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「騰蛇!」
 声が唱和した。
 同朋が倒れていく。十二神将最強たる騰蛇が、成す術もなく。
 ありえないと考えもしなかった事態を目の当たりにして、二人は全身から血の気が引いていくのを感じていた。
「おいしっかりしろ、騰蛇!」
 勾陳が体に手をかけ名を繰り返し呼ぶが、反応はない。いくら揺すぶってもぴくりとも動かない。
(何が――)
 いきなり紅蓮が昏倒した理由がわからず、勾陳は愕然としたまま彼の大きな背を見つめた。
 その時だ。昌浩に覆い被さるように倒れたその体の下で、蛍火のようなぼんやりとした燐光が漏れ出たのは。
「………!」
 何度か眼にしたことのある、光。その光が瞬く時何が起きるのかを、二人はけっして忘れてはいなかった。
 瞬時に真実を悟った六合の背筋に悪寒が走る。咄嗟に紅蓮を背後から抱えるようにして抱き起こすと、燐光がふつりと掻き消えた。僅かに安堵するが、ほっとするにはまだ早い。六合は紅蓮を仰向けに横たわらせると呼吸を確かめた。
「騰蛇、」
 勾陳が膝を突いて紅蓮の顔を覗き込む。至近距離からの呼びかけにも答えがない。瞼を閉ざし、彼は完全に意識を失っていた。
 顔色は少し悪いだろうか。だが目に付く異常といったらそのくらいで、脈拍も呼吸も正常だ。命に別状の無いことを確認して、二人は一息をついた。
「おい起きろ、騰蛇」
 勾陳が容赦なしに紅蓮の両頬を張る。何度か乾いた音が響き渡った後、瞼が振動したのに気づいて彼女は振り上げた平手を止めた。ただの生理的な痙攣かと思ったが違うようだ。続いて発された呻き声が、紅蓮の覚醒を示唆していた。
 金色の瞳がゆっくりと現れる。
 同朋の中で最も神気の強い男が倒れるところなど、十二神将の誰もが目にしたことがない。六合と勾陳は神将の中でも冷静さの際立つ方だったが、流石に動揺を隠せずにはおれなかった。無表情を崩すことのない六合でさえ、心臓の鼓動はずっと早鐘の如く打ち鳴らされていた。
 紅蓮の眼差しはぼんやりとして定まっていない。が、頭上から見下ろす勾陳と六合を認識するように視線が左右に揺れた途端、急速に焦点を取り戻した。途端彼は手を突いて勢いよく上体を起こそうとするが、失敗した。再び地面に転がりながら短く悪態をつく様子に、勾陳は呆れながら安堵のため息をついた。
「……顔が痛いぞ」
「手加減しなかったからな。悪かった」
 紅蓮は両手で目を塞いだまま動かない。眼底が痛むのだろうか。
 喋ることは問題ないのか、彼は続けざまに尋ねてきた。
「何が……あった」
「それはこちらの台詞だ、」
 いきなり昏倒されたのだ、状況把握など二の次だった。ただ――
「昌浩は……」
 二人は黙り込んだ。
 紅蓮は彼らが故意に沈黙したのに気づいて頭を動かした。側頭部はどくどくと脈打ち、視界は赤い砂嵐がかかってまともに働かない。耳鳴りも酷く、勾陳たちの声も水を通したようにくもって届く。全身が気だるく力が入らない。脈動はゆっくりと治まってきているから、しばらくしたら起き上がれるようにはなるだろう。

 けれどそれはどうでもいい。

 自らの消耗。意識を失う直前に目にしたもの。
 紅蓮は疑っていなかった。

「昌浩、」

 すぐ側にいるはずの、彼の名を呼ぶ。
 六合は傍らの、死体だったはずの者に目をやった。青白く鎮静していた肌。それが今や、完全に血色を取り戻して存在している。
 ひくりと、細い指先が痙攣した。

(やはり)

 勾陳と六合が共に息を呑んだ。
 背後から腹部を貫かれた天狐は、黄泉の縁から甦っていたのだ。
 おそらくは、紅蓮の寿命を対価として。
 紅蓮は周囲の霊力を探っていた。五感と頭は負荷に耐えかねて悲鳴を上げていたが、その分それ以外の感覚は明瞭に働いていた。
 枯れた泉が再び沸き出るように、彼の霊力が噴出していくのが感じられる。
 うっすらと紅蓮は片目を開けた。暗い視界の中、砂の帳に隠れて横たわる昌浩の肢体を見つけようとして。すぐ側にいるはずの、彼に会うために。
 重い手を伸ばし、紅蓮は再度呼びかけた。
「昌浩」
 こんこんと満たされていく彼の霊気に触れたかった。
 かけられた声に気づいたのか、ぼんやりと昌浩の黒瞳が現れる。深淵の黒を塗り込めた眼差しはつかの間天空を仰ぎ、その後視界に入り込んだ皆の顔に向けられた。意思の感じられない視線が順繰りに回る。何度か瞬きを繰り返し、彼は勾陳と六合の愕然とした表情にふと不思議そうな目を向けた。
「……どうしたの……、」
 掠れた囁きが落ちる。
 その囁きが昌浩自身の耳に届いた瞬間、彼ははっと両目を見開いた。
「なんで、」
 双眸が同じく横たわる紅蓮に移動する。彼が、紅蓮だけが横臥していることに気づき、その幼い面がみるみるうちに青褪めていった。
 唐突に跳ね起きるや否や、反射的に紅蓮に触れようとする。だが直前で火傷を負った時のようにびくりと引っ込め、昌浩は代わりに自分の肩を抱いた。
 様子がおかしい。
 紅蓮は無理矢理に身を起こした。一瞬砂嵐が色を変え強くなる。しかし気分の悪さは意思力で押さえ込み、彼は昌浩へと膝立ちのまま近づいた。
「おい」
 けれど昌浩は怯えた目をして、逆に後退さりをするばかりだった。
 嫌な音を立てて紅蓮の心臓が脈打つ。己が動揺しているのだと自覚するのに数瞬の時を要した。自覚した途端、さらに心臓が軋んで紅蓮は動けなくなってしまった。
 昌浩に怯えられるのは、これが初めてだった。
 他人に畏怖の目を向けられるのは慣れていた。生を受けた時から、同朋にすら怯えられていたのだから。だが昌浩は違う。彼だけは、紅蓮を恐れずに接してくれた。自身の弱い体躯が紅蓮によって傷つく可能性などこれっぽっちも考えやしないで、最初から紅蓮に接触してきたのだ。
 あの時の小さな掌の体温は、今でも紅蓮の皮膚に留まっている。
 だというのに、今更紅蓮に怯えるというのか。
 紅蓮の何に怯えているというのだろうか。

(俺の何に)

 昌浩の剥き出しの二の腕が、痕が残るほど爪を立てられている。黒瞳は紅蓮に対して向けられたまま、感情の渦がせめぎあって歪んでいた。
 悲哀と怯惰――そしてほんの少しの憎悪。
 その眸を、いつかどこかで目にしている気がした。
 つい最近だった気もする。遙か遠く昔だった気もする。ごく近く、毎日でも見続けていたような気さえする。
 そう、この眸は他人に対して向けられるものではない。これは自分自身に対して、己を厭った時に向ける目だ。
 晴明を手にかけ自身の力に怯えてからずっとこの眸をしていた。無くなってしまえばいい、必要ないと金冠を施してもらっても力への憎悪は消えなかった。ごくたまに水鏡を覗くと、その中には力を厭う者が紅蓮を責めて映っていた。
 だからわかった。

(――そうか)

 闇色の絶望がじわじわと押し寄せて、昌浩の四肢を絡めとっている。常闇の牢獄。眼前に現れた罪。彼は償う方法すらわからず、抗うこともできず、諾々と受け入れるより他にないと信じているのだ。
 いつかの紅蓮のように。

(こいつは)

 知らず、腕が伸びていた。
「俺は平気だ」
 有無を言わさずに昌浩の手をしっかと握りしめる。昌浩の喉がひくりと鳴り、筋肉が強ばっていくのを感じた。逃れようとする腕を引き留めて、紅蓮は子どもの両眼を正視した。
「この通り生きている。問題はない。気にするな」
「……うそ」
「ないと言っている」
「だって」
「――わからんやつだな」
 昌浩の手を握ったまま、紅蓮は立ち上がってみせた。視界が一瞬だけ暗くなるが、表面にはおくびも出さない。僅かに残る吐き気にも平然と耐える。昌浩はつぶさに一連の様子を追っていた。が、何事もないかのように振る舞う紅蓮を呆然として見上げるより他になかった。
 ふと、紅蓮は考えた。

