安倍晴明の住まう屋敷は下級貴族にふさわしくこじんまりとしたものだが、対して敷地面積は広い。南北に十五丈、東西に二十丈。実に六戸主分もの邸内のほとんどは庭と森に占められている。北東に鬱蒼と茂る森は立ち入りが禁じられているが、昌浩はよくその外縁部で眠っていた。
雨避けと気温保持、虫避けの機能しか持たない小さな結界を築いて、その中で何刻も目覚めない。誰もが彼に触れられるが、一度眠りにつくと揺さぶっても張り飛ばしても一向に目を覚ますことはなかった。一日の大半以上を眠りに割き、時折目覚める彼に誰かが事情を尋ねると、彼は困ったような顔をして、ただ一言、「回復?」とだけ答えた。彼も己で理由が判らないような、そんな返答だった。
五月も下旬に入り、梅雨も終わりかけて晴れ間が覗くようになった頃のこと。その日は珍しく風がひんやりとしており、陽射しばかりが眩しく熱かった。
蔀戸を上半分上げて縫い物をしていた彰子はふと手を止めて、日向を見た。起床してきた昌浩が足を伸ばしてぼんやりと日光浴している。
その眼差しはどこにも定まらず、白い雲の浮かぶ空に向けられていた。
「この前のお仕事って」
互いに心地よかった沈黙を破り、彰子は切り出した。
「ん?」
「土御門殿に行ってきたの?」
「……うん」
昌浩はことりと首を傾けて頷いた。怪訝な顔をしている。何故そんなことを聞くのかと思っているのがありありと読みとれた。
「章子様にお会いになった?」
「誰?」
「中宮様よ。私の……異母姉妹に当たる方なの」
昌浩はちょっと目を見張り、「そうなの」と相槌を打ってから、首を振った。
「会ってないよ」
「中宮様はお加減がよろしくないそうだけど…それは、誰かに狙われてらっしゃるせいなの?」
「体調がよくないっていうのは確かだけど」昌浩はちょっと言葉を切った。
「彰子は誰から聞いたの?」
「一ツ鬼たちが、」
すぐさま昌浩がむっとして、「あいつら…」と呟く。彰子は慌てて手を振った。
「ずっと前から教えてくれるのよ。仲良しなの。退屈だろうって、都で起きるお話を聞かせてくれるの。怒らないであげて」
昌浩はむすっとしたままだったが、不承不承という様子で頷いた。
「あの子たちから土御門殿で変異があったって聞いたの。露樹様も、この前吉昌様は土御門殿に呼ばれたのだと仰ってらしたわ。……ねえ、何が起こっているの? 章子様は無事でいらっしゃるの?」
「……晴明からは何も聞いてないのか?」
彰子はかぶりを振った。晴明からは何も聞かされてはいない。あの優しい大陰陽師は彰子にいらぬ心配をかけまいと考えているのだろう、この邸に移り住むようになって半年以上経つが、晴明の関わっている事件に関して彼自身から事情を聞いたことはなかった。
そう、と昌浩が嘆息する。
「じゃあ、俺からは伝えられないよ」
思わず彰子が腰を浮かせた。
「どうして?!」
「俺は晴明の式だもの。晴明の意にそぐわない行動は取りたくない」
「そんな……」
どうしてもなの、とか細く声が震える。針と糸を取り落として、彰子は手を握りしめた。
天一や朱雀に訊いても答えはもらえなかった。彼らは困った顔をして、晴明から答えを得るようにと繰り返すばかりだった。だが晴明に子細を尋ねても、おそらく全てを説明してもらうことはできない。彼は限られた真実のみを提示するのだろう。
彰子は真実を知っても何もできない。彼女は無力だ。
過ぎた知識が彰子の心を苦しめることを晴明は知っている。だからあえて真実を隠す。皮肉にも、彰子は頭の良い少女だった。己が苦しむであろうことも、それを晴明が気遣って真実を話さぬことも理解していた。
それでも章子の境遇を気にするのは、それが彼女の義務だからだ。
細い肩を落としている彰子から、昌浩はふいと目を逸らした。日向で伸ばしていた足を胡座に組む。晴れた空を見上げながら、ぽつりと独り言のように呟いた。
「でも、お願いは聞けるな」
「……え?」
悲痛に彩られていた端正な面立ちがはっと上げられる。それを振り返り、昌浩は悪戯っぽく片目を瞑った。
「彰子は俺にどうしてほしいのか、言ってごらんよ」
「あ……」
彰子に中宮に関する事情を語ることは禁じられている。だが、彰子からの頼みを断れという命令は受けていない。
これも晴明の思惑の内かもしれなかった。あの老獪な老人は、いつだって常人の一歩先を行っている。彰子の不安を解消するために、きっと彼はこの道を指し示していた。
安堵からぺたりと座りこんで、彰子は手中の衣を握りしめた。喘ぐように言葉を絞り出す。
「章子様を…、あの方を、」
代わり身となった、彼女を。
彰子が続けようとした、その時だった。
突如昌浩が目を見開いてがたりと立ち上がる。訝しげに見上げる彰子の視線も気づかないまま、彼は蔀戸越しに東の空を仰いでいた。その唇から微かに音が零れ落ちる。
「そんな」
「――昌浩?」
かけられた声も耳に入っていない。
