丞按もその場に居合わせていた。小さな白い宝珠を数珠繋ぎにしていくつも持っていたようだった、おそらくあれがその天珠とやらなのだろう。
 だが奴は複数所持していたようだった。あれだけではまだ足りないとでもいうのだろうか。
(それに、「昌浩」だと?)
 それがあの幼い見かけの天狐の名前であることは知っていた。けれどその天狐はつい先程丞按自らが手を下し、命を絶ち切ったばかりのはずだ。
 ますます渋面になった丞按に、凌壽は不思議そうに訊いた。
「なんだ、不服そうだな」
「あの天狐ならもう殺した」
 あははは!
 掠れた反論に、凌壽はおかしくてたまらないと言わんばかりに腹を抱えて笑った。不快げに睨みつける丞按など関係なしにひとしきり痩躯を震わせていたが、嘲笑を隠しもせずに露わにする。
「詰めが甘いんだよ。まったくしょうがない奴だなあ」
「なんだと?」
「あいつはまだ生きてる。ちゃあんと死体が消えるところまで確認しておけよ」
「……そんな注文は受けていない」
「そういやそうだな」
 言っていなかったもんな。
 凌壽は悪びれもせずにけろりとした顔を見せた。明らかに丞按の殺気を面白がっている。歯軋りする丞按に顔を近づけ、至近距離で向けられる悪意をじっくりと味わっているようだった。
「お前だって分かっていただろう。俺たちは別に手を組んだわけじゃない。互いに利用しあうと決めていたはずだ。だから俺は最大限お前を使っているだけじゃないか」
 そう不機嫌になるなよ、とむしろにこやかに告げる凌壽に、丞按はますます殺気を募らせた。
「何故あの天狐に拘る。お前が出向いてさっさと殺せばいいものを」
「労力は少ない方がいいだろ? あいつの周りにしち面倒くさいのもいるしな。その点お前はまだ人間だから、当て馬にはちょうどいい。――周りの奴らを痛めつけて、早くあいつを弱らせてくれよ。俺はあいつの天珠で晶霞を倒す力を手に入れるんだ」
 まるで楽しみにしている夕餉の内容を話す子どものようだった。邪気も何もなく、ただ単純に凌壽は待ち望んでいる。楽しげに。
 その夢を丞按は嘲笑ってみせた。
「ずいぶん回りくどい手を取るのだな。ここを創るのに使った天珠とやらでは足らんのか。あんな弱い天狐、足しにもならんだろうに」
「死にかけると能力が成長するという話を知らないのか?」
 今度は凌壽が丞按を嘲り返した。
「俺はもう随分あいつを殺してきた。その度にしつこく生き返っては成長していく様も見続けた。
 そろそろ収穫時なんだよ、あれはな」
 凌壽はくるくると人差し指を振った。
「昔、あいつの中に種を蒔いたことがある。俺の妖力に反応して、宿主の力を削ぐ種子をな。昌浩は俺以外と戦えば、天狐の名にふさわしい霊力を発揮して相手を滅ぼすだろう。けどな、」
 楽しくて楽しくてたまらないといった様子で、天狐はうっそりとほくそ笑んだ。
「俺と戦うときだけあいつは弱くなる。俺はあいつの天敵なんだよ。……かわいそうに、どうしても倒さなきゃならないのはこの俺だというのになあ」
 そこまで告げると舞うように踵を返し、凌壽は丞按にひらひらと手を振ってみせた。
「それじゃ、あの老人がここに駆けつけない内にせいぜい頑張ってくれ。――そうだな、もし生き残っていたら礼だ。お前の目的にももう少し協力してやるよ」
 甲高い笑い声が残響を残して辺りを満たす。一瞬揺らめいたかと思うと、陽炎の如くその身が消えた。どこにも天狐の姿は見当たらない。
 なんとか解呪できないものかと会話の間に試していた丞按は歯軋りして、もう誰もいない虚空を睨みつけた。黒蛇は凌壽が消えても、変わらずきりきりと締め付けを続けている。
 そんな中、丞按ははっとして遠方に視線を移した。
 この遠距離でもはっきりとわかる。刺々しい神気の群。闘将たちがまっすぐこちらに近づいている。
 猶予はない。
 悪態を吐き捨て、丞按は両腕に力を込めた。蛇は小賢しくも手のひらを外側に開かせようと巻き付いている。残った力を振り絞り、彼は後ろ手のまま不動明王印を結んだ。
「搦めの綱解き、放ち道ぎり、オンアビラウンケンソワカ」
 乾いた音が弾けた。途端に蛇はぼろぼろになって地面に落ちる。やっと自由を取り戻したものの、丞按はがくりと膝を突き、荒く息継ぎを行った。
 ただでさえ消耗していた法力が、これでさらに減少した。もう十二神将どもと渡り合う余裕など残っていない。心に満ちるのは焦りばかりだ。
 休む暇などない。凌壽の目論見など知るか。早くここから逃げ延び、藤原への次の一手を考えねば――

 顔を上げる。瞬間、視界を閃光が満たした。
 

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