(「気にするな」など)

 何故さっき、そんなことを言えたのだろう。

 胸を針が刺すような痛みと共に、焔に巻かれて床についていた主を思い出す。ほんの数十年ばかり前のことだ。縛魂の術に囚われて晴明を害し、術が解けて半狂乱のまま岦斎を殺した。荒ぶる焔は晴明を飲みこみ、大火傷を負わせ――紅蓮の心にも癒えない傷を刻み込んだのだ。
 全身を包帯で覆った晴明の枕元で俯く紅蓮に、主は言った。

(……お前が悪かったわけではない。気にするな)

 その言葉を、ずっと受け入れることができなかった。今だってそうだ。到底自分を許せるとは思っていない。けれど晴明がかけてくれた言葉を昌浩に渡すことができた。自分自身は受け入れられなかったというのに――
 どうしてだろう。
 昌浩が、紅蓮と同じだからなのか。
 彼は己の力が他者に向くことを恐れている。紅蓮と同じに、自分の力を忌まわしいと断じている。震える昌浩の眸は紅蓮と同じように嫌悪に歪んでいた。見た瞬間にわかった。
 初めはほんの少しだけ興味を持っただけだったのだ。騰蛇の神気を恐れずに触れてくるのに戸惑い、子どもの姿に動揺し、その力を警戒した。霊力以外は全く人と同じであることを知ってからは、彼からの接触が恐ろしくなった。
 礼を言われてからは――その素直な好意にどう応えればいいのかわからなくて、逃げた。
 失ったと思いこんでからは、喪失に怒りを覚えた。

 もう認めるしかないだろう。
 そうだ。俺はあの時お前に微笑まれて、嬉しかったんだ。
 触れられて嬉しかった。言葉を交わすのが楽しかった。
 同時に期待を裏切られるのが嫌で、お前を信じることができなくて、だからお前を拒んだんだ。
 それでも期待を捨てることはできなかった。心のどこかでお前を信じかけていたから、死によって奪われることに我慢がならなかったのだ。
 だが今はどうだ。逆に拒絶し返されて、俺はこんなにも衝撃を受けている。驚恐を司る最強の十二神将騰蛇が、なんともみっともない話だ。
 好きだと告げられた、あの時。本当は――本当は、言葉を失うほど嬉しかったのだと、今ならわかる。

(晴明、)

 俺はまだ、自分自身を許すことはできない。俺の咎は大きすぎるからだ。だがお前がくれたもののおかげで、代わりに他人を許すことができた。この子どもが傷つくことがないようにと、願うことができた。
 昌浩も俺と同じように、自身を許すことはできないかもしれない。だが他人から許しを与えられたいと希むのは、おかしなことだろうか?
 俺は自分を罰しながら救いを求めていた。罪深い考えなのはわかっている。それでも、どうしても、希まずにはいられなかった。
 そう、俺は救われたかった。
 救われたいんだ。
 そして今度は、救ってやりたいんだ。

「立て」
 促し、腕を引き寄せる。引っ張られるままに昌浩は立ち上がったが、その間、けっして目を合わそうとはしなかった。
 紅蓮の手の中の指は、ずっと冷えきって震えていた。
「ほんとに、」
 蚊の鳴くような囁き声。
 聞き逃すまいと耳をそばだて、紅蓮は続きを待った。
「平気なの」
「ああ」
 おずおずと、目線が上がる。瞳にありありと書かれた「信じ難い」という感情に、紅蓮は苦笑した。
 それでも、冷えた手は離さなかった。
 六合と勾陳は黙ったままそれを眺めていた。微かに眉間に皺を寄せているのは勾陳だ。六合はちらりとそれに目をやったが、口は出さなかった。
「昌浩、」
 びくりと昌浩の肩が跳ねた。弾かれたように六合に怯えた視線が向けられる。昌浩の手が紅蓮の手を強く握り返した。恐怖に強ばった幼い顔は誰かに似ていた。そう、騰蛇とはち合わせた太陰とそっくりだった。
 その事実に少し胸を痛めたが、表面にはおくびも出さず六合は続けた。
「お前の忠告を活かすことができなかった。すまない」
「……え、」
「言っただろう。離れろと」
「――ああ」
 昌浩は地面に目を落とした。
 戦場に向かう途中で六合に残した忠告。本人は遺言のつもりだったのだろうが、結局六合はその言葉に従うことができなかった。
「だが」
 続けられた言葉に、昌浩は顔を上げた。
「実行したほうが良かったのか、俺にはわからない」
 もしあの時六合が皆を遠ざけていたら、紅蓮が吸気の術にかかることはなかっただろう。ただし昌浩は甦らないまま、神将たちは異空間に取り残されていたに違いない。ひょっとしたら晴明が離婚術を使って救出にきていたかもしれなかった。それは神将たちの望む未来ではない。
 結果からすれば、全員が欠けることなく救われている状態だ。昌浩が生き残った、その事実は喜ばしいことのはずだった。――なのに、これでよかったのだと断じることはできなかった。
 騰蛇は確かに危害を加えられたのだから。
 答えを出すにはまだ早すぎた。
「……まあいい」
 ずっと沈黙を保っていた勾陳が、ため息をつくように言葉を吐いた。
「同朋を傷つけられたことは大変遺憾だが、今はどうこう言う時機ではない。騰蛇も問題はないようだしな。結論は晴明が出すだろう」
 私はそれに従うまでだ、と言いおいて、彼女は紅蓮を見やった。昌浩の手を握ったままの、彼を。
 紅蓮は勾陳を僅かに険のある眼差しで見据えていた。
(不服か、)
 くすりと勾陳は朱唇を笑みに形作った。
 あの騰蛇が!
 なんと愉快な話だろうか。ほんの少し前まで冷酷非情の代名詞のようだった男だというのに、今のこの体たらくといったら。氷のように頑なな態度は、取り付く島のない刺々しい言葉はどこへ行ってしまったのか。特に子どもなど邪険にしていたはずなのに、相手が妖とはいえ手まで繋いでやっているなど!
 まして気遣いまで見せてやるとは、比類なく愉快な話だった。
 騰蛇の身に悪いことが起きる可能性は丁重に断りたかったが、彼の変化は好ましかった。
 口では釘を刺すように昌浩の所行を非難したが、実のところ、勾陳本人に悪意はなかった。――よくよく考えれば神将に寿命などないのだから、一時的に生気を奪われて、悪ければ昏倒する程度なのだろう。十二神将最強たる紅蓮の生命力が強かったのも幸いした。当人はすでにぴんぴんしていることだし、そう深く責任を追求する気にはなれなかった。
 

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 少女の悲鳴が上がった。静かな環境で育った章子にとってはあまりに衝撃が強すぎたのだろう。結界と幻妖の群越しに全貌を捉えていた彼女はついに耐えられなくなったのか、ふつりと昏倒した。
 遊環がなる。
 血塗れの錫杖で再び紅蓮を指し示し、丞按は愉悦に浸った笑みを浮かべた。
「無駄なことをするものだな」
 あからさまな侮蔑に、神将たちの顔が歪む。
 その時だった。
 昌浩の血が、うっすらと発光した。
 彼の虚ろな瞳は、太陽も月もない空を見上げたまま微動だにしない。だが体内から逃げた血液だけが広がって、仄白く光を放っていた。
 丞按が履いている草履が赤く血に染まり――刹那、閃光が弾けた。
「なっ……!」
 発光したのは狐火だった。焔に巻かれて丞按がたたらを踏む。油を吸った火が一瞬で燃え広がるように、血を媒介と化して白炎が燃え立ったのだ。
 瞬く間に狐火が一帯に拡散する。昌浩の最期の灯火が茨に触れた。黒いそれが白に転じ、灰となって脆く砕け散る。
 紅蓮は力任せに戒めを振り解いた。その双眸は真紅に染まり、晴明から与えられた二つ名と同じ色を表していた。鋭く踏み込むと同時、その片腕が丞按の喉元へと伸びる。
 金眼が紅く燃えている。

(かまうものか)