昌浩はただ一つの感覚を追っていた。それ以外の知覚を閉じていた。彰子が感じることができないものを、彰子が持たざる知覚で昌浩は感じとっていた。ずっと繋がっていたものが断ち切られた、その触感が指を震わせていく。伝播した震えは髪の毛を逆立たせ、うなじをちりちりと灼いた。
黒髪を翻して、すぐに彼は駆けだした。
「晴明!」
晴明の自室は間近だった。飛び込んで叫ぶと、主は既に異変を看破して立ち上がっていた。
「結界が破られた。中宮が危ない」
晴明は異変を感知していた、だが何の異変かまでは分かっていなかった。手短な説明を受けた晴明はさっと顔色を変えて、敵の名を上げた。
「凌壽ですか」
「多分、」
昌浩は返し、すぐに言い直した。
「いや、きっと」
丞按では、あの結界は破れない。たとい凌壽の力を借りたとしても不可能だ、それだけの強度で織りあげた結界だった。
ただ一人凌壽だけが、あれを打ち崩す可能性を持っていた。手段と言いかえてもいいだろう。けれどその可能性は低いと思っていた。何故なら凌壽は晶霞に対してそれを使うものだろうとばかり考えていたからだ。
奴が『できそこない』と評する自分に対してここまで力を入れるとは、考えてもいなかった。
一人歯噛みする昌浩に気づかず、晴明は神将を召還した。
「護衛に付いている青龍が心配じゃ。――紅蓮、勾陳、六合!」
険しい顔で呼ばれた名に答え、瞬時に彼らが顕現する。
「土御門殿へ。中宮をお守りせよ」
「了解した」
短い応えと共に神将たちの姿がかき消える。昌浩は後悔を振り払い、その後を追おうとし――不意に振り返って、主をじっと見上げた。
「どうなされた」
「……晴明」
昌浩の手が伸びる。その指が縋りつくように、晴明の袂を掴んだ。
「もし、――もし天珠が手に入ったら」
強ばる喉から振り絞られた声は、みっともなく震えていた。
「すぐに使ってください。天命を守って、晴明」
「……昌浩殿」
「お願いです。約束して」
濡れた黒曜の瞳が晴明を見上げていた。彼が己より年を重ねている生き物であることを知っているのに、ちっともそう見えないことが不思議だった。昌浩は晴明の末孫より幼い見かけで、本当に、成人したばかりの子どもにしか見えなかった。今にも滴が零れ落ちてしまいそうな双眸と取り縋る指、――それらを晴明は払いのけられなかった。
何故、彼はここまで自分に執着するのだろう。
天狐の同族意識とはここまで強いものなのだろうか。こんな風に、直接血の繋がらない混血の眷族にまで彼らの慈悲は与えられるものなのか。その命を賭してまで救おうとする情とは、どこまで深いものなのだろう。
晴明は一瞬視界を閉ざした。が、すぐに決意した眼差しを覗かせた。
「行ってください」
「晴明…!」
上がった声はまるで悲鳴のようだった。いや、悲鳴であると晴明が思いたくなかっただけで、本当は悲鳴だったのかもしれない。それでも彼が何かを言い募る前にその肩を押す。
「中宮をお守りせよ。命令じゃ」
言霊に打たれ天狐の背がびくりとはねる。袂から指が外れる。代わりに昌浩は胸元を握りしめて、喘ぐように呼吸した。
「……やくそく、してください」
「できかねます」
「どうして…!」
全身を拘束する命令に逆らい、昌浩はその場から動こうとしなかった。悲痛な叫びが胸を打つ。しかし晴明は首を振って拒絶した。
「あなたが帰ってきたら、聞きましょう」
唇を噛みしめ、昌浩は目を見開いた。両者の間で数拍睨み合いが続く。気迫は共に劣らなかったが、先に視線を逸らしたのは天狐の方だった。
彼はもう、命を受けている。
勢いよく顔を背けるなり、昌浩は足音も荒く妻戸をくぐった。
「術は、」振り向かないまま彼が言い置く。
「絶対に使わないでください」
簀子から地面に飛び降りる、その背を晴明は黙って見送った。
庭に降りるなり駆け出そうとする昌浩を呼び止める声があった。
「昌浩!」
見上げた先で彰子が身を乗り出している。高欄を掴む指は白くなっていた。晴明との会話を聞いていたのかも知れない。不安に揺れる瞳が、お願いと叫んでいた。
「守ってあげて。……助けてあげて」
誰か、とは告げられなかった。けれど一体誰を指し示しているのかは間違いなく理解していた。僅かの後に、昌浩は頷いた。
「……わかった」
返答は短かった。それだけですぐに彼は駆け出していく。大声で太陰の名が呼ばれ、風が巻き起こった。
彰子は両の手を握りしめると、祈るように跪いた。
人界が夕闇に包まれても、異界の空は灰色のまま変わらない。代わり映えのしないどんよりとした曇り空と荒廃した大地に帰ってきた紅蓮は、否応なしに甦ってくる感触を振り払うように、きつく拳を握りしめた。
あれは人ではない。
昌浩自身がそう言っているではないか。
だというのに、身体は頭と裏腹に、刻まれた記憶を再生して紅蓮に訴えかけている。
彼の隣に立ったとき、はたしてあの存在を妖扱いすることができるのか、と。
純粋な天狐でもなく、純粋な妖でもなく、人間でもないのなら、では昌浩という生命は何に属しているのだろう。