 黒い爪は錫杖に阻まれた。が、紅蓮は諦めなかった。鈍い金属音を立てて錫杖を弾き、さらに奥へと踏み込む。
 焔の槍を創ろうとは思わなかった。創造に集中する一瞬が惜しかったからだ。その一瞬を作るくらいなら、素手で丞按を括る方がいくらかましだった。
 三度目の禁忌を犯そうとしていることに、躊躇いはなかった。
 ――昔、もし晴明が人間に殺されたら、と考えたことはあった。しかしその時は答えが出ず、保留にしたまま記憶の奥深くにしまいこみ、自問そのものを忘れていた。
 けれど今なら答えられる。
 ああ、そうだ。もし晴明が殺されれば、その相手を八つ裂きにするのは俺の役目だ。他の誰にもできはしない。俺だけが成し得ることができる。既に穢れたこの身だけが、親殺しの責を担えるのだ。
 渦巻く思考が高熱を帯び、激したまま煮え立っていく。

 人間だろうが、かまうものか。

 この人間は昌浩を殺したのだ。
 紅蓮を守ろうとして飛び出した彼を殺した。

 彼だけが、晴明と同じに笑いかけてくれた。
 ――その笑顔を、信じかけていたのに。

「丞按…!」

 激しい闘気に煽られた狐火は広がり続け、焔に煽られた幻妖が逃げ惑った。六合と勾陳の茨を焔が灼き切り、灰が舞い散る。解き放たれた闘将二人は紅蓮に加勢して、狐火の中を走り抜けた。
 六合と勾陳の視線が僅かな間紅蓮の背中に注がれる。痛いほどの殺気が迸っていた。それを認めるや否や、勾陳の眼差しが険しく顰められる。
(理を犯すつもりか)
 十二神将にとって理は絶対だ。だが、必ずしも最重要視するものではない。晴明と理を天秤にかけられたら――勾陳もどう出るか、己で判断がつきかねる。
 しかし今紅蓮が激高しているのは晴明を傷つけられたからではない。あの天狐が害されたからだ。
 確かに勾陳は紅蓮が変わることを願っていた。彼の情の激しさを知っていたからだ。それが、こんな方向で噴出するとは考えてもいなかった。
 殺気を出しているものの、未だ煉獄を操っていないのは最後の一線を越えていない証拠だろう。ただ、いつ踏み越えてしまってもおかしくない脆い砦だが。
 紅蓮は後悔こそしないかもしれない。けれど苦しまない保証などどこにもなかった。であれば、紅蓮が起こすであろう凶行をなんとしてでも止める必要があった。
 この場でそれができるのは、勾陳しかいない。
 最強を止められるのは、二番手の彼女だけなのだから。
(早まるな、騰蛇よ……!)
 筆架叉を一振りだけ手に取り、勾陳は六合と共に丞按を左右から挟み込んだ。
 いかな剛の者でも所詮は人間だ。体術で神将に勝てるわけがない。ましてや三人掛かりであれば、丞按といえど逃げを意識せざるを得ない。
 紅蓮の猛攻を錫杖を盾にしなんとか凌ぎつつも、重ねて接近する敵影を視認した丞按は冷静に己の不利を認めた。
 中宮に術をかける機会を逸してしまったのは口惜しいが、ここで退かねば自分の命が危ない。炎の闘将は明らかに理性を失いかけている。十二神将の心を縛る理など、いつ無為になるかわからなかった。
(潮時か)
 ちっと舌を打って、丞按は眼前の闘将の左腕を弧を描いた柄で叩いた。瞬間左手を素早く錫杖から離し、短い挙動で闘将の顎を打ち抜く。がちんと歯が鳴る音が響き、確かな手応えが骨を伝った。
 丞按自身の視界から錫杖が見えなくなった、その時だった。
 紅蓮は真紅の双眸をかっと見開いた。揺れる視界と緩慢になろうとする身体の悲鳴を無視して、左手を狙った場所へと伸ばす。
 掴んだのは冷たい感触だった。
 そのまま、金属を握り潰す。
 灼熱の闘気が込められた掌は呪力ごと、丞按の錫杖を木っ端微塵に打ち砕いた。
「ぐっ……!」
 散った破片が丞按の肌に赤い線を残す。得物が消失したことに焦りの色を濃くすると、怪僧は僧衣の袖を払った。
 凌壽から受け取った最後の毛髪が、意思を持つもののように空中を走る。
 もうこの場では使う気はなかったというのに、思わぬ反撃を受けたせいで使わざるを得なかった。錫杖を、丞按の術を最大限に発揮する得物を破壊されてしまったのは完全に予定外だったからだ。あれを失くしてしまった今、縛魔術は凌壽の毛髪を媒介にかけるより他に方法がない。三人の闘将相手に逃げ仰せるには、どうしても行動を制限する術が必要だった。
 もし神将に拘束されて無為に時間を浪費してしまうと、中宮は丞按の手の届かない内裏まで隠れてしまうだろう。それでは丞按の計画全てがおじゃんになる。今は退いて機会を窺うしかない。
 残る黒髪はちょうど三本。
 細い線がくねったかと思うと、たちまち一本が紅蓮に襲いかかった。
 途端真紅の眼がさらに色を濃くして燃え上がる。篭手を嵌めた褐色の腕を横薙ぎに振り払い、紅蓮は吼えた。
「同じ手を食うか!」
 空中に浮かんだ凌壽の髪の毛を、素手のまま毟り取る。
 自殺行為にも等しい所作だったが、彼の掌には既に白銀の焔が燃え立っていた。蚯蚓のようにうねっていた頭髪が、神気に焼き尽くされてぼうと燃え上がる。
 全身から吹き出していた殺気が焔へと変貌する。右手に留まっていた煉獄がさらに火勢を強めたかと思うと、燃え盛る龍が形作られた。
 その間、僅か数瞬。召還された白銀の龍は業火をまき散らしながら突き進み、その口腔へ黒糸を飲み込んだ。合わせられたあぎとの奥で黒い灰が砕け散る。すぐさま紅蓮は龍を操る右腕を振り、照準を丞按の背中に定めた。
 しかし、その軸線上に何体もの幻妖が立ちはだかる。
 最初に気づいたのは六合だった。皆の足下を埋めていた狐火が、いつしか火種を失った炎のように勢いを衰えさせていたのだった。狐火の陣に進入できなかった幻妖たちは陣の外側で右往左往していたが、それを破れることを察した丞按が呼び寄せ配したに違いない。
 弱まった狐火を踏み散らして牙が勾陳たちに迫る。丞按は幻妖を壁として、既に逃亡を図っていた。
「待て……!」
 唸って、紅蓮は龍を解き放った。一直線に伸びた龍身が、炎の牙が、幻妖たちを引き裂き飲み込んでいく。
 だが丞按には届かなかった。
 すんでのところで最後の幻妖に阻まれ、龍は炎鱗を散らして消え失せた。対して丞按は遠く、韋駄天のように駆けている。
 歯噛みして、追い縋ろうと紅蓮は足を踏み出した。神足で駆ければ丞按に追いつくことは簡単だ。が、その腕を引き留める者があった。真紅の瞳が鋭く眇められ、きっと仲間を振り返る。
 引き留めた当人の勾陳は首を振って、彼を諫めた。
「私たちの目的は丞按を倒すことではない。ここから脱出して帰還することだ、――中宮を保護してな」
「――っ」
 反論の言葉が口を突いて出そうになる。だがなけなしの理性が、ぎりぎりでその圧力を封じ込めた。
 勾陳の言うとおりだ。
 紅蓮の衝動は感情に任せただけの危険な代物だ。主から与えられた命は中宮を助け無事連れ帰ることのみ。無理に追撃をかける必要性はどこにもない。
 目的を果たした今、わざわざ理を犯さずともよいはずだった。
 紅蓮の瞳の色が落ちる。現れた金色の輝きは呆然として、離れた所で横たわる小さな骸に向けられた。

 その表情がはにかんでいた時を思い出す。

(――この前はありがとう)

 彼はぴくりとも動かなかった。
 その瞳は開いていた。光はなく、ただ虚ろだけを映していた。薄く開いた唇は青みを帯びて空に向かい、熱を拒否し続けていた。
 ふらふらとその隣に膝を落とす。紅蓮は微かな希望を抱いて腕を動かした。口元に掌を翳す、が、空気は動かない。
 真っ赤に染まった首の包帯にも指を添えた。ぬるつく液体はまだ温度を置き土産に残している。けれど、確かな証は微塵も与えてはくれなかった。
 彼の上に死が降り積もっていく。

(凌壽から助けてくれて。感謝してる)

 声が聞こえたような気がした。
 反響するその音の源を探して、紅蓮は辺りを見回した。
 一面に広がる砂地と岩場が目に入る。だがどこにも生命の気配は見当たらない。彼の気配もどこにもない。
 視線を元に戻す。黒髪が地面に散らばっていた。騰蛇より一回りも小さな身体の下で、砂がどす黒く染まっている。

 もう認めざるを得なかった。

 昌浩は死んでいた。

 何か生命があれば彼は自身の能力によって命を繋いでいたかもしれなかった。だというのに、この空間には何もない。だから彼は傷を癒せずに斃れてしまった。
 そこで思い至り、紅蓮ははっと息を呑み込んだ。

 この異空間を創った凌壽の目的は、まさしくこれだったのではないだろうか。

 最初からここが彼を殺すためだけに創られた檻だったとしたら。
 丞按に中宮を連れ込ませたのもきっと偽装だ。どうして早く気づかなかったのか。元々凌壽の狙いは彼だったのだから、すぐにその狙いに気づくべきだったのだ。
 気づいていれば、昌浩は死ななかった。
 こんなに呆気なく死ぬことはなかったのだ。

(俺の命を拾ってくれたのは、騰蛇なんだ)

 取り戻す術はない。彼の屈託も打算もない微笑みは、永久に失われてしまった。

(俺、騰蛇が好きだよ)

「……なぜ、俺を、庇ったんだ……?」
 ぽつりと落ちた呟きに、六合が微かに眉を寄せた。
「騰蛇、」
 紅蓮は見るからに動揺していた。六合とて何も感じないわけではないが、あの最凶たる騰蛇が眼前で衝撃を受けているのだ。その事実によって、六合はまだ冷静でいられることができていた。
 おそらく昌浩は自分が死ぬことを覚悟していたに違いない。だからあんな言葉を六合に遺したのだ。

 あの時耳元で囁かれた警告は、遺言。
 
 六合は昌浩の言葉を思い出しながら、紅蓮の肩を掴んだ。
「離れろ、騰蛇。早く」
 紅蓮は緩く頭を振った。聞き分けのない幼児のようだった。
 昌浩が命を落としてどのくらい経つのだろう。まだ彼の骸に変化は起こっていない。ということは、これから変化が始まるのだろう。昌浩は一丈は離れろと言っていた、早く距離を取らなければならない。
 理由を話している暇はなかった。掴んだ肩を引っ張る。筆架叉をしまった勾陳も紅蓮の背後に立って、そっと肩に手を添えた。
「……置いていくわけにも、いかんだろうな」
 晴明が悲しむだろう。
 勾陳の切れ長の瞳は珍しく痛みを湛えていた。細い呟きの後に首が振られる。感傷を振り払った声が、凛として響いた。
「騰蛇、立て。……六合、昌浩を運べるか。私は中宮を。なんとかして結界を破り人界に立ち帰るぞ」
「待て、その前に」
 話しておかねばならないことが、と続けようとして、六合は紅蓮の肩を先程より強く引いた。血潮に濡れた指が昌浩から外れる。ようやく紅蓮は顔を上げて、六合を見た。
 六合のよく知る凶将騰蛇は、そこにはいなかった。
 初めて逢う男がそこにいた。いつも冷酷な眼差しを向けていた神将の姿はどこにもない。帰り道を忘れてしまった迷い子のような瞳が、六合を見上げていた。
 六合は静かに狼狽した。
「……騰蛇」
 紅蓮が眼差しを伏せる。動揺が伝わったのか、彼は静かに視線を逸らした。
「ああ……すまん」
 彼の口から零れた謝罪に、六合は内心で驚いた。
 こんな台詞を言う男ではなかったというのに。
 その思いは勾陳も同じようだった。強ばった彼女の頬が、六合が受けたものと同じ動揺を物語っていた。
 同朋に促され、俯いたまま紅蓮が立ち上がろうとする。

 その時、指を引くものがあった。

 ひゅっと息を呑んで、紅蓮は視線を落とした。
 黒に近い褐色の指を、別の青白い指が握っていた。
 天を仰いでいたはずの真っ黒な瞳が光のないままにぎょろりと動く。

 眼が合った。

 次の瞬間身体を襲った衝撃に、紅蓮は耐えきれず崩れ落ちた。
 

 狐火を走らせたはいいが、為す術なく体力と霊力を奪い取られ続け昌浩の疲労は限界に達していた。攻撃する余裕はない。動くことすらできない。ただ震える足を叱咤して、倒れずに狐火を熾すのが精一杯だ。
(……つよく、なったと)
 胸元は流れ出る血液でしとどに濡れている。
(思ったんだけどな……)
 都に帰ってきた時の昌浩の霊力は確かに成長していた。一族虐殺の夜から何度も死にかけ、その度に生還した結果だ。死の淵から甦った生き物は力を強める。凌壽に何回も殺されかけ吸気の術で息を吹き返す度、昌浩は己の霊力の向上に気づいていた。結果、八十三年前より確実に昌浩は強くなった。
 しかし凌壽に植え付けられた呪詛は、昌浩の予想以上に力を持っていたのだ。
 凌壽の妖気が昌浩を弱めなければ、おそらく彼は楽々と丞按を取り押さえられていた。それができないほど霊力が低下している。今の昌浩だったら、天后でも苦もなく打ち倒せるだろう。
 だが、まだ倒れるわけにはいかない。
 浅く早くなる呼吸に、失血から砂がかる視界。それらと闘いながら残り少ない霊力を振り絞る。せめてこの場を脱出するまでは狐火を維持しなければならない。
 距離を稼げばなんとかなる――
 けれど、その考えが浅はかなものであることを昌浩はすぐに思い知らされた。
 みちりと裂ける肉の痛みが、脳天に突き刺さる。
「……ぁっ」
 傷口を無理矢理こじ開けられる。妖気が――体内の凌壽の妖気が暴れている。
 ごく近くから凌壽の視線を感じた。傷口が灼熱の痛みを伴って広がっていく。呼応する妖気を、止められない。
 耐えきれず膝を突く。鮮血が黒い砂に落ちた。ぼたぼたと砂の色が濃くなっていく。凌壽が見ている――昌浩を嘲笑っている。激痛に耐え、首を押さえて蹲り、脂汗を流しながら歯を食いしばった。声すら出すことのできない拷問が昌浩の身を襲っている。
 急激に衰えていく霊力に気づいたのか、紅蓮が昌浩を振り返った。その視線の先で狐火が弱まっていく。昌浩の指の間から零れる赤い滴に、彼は息を呑んだ。
 丞按はその隙を見逃さなかった。
 遊環が鳴り響き、音波が広がる。錫杖が突き立てられた地面がのたうち波打った。消えかけていく白炎の下から幻妖が再び這いだしてくる。何匹かが完全にその姿を引き上げると、神将たちの表情に焦燥が生まれた。
 中宮を連れ離脱しようとしていた六合の足下にも幻妖が現れる。再び銀槍を手にし、彼は一匹の頭を串刺しにした。が、六合が得物を抜いて攻撃するよりも早く、新たな幻妖が槍に噛みつきその動きを封じる。さらに牙を剥いた別の幻妖が彼の背後から迫り、躍りかかった。
 六合の左腕に抱かれていた中宮が悲鳴を上げる。
 銀槍を幻妖から抜く暇はない。だが、六合はそれ以外の方法で己の得物を抜いた。
 銀の光がきらめく。一瞬で銀槍を腕輪に戻し、呼吸する暇もなく再度銀槍を現す。槍に噛みついていた幻妖の牙が対象を失ってがちんと打ち鳴らされた。
 間髪入れず、六合は身を捻った。銀槍を空中の幻妖の咥内に突き立てる。翻った霊布が足下の幻妖を撥ね飛ばした。内蔵まで綺麗に貫かれた幻妖から、銀槍を再び腕輪に戻し取り戻す。
 その瞬間だけ、六合の周囲はぽっかりと凪いでいた。
 機を逃さず、彼は結界を敷いた。中宮を中に残し自分は円の外に出、背後に彼女を庇う。
 紅蓮と勾陳は三丈も離れたところで戦っている。昌浩は膝をついたまま、六合から二丈ほどのところで蹲っていた。彼の周りでも幻妖が身を起こし始めている。しかし、六合が助けに向かうことはできない。彼は中宮を護らねばならなかったし――幻妖の数が、あまりに多かった。
 紅蓮が炎蛇を召還した。何匹もの幻妖が一気に呑み込まれ、灰塵と化す。だが、丞按が新たに生み出す数の方が勝っていた。
 煉獄を操り次々に幻妖を壊滅させながら、紅蓮はじりじりと退いた。退きながら、動かない昌浩の周囲に群がる幻妖たちを滅していく。
 相棒である勾陳は二振りとも筆架叉を引き抜き、莫大な神気で衝撃波を放った。轟音と共に地面が抉れ、砂粒が飛ぶ。地面ごと敵を一気に消し飛ばし、十数匹を纏めて始末した彼女は、術者である丞按に斬りかかった。
 その隙に、紅蓮の神気が蒼く燃え立つ。焔が白銀の龍に転じ、残る幻妖を一掃すべく放たれた。縦横無尽に駆けめぐる龍が、片っ端から再生する幻妖を喰らい尽くす。
 狐火とは違う白い焔が昌浩を焙ったが、彼は微動だにしなかった。
 ようやく近づけた紅蓮が、その肩を掴む。
「おい」
 指先から感じる彼の霊力が微かにしか感じられないことに、紅蓮は愕然とした。
 ひゅうひゅうと喉笛を鳴らす昌浩の顔色は、失血から土気色をしている。じっとりと湿った額から、汗が一滴流れ落ちた。項に黒髪が幾筋も張り付いている。肌に触れられたことに反応して瞼が持ち上がった。現れた瞳は焦点を結ばず、茫洋としたまま何も映さない。血液はどろどろと流れたまま止まっていない。
 彼の冷えきった体温が、近い未来を示唆していた。
 頭を強烈に殴られた気分が紅蓮を襲った――どうしてすぐに気づかなかったのだろう。
 ここでは昌浩は傷を癒せない。
 そしてきっと、それこそが凌壽の目的だったのだ。
「……っ、くそっ」
 吐き捨てて紅蓮は昌浩を抱き寄せた。人間と同じ、やわらかい子どもの身体。並べば紅蓮の胸下までしかない背丈に目眩がする。
 知らず、震えが走った。