中途半端な存在のくせにどこまでも無防備な彼の態度が、紅蓮の心に爪を立てている。
彼をどう扱ったらいいのか、紅蓮にはまるでわからなかった。
暗澹とした心のままにきびすを返した、その時。かけられた馴染み深い声に紅蓮は顔をしかめた。
「珍しいな、騰蛇」
「……勾」
「お前が私と晴明以外にあれだけ会話をするとは思わなかった」
無言のまま発せられる怒気を、紅蓮と同じく凶将である勾陳は涼しい顔で受け流した。十二神将最強の騰蛇が唯一背を預けられる闘将二番手は、他の同胞と違って彼に畏れを抱くことはない。心安い仲間の一人だった。
「そう不機嫌になるな。気を悪くしたらすまない」
切り揃えられた黒髪を揺らして現れた彼女は、先ほどの一連のやりとりを全て見ていたようだった。
含みのある笑みをたたえて、彼女は腕を組んだ。
「私もあれに興味があったし――何より、お前があれに話しかけるとは思わなかったのでな」
「……ふん」
何故かばつの悪い気分で、紅蓮は勾陳に構わず荒野を歩き出した。勾陳がごく自然にその背を追う。だが隣に並ぶことはせず、彼女は紅蓮の背を黙って見つめていた。
やや時間をおいてから朱唇が開き、物言わぬ紅蓮に言葉がぶつけられた。
「晴明は平気なくせに、あれは駄目なのか」
「あいつは俺たちの主だ。……俺が認めた男だ」
「それなら、」
勾陳は頭一つ分高い戦友の後ろ頭に、刃のような眼光を据えた。
「あれは認めぬに値しない男か?」
「――なんだと?」
「お前が何を悩んでいるのかは知らんが、あれの問題はお前には関係ないと思うぞ」
紅蓮が足を止めて振り返る。と、彼女は紅蓮が思っていたよりもずっと真摯な眼差しをしていた。
「私はそう感じた」
勾陳の考えが読めずに金眼を細めると、彼女は唐突にふっと表情を和らげた。
「……いや、これはいらぬ世話かな」
「気になるだろう。最後まで言え」
「お前のためにならないと言っているんだ。少しは察しろ」
ひらひらと手を振って背が向けられる。紅蓮がむっとしているのに気づいているだろうに、勾陳はおかまいなしだった。
「なんにせよ、全てはお前の心一つでいくらでも変貌するということだ。ではな」
女性にしては広めの背中が霞んだかと思うと、眼前から消滅する。
言いたいだけ言ってさっさと人界に戻っていった勾陳に舌打ちして、紅蓮は苦々しく地面を睨みつけた。
勾陳の言いたいことはわかる。それがわからないほど幼くはない。
しかし頭で理解することと、感情で納得することは別問題だ。
寒々しい異界で一人、紅蓮は砂地を挑むように睨みつけた。
――あの子どもの、怯えを見せない態度は。
天狐だからなのだろうか。
それとも、もし彼が真実人であったら――その時も、同じように接してくれるのだろうか。
答えは出ない。
出るはずもなかった。
◆◆◆
六合を捕まえられずに陽の落ちた人界に戻ってきた太陰は、おやと耳をそばだてた。
微かな話し声が風に乗って届く。他の神将たちでも聞き取ることのできない微弱な音を、風将の彼女は聞き取ることができた。普段なら聞き咎める事などなく風を離しておしまいにするところだが、今日は逆に風を辿ってみる。
なぜなら、話し声は耳慣れない主だったからだ。
風読みと呼ばれるこの業はあまり得意ではないのだが、相棒の白虎からはもっと精進しろと叱られている。かといって練習台を適当に見繕う訳にもいかない、盗み聞きになるからだ。
人間の会話など神族に連なる彼女にはたいして意味を持たないが、むやみやたらに覗くのはさすがに気が咎める。それに風読みが得意なのは白虎の方だ。ならば白虎にやらせればいいという考えと相まって、太陰はあまり練習をしてこなかった。
なのだが珍しく向上心を発揮してみたのは、声の発信源が敷地ぎりぎりなのと、人数が多かったのがある。興味を惹かれたのはもちろんだが、彼女たちの主安倍晴明は現在安静の身だ。晴明の身を守るためなら、十二神将たちはいくらだって過敏になれる。
空中に静止して神気を集中する。風を手繰り寄せて振動を増幅させる。すると雑音混じりの音声と対象の輪郭が風を通して伝わってくる。やけに捕まえにくいのは、何かに妨害されているのか。
それでも諦めずに集中を続けていると、やがて聞き取れる範囲が広くなってきた。切れ切れの声が連続して聞こえるようになる。どうやら複数人が会話しているようだった。
「……まえはもう………の格好は…いのか」
「……要ないから……そうだ。お前たち、晴明や…………話すんじゃないぞ……怒るからな」
「へ?……んでだ?」
「晴明の………いる……に話してないのか?」
「つべこべ………内緒に…………か、絶対言うなよ、言ったら本当に怒るからな」
次の瞬間、声の主がはっと息を呑んだ。途端に神気を通していた風がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。もちろん風読みはできない。
(気づかれた?!)