 五十五年前からずっと、紅蓮は願っていた。
 誰も傷つけたくない。――傷つきたくない。
 晴明を手にかけた時の絶望は、未だ紅蓮を苛んでいた。主を死地に陥れた強大過ぎる力を厭い封じても、同朋からの嫌悪も自分自身への嫌悪も消えはしない。だから他人と関わりたくはなかった。
 関わりさえしなければ、嫌悪を投げかけられることもない。
 ずっと一人でいさえすれば全てが丸く収まるのだと、信じていた。

(――ありがとう)

 だのに、この子どもが関わってくるから。
 何も知らない妖のくせに、怖がりもしないで勝手に近寄って、勝手に好きなことを言って、勝手に笑いかけて。
 そうだ、こいつは俺を怖れなかった。天狐だからだと、多少傷つこうと構わない能力を持っているからだと思っていたが、そうではなかった。そうではない理由があるから、こいつは俺を怖れなかったのだ。
 その証拠に、紅蓮の痛いほどの神気に包まれながらも弱りきった身体で縋りついてくる。霊力もなく、柔い身体で、一歩間違えばすぐにでも紅蓮は彼を縊り殺すことができるのに。
 紅蓮を信じきっているからだ。

 心臓がぐっと掴まれた。苦しい。きりきりと引き絞られる感触を紅蓮は知っていた。晴明に名前を貰った時と全く同じ痛みが、彼の心を襲っていた。
 この痛みに付けられる名前を、紅蓮は知らない。
 この少年なら知っているのだろうか。もし知っているのなら、この場所を脱出した後に聞いてみたかった。

 今度は護れるだろうか。
 晴明の時と同じに――傷つけることなく、今度は護り抜けるだろうか。
 ……やって、みなければ。

「わからないだろう……!」

 金色の瞳を煌めかせて、紅蓮は召還した煉獄を解き放った。
 幻妖を焼き尽くしつつ丞按を探す。怪僧は勾陳と斬り結んでいた。炎蛇を二匹六合の支援へ、もう一匹を勾陳に跳びかかろうとしていた幻妖を焼くために操る。勾陳は見事な体捌きで幻妖を躱していたが、それにも限界があった。紅蓮の援護により幻妖が減らされたおかげで丞按自身に集中できるようになり、彼女は疲労を見せぬ動きで丞按の錫杖を奪い取ろうと手を伸ばした。
 だが、踏み出した右足ががくりと崩れる。
 地面から直接生えた頭だけの幻妖が、勾陳の脹ら脛に牙を突き立てていた。
 怜悧な瞳に動揺が走る。けれど一瞬で感情を押し潰し、勾陳は右手の筆架叉で獣の頭部を断ち切った。痛覚を無視し、自由になった足に力を入れ、地面を蹴る。
 しかし丞按にとっては、その僅かな間で充分だった。
 黒い頭髪が砂地に落ち、その真上から錫杖の柄が突き立つ。
 たちまち現れた黒い茨が、勾陳を、六合を、紅蓮と昌浩を絡めとった。
 憤激で勾陳の瞳が燃え上がる。けれど苦痛によって閉じられた瞼が早くも彼女の双眸を隠した。聞き取りにくい罵倒が朱唇から発せられ、霞んで消える。
 紅蓮がこの術を受けるのは二回目だった。一度目は乱入した昌浩が浄化の狐火で解いてくれたが、あの時と同じ量の霊力は彼にはもう、ない。昌浩の力による解呪は不可能だ。
 茨が神気を吸い、皆の身体から力を奪っていく。紅蓮ですら腕が持ち上がらず、膝を突いたまませいぜい歯噛みすることしかできなかった。頭が割られるような頭痛が襲いかかり、否応なしに気力が萎えていくが、神将たちは呻き声ひとつ立てずに耐えてみせた。
 だが、ただでさえ傷つき弱っている身体では無理だったのだろう。神封じの術で追い打ちをかけられた格好の昌浩は細い悲鳴を上げた。ぎりぎりと締め上げる茨がきつく肌に食い込んでいる。手足を封じられたあげく、残り少ない霊力を根こそぎ奪われているのだ。
 昌浩は紅蓮のすぐ側で倒れ伏しているというのに、手が届かない。
「……っ!」
 犬歯を剥き出して歯軋りする紅蓮の前に、影が落ちた。
 擦り切れた僧衣から伸びる節くれ立った腕が、上段に錫杖を振りかぶっている。その柄はまっすぐに紅蓮の心臓を狙っていた。
「藤原より先に殺してやる、邪魔な十二神将どもめ……!」
 怨讐に塗れた邪悪な視線が、金色の眼を刺し貫く。
 ――紅蓮はまだ諦めてはいなかった。神気を奪われながらも、それを上回る圧倒的な量でもって茨を打ち砕こうと足掻いていた。急所さえ当たらなければ、通力で茨を砕きこの場を凌いでみせるつもりだった。
 要は心の臓と肺腑さえ傷つかなければいいのだ――重傷になろうと生き抜く自信はあった。
 錫杖が刺さる寸前に身を捩れば、なんとかなる。
 怪我は覚悟の上だった。





 昏い視界の中でも、どうしてかあのひとの表情だけは読めていた。
 その様をつぶさに把握していた。

(……いやだ)

 自由を奪われても、懇願の声すら出なくても、思考はまだ明瞭だった。
 丞按が強く砂利を踏み込む音さえ、きちんと認識できていた。

(やめて)

 騰蛇が殺される。
 だというのに、昌浩は見ているしかないのか。
 通力も行使できず、指一本動かせないままで。これでは八十三年前とまったく変わらない、進歩していない。役立たずなままだ。

 もう時間がないのに。
 終わってしまうのに。

 変われないままで死ぬのは嫌だった。
 好いたひとが殺されるのを見るしかできないのは、もっと嫌だった。
 音にならない絶叫が喉から迸る。

(――奪わないで!)
 