驚きで集中を失する。だが太陰は感じ取っていた。
霊力の発露から感じたその居場所。声の主の正体。
南側の築地塀に彼がいる。
瞬間、旋風を巻き起こして太陰は飛んだ。長い距離を瞬く間に移動する。太陰の速さに彼は対応しきれず、身を隠し損ねて晒していた。
――昌浩。
太陰の傷を癒した天狐が、築地塀に腰を下ろして瞠目していた。
「……あんた」
ばつが悪そうに彼がそっぽを向く。ぶらぶらと足を揺らして、視線を逸らしたまま彼は尋ねた。
「趣味が悪いよ。どこから聞いてたのさ」
「あんたが誰かに、内緒にしろとか怒るぞとか言ってるのしかわからなかったわ」
「……そっか、」昌浩はちらりと太陰を見やる。
「なんなのか聞かないのか?」
「誰にだって他人に言いたくないことの一つや二つあるもんでしょ。それに、あんたには貸しがあるしね」
肩を竦めてから太陰は築地塀の向こうを覗き込んだ。
「ところで、あんたが話してた連中は?」
言った次の瞬間、眼前に丸っこい物体がぴょいんと跳ねて、思わず太陰は体勢を崩しかけた。
「よっ、式神ー」
「久しぶりだな!」
「……雑鬼たちじゃない」
彰子姫が一年ほど前に安倍の邸に居を移してから、この敷地には晴明の強固な結界が常に張られ続けている。それまで大陰陽師の邸には低級な妖、いわゆる雑鬼と呼ばれる物の怪の類が入り込み放題となっていた。
雑鬼たちは人間に対して特に危害を加えるでもなし、都中に星の数ほどひしめいている。それは宮中においても例外ではなく、内裏や大内裏にも彼らは住み着いている。宮仕えの陰陽師たちからは事実上黙認されている形だ。
なのに彰子が来てから、安倍の邸から雑鬼を追い払うように晴明は結界を敷いた。それは彼女が大事な預かりものだからだ。
時の権力者、藤原道長の。
結界の外では、鞠のような体に小さな一本角を生やした鬼と、小さな猿のような鬼、蜥蜴のような三ツ目の鬼が三匹、太陰と昌浩に手を振った。
「なあに、あんた、雑鬼たちと知り合いなの?」
「知り合いっていうか…その…」
渋い顔をして黙り込んだ昌浩の後を継いで、猿の小鬼が声を上げた。
「知り合いなんかじゃないぞ! そこの奴とは初対面だ! 名前だって知らないんだからな、なっ尾花っ」
「あっこらっ、」
「尾花?」
ますます苦虫を噛み潰したような顔をして、昌浩は額に手を当てた。その指の間からじろりと雑鬼たちを睨む。蜥蜴と一ツ角の小鬼はおろおろと顔を見合わせて、猿の小鬼にぽかりと小さな拳を振り下ろした。
「なにそれ。あんたの名前? 別に名前持ってたの?」
「……ずうっと昔に大怪我したとき、助けてくれた人間がいて」
昌浩はため息をついた。
「その人が付けてくれた名前」
「ふうん……見鬼だったの」
「そこまで強い人じゃなかったけどね」
ふと目元を和らげて、彼は黒瞳を伏せた。
「代わりに優しかった」
「………そう」
きっと昌浩は、その人間を好いていたのだろう。
何も知らない太陰でもなんとなく勘付けた。優しかったと零す、彼の声音は――あまりに穏やかだったから。
妖が、優しいと評することのできる人間――どれだけ心を砕けば、彼らがそのように表してくれるだろう。天狐は特に情に厚いという。裏返せば、厚い分彼らは頑なだ。彼らが信じるに足る器でなければ、彼らの信頼を得ることは難しいのだろう。
昌浩は雑鬼たちを指して、様々を諦めた色をした。
「こいつらとは、その時分にちょっと」
「待て尾花! こいつらとはなんだこいつらとは!」
「俺たちも名前貰ったんだぞー」
「俺が竜鬼、こいつが一ツ鬼、こっちは猿鬼。どーだいい名前だろう。褒めろ!」
「はあ?」
ぽかんとした昌浩が目を丸くする。太陰は一人、どうして雑鬼風情のこいつらが仮にも天狐に上から目線なのだろうかと自問していた。
結界から身を乗り出して、昌浩は雑鬼たちに胡乱な眼差しを向けた。
「名前って…え、誰かの式になったのか」
「ちがーう! お姫に貰ったんだお姫に。式にはなってないけど、これで俺らも格が上がったぞ! 追いつかれて悔しいか?」
「……そっか、彰子に……」
昌浩が頬を弛めた。
妖は現世に存在するものの中でも霊格が低い。一番低いのは動植物、その次に妖たち、その次は人間。もちろん最も霊格が高いのは神族を代表する神霊である。
名前を付けられるというのは個を認められるということ。個の重要性が高まれば高まるほど霊格は上がっていく。妖たちはそもそも名を持たない群であるからして、まず名を与えられるか己で霊格を高めて自力で獲得するしかない。
霊格が上がっていけば、比例して妖力も高まっていく。
昌浩は嬉しげに昔馴染みたちに笑いかけた。
「よかったな。その名前大事にしろよ」
「おうとも」
「言われなくてもな。折角お姫から貰った名前だからな」
「じゃあこれからちゃんとその名前で呼ぶことにするよ」
竜鬼、猿鬼、一ツ鬼。順繰りに言霊を込めて昌浩が彼らの名を呼んでやると、雑鬼たちが喜んでぴょんぴょんと跳ねる。その様を微笑んで眺めている昌浩の横顔に、太陰は思わず問いかけていた。
「あんたは、」
ぱちんと瞬きをして、大きな双眸が太陰に向いた。
「あんたはどう呼ばれたいの」
「――昌浩でいいよ。こっちが親から貰った名だもの」
「雑鬼たちには呼ばせてるじゃない」
「こいつらは、……今更言ったって直しゃしないもの」
「……そう」
太陰は宙を漂って、昌浩の隣に腰を下ろした。大きく息を吸う。
「夕方の続きを言うわ。昌浩。助けてくれてありがとう」
はっきりと一句一句を発音してじろりと彼を見やる。
太陰の思った通り、昌浩は顔をしかめて視線を逸らしていた。膝を抱えて、もごもごと呟く。
「あれは……だって、俺がちゃんとしてれば付かなかった傷だし」
その瞬間、ついに頭のどこかが切れる音を太陰は聞いた気がした。
(このガキ!)