◆◆◆


 突然塞がれた視界に、紅蓮は目を疑った。 
 灰の匂いが鼻孔をつく。白い破片が視界の隅を舞う。
 事態を把握するまで数瞬を要した。目の前の真っ黒な装束がぐらりと揺れてもたれ掛かってくるのを、呆然と見ているしかなかった。
 紅蓮の肩に、力なく頭と腕が落ちる。
 顔は前髪に隠れて見えなかった。薄く開いた青い唇だけが見えた。
 彼の細い肩越しに突き立っている物が見えた。
 錫杖が昌浩の背中から生えていた。

 丞按がけたたましい哄笑を上げた。その手が柄を捻り、錫杖を抜き取る。体温が下がった冷たい腕が震え、動けない紅蓮の肩を滑り落ちていく。
 仰向けに転がった彼の下から、真っ赤な血溜まりが広がっていった。
 紅蓮はただ目を見開いていた。

「……う」
 目覚めは最悪だった。酷く気分が悪く、吐き気もする。瞼が重たい。与えられる振動に嫌々ながら目を開けると、六合が昌浩を抱えてゆすぶっていた。
「平気か」
「……多分」
 額を押さえながら立ち上がる。首の古傷は癒えておらず、喋るだけでびりびりと痛んだ。試しに触ればべったりと濡れているのが指先に伝わる。だが、近くに凌壽はいないらしい。その証に傷口は喰い破られてはいない。
 昌浩以外の神将たちはとっくに目を覚ましていたようだった。異界への通路をくぐった際に多大な圧力がかかったはずだが、そんな素振りは一切ない。対して昌浩は身体の節々が痛んでいる。軋む間接と開いた傷口を宥めながら、昌浩は六合の手を借りて立ち上がった。
 薄暗い空と、先の見えないごつごつした黒い岩場と砂地が世界の全てだった。生き物の気配は感じられない。草木一本すら生えていない。太陽もなく月もなく、陰気な死が辺りに満ち満ちている。
 昌浩はぞっとして、両腕で肩を抱いた。

 ここには生命がない。

「……奴め、何のつもりだ」
 忌々しげに勾陳が天を見上げた。土御門殿の結界を破ったのは凌壽だろうが、凌壽がその先何をしたいかが全く読めない。果たして中宮は無事なのだろうか。
 昌浩に目を向け、彼女は手短に尋ねた。
「昌浩、ここから出る。方法はあるか」
「……ないことは、ない」
「勿体をつけるな。さっさと言え」
 きつい金眼が注がれる。昌浩は傷口が開かぬよう右手を喉に当てながら、なるべく筋肉を動かさないように囁いた。
「この世界を構築しているのは凌壽だから、あいつを倒すか、ここから追い出さない限り俺たちは逃げられない」
「……どちらにしろ、相手をしなければならないようだな」
 にやりと、好戦的な笑みを紅蓮が浮かべた。端正な面差しが精悍さを増す。その容貌に一瞬見とれて、昌浩は獰猛な笑顔を惚けたように見つめた。
 昌浩にはけっしてできない表情を、この男はやすやすとやってのけてみせる。凌壽に対してそんな笑顔を作れるひとなど、昌浩はずっといるわけがないと思っていた。

 昌浩にとっての凌壽は、死と苦痛の象徴だ。

 たとえ挑んでいるように見えたって、内心では怖くて怖くて仕方がない。いつだって逃げ出したかった。その恐怖をねじ伏せて必死に戦っていた。凌壽は昌浩より強く、何をしても勝てない。昌浩一人きりではけっして勝つことのできない相手だ。

 ――でも、このひとさえいれば。
 あいつに対して、こんな笑みを浮かべることのできるひとなら。
 凌壽に勝てるかもしれない。
 晴明も晶霞も、昌浩の大事なもの全てを守りきって勝てるかもしれない。

 昌浩を死の寸前ですくい上げてくれた、このひとなら。

「奴の居場所は分かるか」
 重ねて勾陳に問われ、昌浩ははっと意識を戻した。
「少し時間がかかるけど、なんとか」
 天珠で創られたとはいえ、異空間の広さには限界がある。そして昌浩には凌壽の居場所を敏感に探知する感覚器が備わっている。
 これは望んで植え付けられたものではないし、同時に弱点にもなりうるのだけれど。
 八十年前の虐殺の夜に刻まれた古傷の中に潜んでいる凌壽の妖気は、凌壽が近くに寄ると反応して傷を喰い破るのだ。凌壽の元に還ろうとして宿主の霊力を低下させるため、昌浩は凌壽と長く戦えない。
 彼の受けた呪詛の一つだ。
 昌浩は深呼吸すると、瞳を閉ざし体内の妖気に集中した。妖気がどこに向かいたいかを察するためだ。同時に神経を研ぎ澄ませ、鋭敏化した意識が周囲に矛先を向ける。
 耳の奥で何かが掠めた。が、凌壽ではない。これは――
「丞按?」
 呆然と呟いて、昌浩はぱっと顔を上げた。怪僧の名に神将たちが眉を顰める。
「何?」
「奴がいるのか?」
「うん――でもちょっと待って、これは――」
 一緒に誰かの声が響いた、気がした。丞按とはまた違う誰かがいる。微かな悲鳴だ――少女の声だ。
「……彰子……?」
 さっと皆の表情が変貌した。勾陳が硬い面持ちで詰問してくる。
「馬鹿な、姫は晴明と共にいるはずだ」
「でも彰子の声だ、」
 そっくりな人間なんて、と反論しかけ、昌浩は息を呑んだ。つい先程彰子本人が語った言葉を思い出す。

(中宮様よ。私の……異母姉妹に当たる方なの)

 晴明から事情は聞いている。入内するはずだった彰子が呪詛を受けて穢れたために、そっくりな異母姉妹が担ぎ出されたのだと。
 一拍遅れて皆も気がついたのか、一斉に神気を尖らせた。
 土御門殿の結界を破った後に凌壽はこの異空間を創生し、丞按は中宮を浚いここへと連れてきたのだろう。
「場所はわかるか」
 すうっと冷えていく心臓を宥めながら、勾陳に応えて闇の向こうを指す。同時に六合の腕を掴んで、彼は眉尻を下げながら申し入れた。
「ごめん、運んでくれる?」
 俺は早く走れないから、と続けて、昌浩は自分よりずっと背の高い神将を見上げた。六合は軽く目を見張ったものの、反応らしい反応といえばそれだけだった。問い返すこともしない。
 彼は何も言わずに昌浩を抱え上げると、すでに昌浩が指し示した方向に向かって駆け出していた同朋の背を追い始める。昌浩は六合の首にしがみついて激しい振動に目を瞑っていたが、やがて決然と瞳を開いた。
「俺が死にかけたら、」
 耳元への囁きに、黄褐色の瞳が動く。しがみつく腕の力を強め、昌浩は首を伸ばした。
「放っておけ。絶対に近寄るな。一丈は離れて、天珠が現れるのを待て。その時凌壽にはけっして奪われるな」
 近すぎて二人の視線は交わらない。が、昌浩を抱える六合の腕には力が入る。六合は前方を見据え、声を落として尋ねた。
「天珠とは何だ」
 そう、凌壽も同じ単語を口にしていた。天珠と。昌浩が十二神将に伝えた情報の中にその名はない。
 風切り音の中でも六合の声はよく通る。かけられた低い問いに昌浩は目を閉じた。
 隠していた、つもりはなかった。
 けれど本当は隠したかった。だから黙っていた。伝えてしまったら――きっと十二神将たちが昌浩に向ける眼差しが一変することがわかっていた。それが嫌で、耐えられなくて、あえて黙った。
 あの金色の瞳ですら、温度を変えてしまっただろう。
 だが今は伝えねばならない。
 何故なら、彼は覚悟してしまったのだから。
「天珠は天狐の心臓が形を変えたものだ」
 六合がはっきりと聞き取れるように、昌浩は一語一句に力を込めた。
「天狐が命を落とすとその心臓が天珠に変化する。命そのものであり、魂と言い換えてもいい。凌壽がやったように、それは大がかりな術の媒体にすることもできる。どんな呪詛でも浄化できるし――もちろん、人の天命を延ばすことだってできる」
 六合の瞳が驚きに見開いていく。ようやく交わった視線に、昌浩は微笑んでみせた。
「晴明に使えって、言ってくれ」
 

◆◆◆


 神将たちの強靱な視力が幽玄の灯火を捉えたのは、神足を始めて間もなくのことだった。
 怪しく光る青白い光源が五つ、揺らめいて魔法陣を描いている。その中心、逆五芒星の真ん中で、壮年の大柄な身体が成人を迎えたばかりの少女に覆い被さっていた。
 男は墨染の僧衣に身を包み、少女の細い顎を鷲掴みに固定していた。長い髪も艶やかな姫は黒い大蛇にその身を巻かれ、二重に苦悶の表情を浮かべている。その口元へ、伸び上がった大蛇がするすると近づき裂けた舌を出し入れしているのが克明に捉えられた。
 男は確かに丞按だった。奴が何をしようとしているのか知らないが、おそらくこの速度では神足で駆けていようとも間に合わない。
(やるしかない)
 紅蓮は金眼を険しくして、掌に焔を生み出した。だが炎蛇を放ったところでやはり間に合わないだろう。これは賭けだが――きっと丞按は、紅蓮の望む行動を取るに違いない。
 右手の焔を収束させる。圧縮されていく焔が、灼熱の輝きを穂先に残す三叉の槍へと変化する。煉獄を閉じ込めた、真紅の炎槍。紅蓮はそれを大きく振りかぶり、半身になって――
 投擲した。
 剛腕から放たれた三叉槍は、神将たちの神足より早く空気を抉った。ほぼまっすぐの放物線が紅蓮の狙い澄ました通りに丞按の頭部へと向かう。怪僧が身を躱す暇はない。確実に直撃する軌道だった。
 六合と勾陳の背筋に氷塊が落ちる。うなじを粟立たせ、二人はそれぞれの得物を抜いた。