心の中で盛大に罵る。もっと早くこうしていればよかった、とは思う者の――十二神将より遙かに年下のひよっこの思い上がりを今日さんざんに味わって、ようやく太陰は腹を立てる気になった。
「あんまり自惚れるんじゃないわよ、」
太陰はとうとう声を荒げて昌浩に詰め寄った。弾かれたように昌浩が顔を上げる。相手が大妖であることなどは彼女の脳裏から消え去っていた。ただひとりの人格として、昌浩に相対していた。
「天狐っていったって、所詮あんたはひとりなのよ。ひとりでできることなんてたかがしれてるの。晴明だってすごい奴だけど、ひとりじゃできないことが沢山あるわ。だから晴明は私たちと契約したの。けど、それでも全能じゃない。私たちも、」
太陰は唇を噛んだ。
「全能じゃない。……神様だってできないこととできることがある。天狐だって同じでしょう」
「――そうだね」
「そうよ」
眼下の雑鬼たちが身を寄せあって、びくびくと神将の勘気を見上げているのが見える。
夜風に二人の髪が揺れた。太陰が手を伸ばして昌浩の襟首を掴み、ぐいと引き寄せた。間近で視線を交錯させて、彼女は昌浩の黒瞳の奥底を見極めようと目を眇めた。
「だから全部守りきろうとか思ってるなら、その馬鹿げた考え今すぐ捨てなさい」
昌浩の瞼がぎゅっと閉じられる。その拳が固く握りしめられた。
たとえ見かけが幼くとも、太陰は千数百年を過ごした神族の末席だ。百余年生きただけの妖より余程経験を積んでいる。できることと、できないこと。両者の隔たりを、間にそびえ立つ壁の存在を痛いほど認識している。
これは忠告だ。
「……けどさ、」
ゆるゆると瞼が開かれる。隠されていた瞳が再び現れる。
太陰よりずっと幼いはずの妖は、強い意思を灯した双眸を見開いて、挑むかの如く彼女を睨み返した。
「やってみなくちゃ、わからないじゃないか」
「それで傷つくのが、あんた自身だとしても?」
「言っただろ。俺は形振り構っていられないんだ」
「――呆れた」
長く息を吐き出して、太陰は手を離した。両手を上げて降参する。
この子どもには、何を言ってもまるで無為らしい。
かといっていらいらが収まるわけでもなく、太陰は嫌みを口に乗せた。
「頑固なとこはまるで晴明にそっくりね。天狐って皆そうなのかしら」
「そうなのかも。血かもね」
昌浩がくすりと笑む。その笑みを横目で眺めて、太陰は膝を抱えた。
どうしても、この子どもに一言言ってやらねば気が済まなかった。
「ねえ、私たちは十二神将なの」
「……知ってるよ」
「守るのは私たちの役目なのよ。あんたに守られるのは有り難いけど、癪に障るの」
昌浩がつかの間言葉をなくして押し黙る、その隙に太陰は言うべき言葉を探した。
「あんたが皆の隣に立って守るって言うんならいいけどね」
「……そっか」
「そうよ」
つんと顎を反らし、太陰は欠け始めの月を仰いだ。まあそれはそれとして、と続ける。
「あんたの調子はどうなのよ」
「え?」
「言ってたでしょ、対価が自分とかどうとか。調子良いの?」
「ああ……うん。問題ないよ」
「そう」
ほっとして、彼女は胸を撫で下ろした。
痛みで朦朧とした思考でも、同胞と彼の会話は耳に入っていた。彼の肉体を癒す術は寿命を対価にするものなのだと。考えてみれば、昌浩は妖なのだから寿命などない。取り越し苦労だった。
ふと気づく。路地にいたはずの雑鬼たちが姿を見せない。きょろきょろと頭を巡らしていると、昌浩が言いにくそうに「ついさっき逃げてったよ」と口を開いた。
「俺たちが喧嘩するのが怖かったんじゃないかな」
「……そんなに強く神気発してないわよ、失礼な奴らね……」
じと目で闇の向こうを見通すが、欠片も妖力が感じられない。諦めて膝を抱え直し、太陰は小さな膝小僧に顎を乗せた。初夏の夜陰に流れる微風が耳を擽る。
「ねえ、もっかい言うわ」
昌浩の反論を聞く気はもうなかった。彼女はまだ大事なことを伝え終えていなかった。それを言うまでは、この場を離れる気は毛頭なかった。
「あんたが私たちを治してくれなかったら、きっと天一がその役目を負って寝込んでいたわ。あんたはそれもひっくるめて全部救ってくれたの。誇っていいことだわ。もっと胸張りなさいよ」
「……それは」
太陰はぎろりと年若い妖を睨めつけた。昌浩はうっと息を呑んで怯み、異論を唱えようとした唇を閉じた。しばしの間うんうん唸っていたが、ついに肩を落として、彼は考えた末なのだろう科白を口にした。
「どういたしまして……?」
「よろしい」
どうしても欲しかった言葉だった。この幼い、優しくて傲慢な妖にどうしても言わせたかった言葉だった。
気に入らないところは確かにあるけれども、彼の言葉はいつだって真実に満ちていた。本物であると確信できた。信じるに値する者なのだと、遠く空の向こうから風が教えていた。
風はいつだって真実を運んでくる。風将の彼女は風を通して真実を見聞きする、だからわかる。天狐は晴明の式として偽りなく戦っている。彼を大事に思っている。
晴明を朋友と仰ぐその気持ちは、十二神将と何ら変わるところがない。
だからこそ同じ地に立ってほしかった。全てを庇うような戦い方をしてほしくはなかった。
独りきりで立つのを、やめてほしかったのだ。
そうではない。
自分が言いたいことは、そうではないのだ。
人と同じ肉体を持つという、ただその一点が、紅蓮にとっては重要な懸案なのだ。
だが紅蓮の想いとは裏腹に、子どもは言の葉を連ねていく。
紅蓮の聞きたくない言の葉を紡いでいく。
「俺の体がどちらに属するものなのかは分からない。俺は中途半端で、できそこないだから、もしかしたら本当に異形のものじゃないのかもしれない。けどさ、俺は晴明の式なんだ。だったら、そういう風に扱ってくれればいい。俺が人か妖かなんて、みんなが考えなくてもいい」
紅蓮以外の十二神将だったら、今の言葉で納得したかもしれない。
けれど紅蓮は違った。彼だけが恐れを伴って、昌浩の言葉を受け止めていた。
彼らを生み出した人という存在を、紅蓮は傷付けた。紅蓮だけが、血塗れの咎を背負い、その両手を鮮血に染め上げた。
紅蓮は人の肉の柔らかさを知っている。
そして昌浩は、その脆い肉体で生きているのだ。
妖であれば、神将が傷つけたとしても何ら問題はない。だがその体は人そのものだ。妖力を宿す故に無意識に妖として扱い、もし、何かの拍子に彼に害を成してしまったら――
あの厭な感触を、紅蓮はまた心に刻まなければならない。
そんな危険な存在の近くにいることなど、彼は耐えられなかった。
みるみるうちに眉間に皺を寄せていく紅蓮を、昌浩はじっと見上げていた。そうしてから、ふっと笑みを深めた。
この少年がよく見せる笑い方だった。
「俺の望みはさ、騰蛇」
訝しげに見下ろす紅蓮に、昌浩はずっと笑顔を向けていた。
「好きなひとを守ることなんだ」
「……それが、どうしたというんだ」
「うん、だからね」
昌浩は大きく息を吸って、続けた。
「俺、騰蛇が好きだよ」
一瞬、紅蓮は何を言われたのか分からなかった。
すぐに息が詰まって喉が痛くなる。しばらく呼吸を止めていたことに気付いて、彼は慌てて胸郭を上下させた。次いで、あっと言う間に混乱の坩堝に放り込まれた思考を必死で動かそうとする。
この子どもは今、なんと言った。
呆然と見下ろすことしかできない最強の十二神将を、できそこないと呼ばれた天狐は笑って見つめている。 ――その腕を、彼が気絶している間にへし折ったのは紅蓮だというのに。
何も知らないままで。
「俺は晴明が大事だし、好きだよ。彼の家族も、彼が従えている十二神将も、きっと好きになれるだろうなって思ってた。実際、みんないい奴ばかりだったしね。
けど、騰蛇はさ、」
彼は夕陽にうっすらと頬を染めて、はにかんだ。
「俺が死のうと思ってた時に助けてくれたから」
「……なんだと?」
「凌壽に捕まった時、騰蛇が助けてくれただろう?」
紅蓮は二人が初めて会った時の、満月の晩を思い返した。この天狐は紅蓮と勾陳に忠告を寄越して、現れた凌壽に戦いを挑んだのだ。
そして圧倒的な力の差に敗れて、首を絞められていた。
その窮地を救ったのは、確かに――紅蓮だった。
「本当はあの時相討ちするつもりだったんだ。死ぬのは今だって、そう確信してた。でも、騰蛇が助けてくれた。
俺の命を拾ってくれたのは、騰蛇なんだ」
てらいのない笑顔はどこまでも澄んでいた。疑念を差し挟む余地すらなかった。
この天狐が、昌浩が、本気でそう思っているのだと確信してしまった。
まるで足下が喪失するかのような戸惑いを覚え、さらに戸惑っているという事実に狼狽し、紅蓮は薄ら寒くなる背筋と必死で戦った。
天狐を助けたのはあくまで利己的な理由で、それ以外に答えなど存在しない。彼をただ利用しようという考えだけであの時炎蛇を放ったのだ。だから礼を言われる筋合いなどないはずだった――こんな風に笑顔を向けられる理由など、どこにもあるはずがないのだった。
だのに昌浩は素直な好意をまっすぐにぶつけてくる。
愚かな奴だと嘲笑うことは簡単なはずなのに、それもできない。なぜなら紅蓮は気付いてしまったからだ。彼がどこまでも純粋に感謝の念を示しているのだと、紅蓮はもう、気付いてしまった。
気付いてしまえば、否定することはできなかった。
昌浩はまた身を屈めて、釣瓶から左脚へとぞんざいに水をかけた。適当に血を拭って、元通りに布を巻く。ついでに埃っぽくなった顔も拭ってさっぱりとすると、残った水を地面にあけて立ち上がった。
戦いで乱れていた髪を解いて、再び結う。随分綻びた古い髪紐を、彼は時間をかけて切れないように丁寧に扱っていた。
慣れた様子できちんと結び終え、昌浩は傷の感触を確かめるように左脚の爪先で地面を突っつく。活力の満ちた黒瞳が覗き、紅蓮にひらひらと手を振った。
「晴明に話さなきゃいけないことがあるから、行ってくるね」