 しかし、紅蓮が理を三度犯すことはなかった。

 丞按が姫から手を離し、地面に置かれていた錫杖を手に取った。拘束から逃れた姫が倒れ伏す。錫杖で地を打ち築いた障壁が、寸でのところで焔の槍を阻んだ。
 霊壁に防がれ槍が散る。赤々と辺りを照らし出す火の粉は弾かれ、丞按自身と姫には届かない。けれど炎槍の衝撃により、結界は撓んでいた。
 焔の残滓が消滅する寸前、その歪んだ障壁へと閃光が四本突き立った。収束された霊力の矢が乾いた音を立てて障壁を打ち砕く。
 六合の腕から離れた昌浩が、離れた場所から手を翳して佇んでいた。
 その視線に押されるように六合と勾陳が丞按の懐に飛び込む。十二神将は人間を害することはできないが、それ以外のこと――拘束くらいはできる。
 勾陳が筆架叉を持たない右手を伸ばす。が、錫杖で振り払われて届かない。六合も同じだ。この男は人の癖に、身体能力が異常に高いのだ。神気で威嚇しても動きが衰えない、付け入る隙がない。錫杖を自らの手足の延長の如く自在に操り、神の末席と易々と渡り合ってみせる。
 人外の範疇に入っているのではないか?
 勾陳はちっと舌打ちして跳びすさる。それでもまだ、この男は人を捨てていない。神将たちが直接手を下すことは許されない。
 槍投げのために足を止めていた紅蓮が追いつき炎蛇を放った。丞按の逃げ道を塞ごうと焔の舌が伸びる。おそらくこれで足止めが成るだろう。一旦丞按を六合一人に任せ、先に魔法陣を筆架叉で引き裂く。返す刃でうねる黒蛇を真っ二つに断ち切り、彼女は姫を抱き起こした。
「中宮、大事ないか」
 少女はまさに彰子にうり二つだった。全く同じ容貌と言ってもいい。二人同じ衣装を着て眼前に現れれば見分けがつかないだろう。けれどこの娘に見鬼はない。
 今は強まった神気で視認できているのだろうが、顔色は真っ青だ。凶将二人の神気と丞按自身の禍々しい霊力に当てられて震えている。加えて帳の奥深くから姿を現すはずのない彼女は、悪意に晒されたことも恐怖に襲われたこともない。それが短時間に降りかかったのだから、怯えるのも無理はなかった。
「我らは安倍晴明の式神。安心召されよ」
「……晴明様の……?」
 聞き取りにくい細い声が上がる。掠れたものだったが、声まで彰子と全く同じ音をしていた。ここまでとはと心中で驚きつつも、勾陳は神気を発して簡易な結界を築いた。
「ここを動くな」

 勾陳が前線を離脱した瞬間、六合は肩にかけた長布を引き剥がしていた。夜色の布地が風を孕んで広がる。錫杖を絡め取ろうと六合の左手が動くが、霊力を込められた柄が長布を打ち払う。ついで丞按の片手が懐へと差し込まれるが、長布の陰に隠れて立ち位置を変えた六合がその手を掴んだ。
「っ!」
 凌壽の力を使わせるわけにはいかない。
 引っ張り出された丞按の手には何も握られていなかった。そのまま関節を決めようと六合は銀槍を腕輪に変化させ右手も伸ばす。しかしその手は錫杖の頭に遮られた。左手も体を捻られ外される――けれど六合は再度銀槍を具現化させ、下方から打ち上げた。錫杖に阻まれて柄が弾かれる。が、丞按の体勢は崩れた。
 髪を取り出す余裕など与えない。六合の打ち込みで動きを制限され、紅蓮の炎蛇で行く手を阻まれ、丞按に為す術はなかった。それでも一瞬の隙を突き、石突が地面に突き刺さる。
 遊環が鳴り響いた。
 眉間に微かな焦りを刻んだ六合を囲むように、むくむくと黒い頭が持ち上がる。歪な頭部が形作られ、幻妖が姿を現そうとしている。
 だが、彼らを突如白い野火が飲み込んだ。
 幻妖の頭がぶくりと泡立つその端から、砂像が波に浚われるように形を崩していく。
 離れたところで仁王立ちしている昌浩が、同心円上に狐火を熾していた。
 その顔色は良くない。首の古傷が開いたままだからだ。じわじわと広がる赤を押さえながら、彼は援護を続けていた。
「退くぞ!」
 その隣に並び立つ紅蓮が叫んだ。中宮救出という目的は達したのだ。これ以上この異空間に留まる必要性はない。相性の悪い丞按と戦り合う意義もない。
「十二神将め……!」
 丞按がぎらぎらと憎悪の眼差しを向けた。頬の痩けた男の形相は凄まじく、護られる中宮が身を縮こまらせる。そんな彼女を一瞥し、丞按は唸り声を上げた。
 折角ここまで辿り着いたというのに、あと一歩で念願を果たすことができたというのに。
 忌々しい安倍晴明の式神どもが邪魔をする!
 丞按が踏み込む。殿を務めようと飛び出してきた勾陳の筆架叉を受け、得物を奪い取られる前に離れる。勾陳と斬り結びながらも着実に前進し続けていく。
 丞按の強みは人間であるということだ。人間である限り、十二神将は丞按を殺傷することができない。であるならば、無理矢理にでも食いつき闘いを挑むのが最善であった。
「勾!」
 紅蓮も勾陳に加勢すべく前へ出る。中宮は六合に任せ、彼は再び焔の槍を召還した。丞按の表情が焦燥で彩られ、ますます攻めに鋭さが乗っていく。神将が中宮を連れて脱出してしまえばそれまでだ――丞按の足では追いつけない。
 狐火さえなければ。
 丞按の幻妖を封じるこの焔さえなければ、まだ丞按に勝機はある。
 最も遠くで狐火を走らせている天狐を睨めつけて、怪僧は錫杖を操る腕に力を込めた。

「太陰!」
 庭に走り出るや否や、昌浩は風将を呼んだ。
「太陰! いる!?」
「ここよ!」
 人界に降りていた太陰が滑空して近づく。昌浩は東を指さした。
「土御門まで風を流してくれないか、早く!」
 怪訝な顔をしたが、すぐさま太陰は風を起こし始めた。
「私が風流に乗せていってもいいのよ、」
 太陰の風は速い。有り難い申し出だったが、彼は首を横に振った。
「凌壽が出てくる。何が起きるか分からない」
 少女の顔が僅かに強ばる。昌浩はそれを見ない振りをした。もし凌壽が現れた場合、太陰では相手にならないだろう。それが分かっていながら口にしないのは、太陰の矜持を慮ってのことだった。
 空を見上げたまま、風に乗って闘将たちに追いつく、と説明する。その間にざわざわと草木が揺れ始めた。次第に木々のざわめきが大きくなる。太陰が鋭く叫んだ。
「できたわ!」
「ありがとう!」
 昌浩が地面を蹴った。
 同時に発せられた通力によって身体が重力から解き放たれる。浮いた、かのように見えたのはほんの一瞬だった。風が彼の髪を乱した、と思った次の瞬間、燕のように黒い軌跡が青空を切り裂いていった。
 神将たちは神足で駆けていた。強風に乗りその後を追う。大路に沿って翔けていけば、いくらもしないうちに彼らの姿が見えてくる。土御門まであと僅か、二十丈程離れている場所にその背中はあった。昌浩がほっとして風から降りようとした、その時だった。
 皮を剥ぐような痛みが弾け、視界が霞んだ。霊力が苦痛に吸われて消えていく。四肢に纏わりつく風は思考を離れて思い思いに散っていった。ぎちりと根の音が響き、片足が引っ張られる。
(来た……!)
 呻き、昌浩は体勢を崩した。風を操作する気力も霊力も最早ない。あるのは仇敵を滅するために存在する意思、それのみだ。
 闘将たちの眼前には、もう一人の天狐が現れていた。