長い尻尾のような黒髪を翻して、昌浩はそれっきり、振り返りもしないで屋敷に走っていく。
紅蓮は己の両手を見下ろした。
五十年前に人の血を啜った両手は、とっくに乾いているはずだった。
けれど太陽は残酷に、彼の手を染め上げているのだった。
勢いそのままに高欄に飛びついて、よいしょと体を引き上げる。屋敷の廊から晴明を訪ねることはなんとなくはばかられて、昌浩は簀子から妻戸に近づいた。
周囲に神将の気配はない。
「晴明、いいですか」
「入りなさい」
誘われ、昌浩はするりと妻戸を開けた。
暮れかけた夕陽は部屋の中まで差し込まない。大禍時に入ってしばらく経つ。燈台にはすでに火が入り、辺りを照らし出していた。
昌浩の主は狩衣こそ身に着けてはいなかったが、袴を穿いて袿を羽織っている。きちんとした身なりで脇息に凭れ、穏やかな顔で円座に座っていた。
離れたところにちょこんと正座すると、手招きをされた。おそるおそる、晴明の手が届く範囲までにじり寄る。と、彼はやっと悦に入った笑みを浮かべた。
「何用かな」
「……あの、」
一瞬、昌浩は言葉に詰まった。
「……ほんとは話さなくちゃいけないことがあったのに、黙っていてすみませんでした。どうしても、話したく…なくって」
申し訳ありませんでしたと頭を下げる。面を上げたその瞬間、その額がぱちんと指弾された。
ぽかんと口を開けて思わず額を押さえた昌浩に、晴明は好々爺然として声をかけた。
「これが罰じゃ」
「――これだけですか」
「いいや。後は理由を聞かねばならんのう。そのつもりで来たのじゃろ?」
大人しく頷いた昌浩を促して、円座に座らせる。きっと長い話になるのだろうと、稀代の陰陽師は感づいていた。
そしてやはり、その予感は外れることがないのだった。
昌浩は姿勢を正すと、真剣な眼差しを晴明に据えた。
「俺は」
短く息を吸う。
「凌壽が嫌いです」
その言葉に、晴明は意表を突かれたようだった。
「あいつの事を口に出すのも嫌だし、思い出すのも嫌です。直接会ったり話すのはもっと嫌です。俺が話さなかったのは、――言いたくなかったのは、それが凌壽に深く関係する事だったから、です」
矢継ぎ早に昌浩が言葉を紡ぐのを、晴明はただ静観していた。彼の指が自身の首元に伸びていくのもただ黙って見つめていた。
包帯が引き剥がされ、その下に隠れていた傷痕が姿を見せる。
真一文字に刻まれた薄桃色の傷痕は、細い首を半周して、薄い皮膚を晒していた。
つつけば今にも血を吹き出しそうな、頼りないひきつれた皮膚だった。
「八十三年前、俺は凌壽に殺されました」
落とされた告白を、晴明だけが耳にしていた。
暴風の中から解放されると、不安定な大気が耳を押さえてきた。
唾を飲み下せばすぐに圧迫感は消え去り、通常の音の世界が戻ってくる。
土御門殿から太陰の風で一気に戻ってきた六合たちは、主の家の庭にやっと足を着けた。その肌にはかすり傷一つなく、戦闘の後を窺わせない。
ただ一人昌浩だけが、乾きかけの傷をそのままにしていた。
意識を取り戻し完全に復調した太陰は、口を噤んだままのその背を見つめていた。彼はめっきり口数を減らして、終始むっつりとしている。……機嫌が悪いわけではないようだった。仕草はけっして乱暴ではないし、いらいらしている者特有のぴりぴりとした空気を発散しているわけでもない。単純に、神将たちとの会話を忌避しているようだった。
六合は気付いているのだろうが口出ししていない。玄武は気まずそうに明後日の方を向いている。青龍がこの場にいなくてよかった、と太陰は胸を撫で下ろした。今は一人中宮の警護に当たっている青龍だが、もし彼がいたら余計な口を出してさらに話をこじらせていただろう。
彼はきっと、訊ねられることをを怖れている。
朦朧とする意識の中、太陰は丞按の声を聞いていた。直後に荒れ狂う霊圧が体の芯を貫いたのも覚えている。怒りに満ちた炎飄は猛々しく、拒絶に満ちていた。
だのに、彼の燐光はあんなにも暖かかったのだ。
血管を巡り、心臓に流れ込んだ『何か』。体躯を隅々まで満たしたあれが、きっと――昌浩の、命なのだろう。
霊力ではない力。原始的で単純な、しかしそれ故に力強く脈動する術。
彼の欠片が、まだ太陰の中で息づいている。
ぎゅっと胸を押さえると、心臓はまだはっきり熱を持って鼓動を続けていた。
一度も神将と視線を合わせないまま、昌浩が一歩を踏み出す。その背に、太陰は思わず声を発していた。
「ねえ!」
昌浩の肩がびくりと震えた。ゆっくりと、顎を引いて、彼は振り返る。
現れた硬い面持ちは唇を引き結んで、まるで敵を見据えるかのように太陰に向けられていた。
だが、不思議と怖くはない。
何故だろうと考えて、太陰は胸に当てたままの手のひらの下の熱を思った。
ゆっくりと同化していく温度。心臓を満たす血の流れは緩やかな速度で拡散している。
――そう、きっと、この熱のおかげなのだ。
「助けてくれてありがとう、昌浩」
だから、太陰は笑いかけた。