「貴様…!」
 ぐわりと鎌首をもたげた炎蛇が空を裂く。禍々しい妖気を振りまく天狐はひらりと体をかわし、躍りかかってきた勾陳と六合の攻撃すら両の爪を長く伸ばして受け止めてみせた。
 爆裂する神気と妖気は、徒人の目にこそ映らないが確かな影響を引き起こす。同心円上に巻き起こる砂埃と闘気に当てられ、白昼の異変に気が付いた人々が悲鳴を上げた。皆が自失しなかったのは幸いとしか言いようがない。大路を行き過ぎていた何十人もの人々は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。凌壽は薄ら笑いを張り付けている。その嬲るかのような目つきが、神将たちの闘気を逆撫でた。
 勾陳の連撃が速度を増す。二本の筆架叉から繰り出される鋭い斬撃は、だが軽やかに避けられた。下方から撥ねた六合の槍が凌壽の爪を割るが、断たれた側から瞬時に再生が始まり元の長さに収まる。再び襲いくる紅蓮の焔すら霊力で力任せに散らし、十本の刃はばらばらの動きで紅蓮たちを攪乱させていく。殺気に満ちた神将を余裕に満ちた態度でいなし続ける。
「舐めた真似を、」
 勾陳が忌々しげに吐き捨てた、その時だった。
 氷のような霊気が空から降ってきた。凌壽の鉛色の双眸がはっと息を呑む。刃を合わせていた六合と勾陳を弾きとばし、その場を離れようとした。しかし時すでに遅く、反応しかけた瞬間には既に巨大な霊力が痩躯を押し潰していた。
 頭上からの圧力に屈し、凌壽は地面に諸手を突いた。そのまま動けずに、前髪の間から天空を睨み上げる。すぐに凌壽と同じ色の影がすとんと大路に落ちてわだかまった。小さな背中。両肩が負担に上下している。息を荒げつつも、彼は凌壽に片手を翳し続けることをやめなかった。
「とう、だ」
 十二神将最強の名が、苦しげな呼吸の間に呼ばれた。表情は見えない。昌浩は神将たちの前線に立っている。
 昌浩に促されるまでもなかった。紅蓮は自らの焔を赤から蒼へ、さらに白へと転じさせた。白銀の龍が二匹、炎鱗を燃え立たせ顕現する。真紅に色づいた紅蓮の眼は、うずくまる凌壽のみに据えられていた。
「くらえ……!」
 白い火の粉が散った。召還された地獄の業火の化身が牙を剥く。凌壽の胴体を龍身で締め上げ、あぎとはそれぞれが手足に突き立てられた。耳障りな喘鳴が迸り、白炎が火柱となって立ち上る。その様を、昌浩は瞠目して見つめていた。
 昼日中でも篝火の如く燃え立つ白い火柱の中。その中で、昌浩と同じ黒髪が焼け落ちていく。妖力の抵抗は少なかった。みるみるうちに肌は爛れ、肉が焦げ、白い骨が覗く。肉の焼ける異臭が鼻をつく。昌浩は、それを唇を引き結んで凝視していた。
 凌壽は動かない。動けない。昌浩は神通力の行使をやめていないのだから当たり前だ。凌壽を拘束しているのは昌浩なのだ。彼の腕は一度たりとも下ろされず、小さくなっていく火柱に向けられていた。
 やがて燃えるものがなくなり、焔が消える。
 現れたのは黒い骸だった。炭化し、高熱により自然に手足が折り曲がった死体。もうなんの妖力も発さない、――凌壽だったものの、遺体。
「やったのか…?」
 真っ先に疑念を投げたのは、勾陳だった。
 彼女は用心深く筆架叉の切っ先を向けたままにしていた。凌壽は天狐なのだ。昌浩よりも遙かに強い、天狐。それが――たとえ凶将騰蛇の獄炎に囚われようと、こうもあっさりと命を落とすとは思えなかった。
焼き尽くした当人の紅蓮も、打ち合った六合も思いは同じだった。……これは罠ではないのか。油断した瞬間に骸がふらりと立ち上がるのではないだろうか。
 歩を進め、紅蓮は昌浩の隣に立った。何かあればすぐに炎を出せるように気をはりながら。横目で窺った昌浩はというと、何故か呆然とした様子だった。傷が開いたのか、その喉元から染み出した血が胸元まで垂れている。押さえた指と包帯が真っ赤に染まっていた。黒装束と血の気の引いた真っ白な肌の中で、唯一色づいている場所。その鮮やかな赤が、やけに紅蓮の目についた。
 昌浩がふらりと一歩踏み出す。彼の様子に一瞬気を取られた、その時だった。
 突如みしりと音を立て、空間が歪んだ。
 はっとして顔を上げた皆が辺りを見回す。青いはずだった空が、いつしか紫色に染まっていた。夕焼けに似て いるがそのものではない。もっと禍々しい気配に満ちている。
 天空から男の声が反響した。
「残念だったな」
 先程倒したはずの、凌壽の声だった。
 昌浩たちの反応が驚きで一瞬遅れる。その一瞬が命取りだった。何の前触れもなく足下が罅割れ、暗闇が覗く。跳び退く暇すらなく、皆の半身が地割れの中に吸い込まれた。
 いや、地割れではない。亀裂の間から染み出した暗闇は、次元が異なる領域に通じる通路。つまりこの空間自体が罅割れているのだ。
 いつの間にか結界内に閉じこめられていたのか。昌浩にも、神将たちにも悟られずやりのけた妖は、未だ姿を見せない。
「凌壽!」
 仇敵の名を、昌浩は異空間に飲み込まれながらも叫んだ。
「お前…まさか、天珠を……」
「ああ、」
 嘲笑が耳障りに響く。
「身代わりを立たせてもらった」
 はっとして、神将たちは目をやった。凌壽だと思いこんでいた、黒焦げの焼死体――その輪郭が崩れていく。固く縒り合わさっていた繊維が、ぶちぶちと解けていくのが見えた。
 あれは凌壽の髪の毛を媒体に創られた、精巧な偽物だったのだ。
「お前の両親の天珠を使わせてもらったぞ」
 あまりの怒りに、昌浩の目の前が真っ赤に染まる。
 抗う術なく神将たち共々空間の亀裂に飲み込まれながらも、昌浩はせめてと怒声を張り上げた。
「この恥知らず! 裏切り者――」
 なおも罵声を浴びせようとしたが、それは叶わなかった。ぎらぎらと内から燃え上がるような憎しみの瞳が暗闇に飲み込まれて消える。同時に異空間の扉は閉じられ、結界が消失した。
 未の刻。まだ陽は高い。凌壽は見物をやめて土御門殿の築地塀の上から地面に降り立った。安倍晴明麾下の十二神将と同族を異空間に送りこんで尚、妖力の憔悴は見られない。ただひとり人界に残り、凌壽は吹き付ける生暖かい風に黒髪を遊ばせていた。
 今夜は有明月、昇るのは丑寅の刻。日毎に凌壽の刻限は近づいている。この策で天珠をも使い切った。今夜中に片が付かなければ、後はない。
 なんとしても昌浩の天珠を奪い、晶霞を討つための糧としなければならなかった。
「さて、丞按はどこまでやるかな――?」





 高淤は閉ざしていた瞼を開いた。貴船の深奥で人形を取っていた彼女の隣には、つい最近再会を果たしたばかりの友がいる。先ほどまで静かに瞑想を続けていた筈の彼女はすっくと立ち上がり、南方の空を睨みつけていた。
「どうした」
 長い銀髪を風にそよがせ、数百年全く変わらぬ少女の容貌を微かにきしませた彼女――晶霞は、寒々しい薄手の衣の上から二の腕を抱いた。
「……昌浩の気配を感じない」
「死んだか」
 青灰の瞳が危険な色を孕んで向けられた。
「冗談だ」
 高淤は肩をすくめた。この友人は一族の末息子に関して筋金入りの過保護なのだ。ちょっとからかった程度で本気で腹を立てるのだから始末が悪い。八十年前に昌浩が囮を申し出たと きも最後まで反対して、渋々頷いた程だ。
 高淤とて、何も昌浩がすぐに死ぬような男ではないことは熟知している。彼の体質と気性、双方が昌浩を生かし続けてきた。死を嫌うできそこないの体と妖の魂、どっちつかずの精神――狭間で揺れ続ける心が出し続ける答えは、いつも高淤に好ましい。彼を気に入りにしているのはそのためだ。
 では、死んでいないのに気配が辿れないというのは何故なのか。
「おそらく、異空間に」
 凌壽が天珠を使ったのだろう。
 彼女が語る声はあくまでも静かだったが、ぎり、と歯を噛みしめる音を高淤は耳にした。
 晶霞の想いも分からないではなかった。だが、昌浩からの頼みを、貴船の祭神は忘れていなかった。
「誓約を忘れるなよ」
「……分かっている」
 苦々しげに呟き、彼女は俯いた。

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