途端、昌浩の真っ黒な瞳が不自然に揺れて伏せられる。貝のように合わせられていた唇が戦慄き、ささやかな音を零した。
「べつに……」
尻切れトンボに着地した言葉が、行き場を失って転がる。みるみるうちに顔色を曇らせた少年を、太陰は驚いて見やった。
どうして、そんな顔をするのだろう。
さらに顔を俯けて、昌浩はぼそりと呟いた。
「足洗うから、井戸借りるよ」
鉤裂きの傷ができた脚が回れ右をする。それっきり、彼は一度も振り返らなかった。
遠ざかる背中を立ち竦んだまま見送って、太陰は服の端を力一杯握りしめた。
どうしてあんな顔をするのだろう。
あんな――傷口を抉られたような、痛みに耐える顔を。
「ね、六合……」
訳が分からなくて、彼女は傍らの同胞を見上げた。悔しいが、自分よりずっと大人びている長身の同胞なら何か教えてくれると思ったのだ。
だというのに、六合はすうっと透明に溶けて、神気を隠してしまった。
異界に逃げたのだ。
ぽかんとしてからその事実に気付いた太陰は、やがて小さな拳をぶるぶると震わせた。おそるおそる様子を窺っていた玄武が雷に打たれたように背を伸ばす。一歩二歩と後ずさりして、やめておけばいいのに、彼はつい声をかけてしまった。
「太陰……?」
瞬間、童女は愛らしい顔立ちを怒りで歪ませて、玄武に射殺さんばかりの眼光を向けた。
「ちょっと、なんであんた何も言わないのよ!」
「そ、それはだな」
「玄武のばか! もう知らない!」
きいきいと地団太を踏んで、太陰が六合を追う。八つ当たりされた格好の玄武は耳を押さえて、一人深いため息をついた。
天狐が身を屈めていた。井戸枠に体重を預け、脚に巻いていた細長い布を解いている。近くに水の張られた釣瓶が、少し量を減らして置かれていた。
黒髪に隠されて、彼の表情は窺えない。
紅蓮が足音を立てながら近付いても、彼の視線が移動することはない。長身の影が足下に落ちて、ようやく、天狐は顔を上げた。
神気すら隠していなかったというのに、彼はぱちぱちと瞬きして紅蓮を見上げる。今し方気付いたばかりの様子で、彼は外した布を所在無げに持ち変えた。
精彩を欠いた瞳が、ぼんやりと紅蓮を映す。
この妖の、こんな目を見るのは初めてだった――予想もしていなかった。
知らず眉根を寄せて睨み付けるような眼差しを注ぐ神将に、天狐は首を傾げた。
その指先が持ち上がり、喉に、触れる。視線が揺れて、外れる。
「……白い、蝶が」
ややあってから手を下ろし、彼は囁いた。
あの辻で初めて会った時から一貫して保たれていた筈の芯を、紅蓮は彼の瞳の中に捉えることができなかった。
「飛んでいたのを見たよ。……晴明の式だろう。一緒に見てた?」
気付いていたのか。
晴明の飛ばしていた遠見の式は戦闘の後しか垣間見ていなかった。僅かな時しか動いていなかったというのに、彼は微かな霊力を感じ取っていたのだろう。
あの時苛立たしげに感情を硬化させていたのは、覗き見に気付いていたせいもあったのだろうか。
今はもう冷たさなど微塵も感じられない声音で、彼は茫洋と続けた。
「――この前は、ごめん」
唐突な謝罪に、紅蓮はさらに眉を寄せた。天狐が困ったように微笑する。乱暴にして悪かったとさらに続けた彼は、面差しを伏せて表情を隠した。
笑みを作った口元だけが、夕焼けに照らし出されていた。
「あまり……他人に、見せたいものじゃないから」
驚かせてごめんね、と笑って、彼は手の内の布を握りしめた。
ようやく、いつかの塗込での件を指しているのだと気付いて、紅蓮は目を瞬いた。今更そんなことを言われるとは思っていなかった。しかも謝られるいわれがない――強引な手段を取ったのは、紅蓮も同じだからだ。
あの日蒼白だった顔色が、残照を受けてやわらかく染まっている。
泣き出しそうだと頭の片隅で鳴っていた警鐘は、今は何事もなくただ揺れていた。
水に濡れた天狐の左脚が目に留まる。簡単に血を洗い流されただけの肌には、まだ傷口が真っ赤な色を広げて残されていた。
――知らず、紅蓮は訊ねていた。
「お前は、どちらなんだ」
ひくりと、天狐の指が震えた。が、構わずに紅蓮は続けた――普段の彼を知る者がいれば目を見張るほど饒舌に、金眼をさらに鋭くして、彼は目の前の子供に問うていた。
「触れられた時から違和感があった。お前はばらばらなんだ。どっちつかずで気配が混じり合って、周りが惑ってしまう、」
微かな躊躇いが、最後に語気を弱める。
けれど結局彼は、その先を口にした。
「もしお前が人に近いものなら、俺たち…俺は、」
「ずっと昔に」
なのに言いたかった言葉は口早に遮られて、かき消されてしまった。
「考えたことがあるよ。人であったら良かっただろうかって。でも、」
昌浩はようやく顔を上げて、紅蓮ににっこりと微笑みかけた。
「妖だろうが人であろうが、俺の望みに変わりはないんだって気付いたんだ。だったら俺はこのまま妖として死ぬんだって、もう決めたんだ」