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 浮かび上がっていた像が色を失ってぼやけていく。
 水晶球はみるみるうちに元の透明度を取り戻し、蔀戸から射し込む陽光を受け鮮やかな橙へと染まっていった。
 紅蓮は傍らの主人の様子を窺った。晴明は黙然として、何も映っていない水晶を撫でている。渋面ではないにしろ、深い皺を刻んだその顔は常になく眼光を鋭くさせていた。余程深く考え込んでいるのか、紅蓮の露骨な素振りにも反応しない。
 夕刻となり風が冷えてくる時間だ。単衣と袴、それと袿一枚しか身に付けていない今の晴明には酷だろう。年老いたその身体を茵に横たえさせる責任が紅蓮にはある。だが、すっかり思索に没頭した晴明に言うことを聞かせるのは至難の業だった。
 さてどうするかと似合わないため息をついて、紅蓮はそういえばと顔を上げた。
 晴明はここ一年ばかり身体を酷使していた。年齢を重ね人並みに体力が落ちたその身で、さらに魂すら操っていた。その負担は凌壽が来襲する以前から表面化し、彼はこの数か月体調を崩しがちだった。それなのに。
 あの幼い天狐が式になってから、晴明の顔色が良くなった気がする。
(……いや、気のせいだろう)
 紅蓮は頭を振ってその考えを否定した。天狐が来てからまだたった五日だ、偶然晴明の調子が良くなっただけだろう。
 ただ、調子がいいからといって油断はできない。今日は「遠見がしたい」という主の望みを汲み取って渋々了承したが、心労を重ねてもらっては意味がない。やはり当分遠見も禁止だ。
 そう、気にかかることはいくらでもある。長い間独りきりで凌壽の魔手から逃れてきたという天狐は、自身の証言通り集団戦に慣れていないようだった。……これは致命的な欠点だ。彼ひとりで凌壽と渡り合うことができないのなら、紅蓮たち十二神将と協力して凌壽を倒さねばならないのに。人間である丞按にすら遅れを取っているような状況では困るのだ。
 二つ目の不安材料は、怪僧・丞按に対する妙な躊躇いだ。せっかくの奇襲戦だというのに悠長に言葉を交わしたり、最後まで全力を振るわずに終わるなど、明らかに手心を加えている様子だった。攻撃する素振りもなく、ほぼ束縛するためだけの術を行使していたことからも、その意図は明白だった。
 ――丞按を殺せるのは、彼しかいないというのに。
 理由は分からない。だが、主である晴明が命を下せば嫌でも話すだろう。晴明がその選択をするかどうかは、また別の話だが。
 紅蓮はそこまで冷静に判断すると、無意識に額の金冠に触れた。
 指先に感じるひんやりとした金属の温度。
 何のために、それが存在しているのか。
 そうして、彼はやっと、己の関心事に目を向けることができた。
 あの天狐の身体に触れた時に感じた、微かな違和感。その正体をずっと探っていた。頼りない皮膚と肉と骨、それらの感触と、発される霊気の齟齬。ずっと不思議に思っていた、その答えがついに示されたのだ。
(できそこないの、天狐)
 霊力も血も魂も、彼を形作っているほとんどの要素が声高に叫んでいる。彼は妖なのだと、天狐なのだと。なのにただひとつだけ、その中でたったひとつだけ、裏切りの声が大きく木霊していたのだ。
 ヒトと同じ脆さで存在する、肉体が。
 十二神将として現世に顕れた時からの記憶をつぶさに振り返ってみても、同じような例は見たことも聞いたこともなかった。普通妖はたとえ雑鬼であろうとも通常の物理法則では傷付けられない体を有している。その体に傷を付けられるのは、あまねく人にあらざるもの――そして一握りの霊能力者たちだけだ。
 しかし、昌浩がそうでないのなら。

 それは――

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 六合は与えられる苦痛に耐えながら、その声を聞いた。
 驚愕。
 そして、得心。
 幼い天狐に抱いていた違和感の正体を悟り、六合は愕然として視線を移した。
 幼い顔立ちが蒼白に染まり、強張っていた。白炎を抱いた指先が震えている。幻妖の群れがすぐそこまできているというのに、少年は凍りついた瞳で棒立ちとなっていた。
 両手の焔は解放されずにただ揺らめき続けている。
 彼の心の、最もやわらかいところが貫かれたのだと――六合が息を呑んで気付いた時、怪僧は止めの確信を持って錫杖を高らかに地面へ打ち付けた。
 遊環の作る音の連なりが地表を走る。地中に染み込んだ妖力がそれに呼応し、錫杖の先から玄い蔦が湧き出した。小さな芽が一瞬にして成長し、硬い棘を備えた茨と化す。意思を持ってうねる蔦は蛇のように地を這い、崩れ落ちていた六合の足を捕らえた。
「………!」
 棘が肉に食い込む。それこそ蛇並みの膂力で締め付けられる。まるで獣に咬まれたような激痛が六合を襲った。
 次いで、枯渇しかけるほどさらに神気が奪われる。為す術なく倒れ伏し、手も足も出ない状況に置かれ――しかし、眼だけは力を失わず、六合は敵を睨め付けた。
 人間の枠を超えた怪物――丞按を。

 無防備な昌浩の足下にも蔦が伸びていく。だが、彼はまるで気付いていないようだった。
 真っ黒な瞳が、ぽっかりと虚無の色を覗かせている。
 動かない獲物に滑らかに接近した蔦は、頭をもたげるとその茨で剥きだしの脹脛に咬み付いた。同時に何頭もの幻妖が、束縛された昌浩に飛びかかる。犬歯が喉笛を噛み裂こうと唾液の糸を引く。
 皮膚が裂け、血が溢れる。ぎりぎりと締め付ける茨。鋭い痛みが彼の意識を叱咤する。
 幻妖の顎は、すぐ目の前に迫っていた。
 消滅していた思考が回復する。目の前に黄色い牙が踊る。
 それを認めたと思った瞬間、昌浩は身の内の霊力を爆発させた。
「ぐっ……!」
 強風が砂塵を孕んで丞按の全身を叩く。丞按の築いた結界をやすやすと通り抜ける風に、彼はたたらを踏んだ。嵐の如く荒れ狂う風は、ともすればこちらを浚うほどの勢いだった。腕で目を庇い、強風に耐える。
 けれど丞按とは違い、下僕たちは耐えられなかった。
 身体の芯に響く衝撃が、ずしんと皆を襲った。電光石火の早さで白炎が広がり、異空間内を荒らぶり蹂躙する。望月の夜の再現だった――幻妖も、蔦も、凌壽の毛髪さえもが、形を失い崩れていく。
 焔に煽られ、昌浩の髪や服の裾が激しく翻った。
 舞い散る粉塵の先で、憤然とした眼差しが丞按を見据える。
 幼い天狐は怒りを顕わにして、感情に任せたまま霊力を放出していた。
 突き刺さる怒気に、しかし丞按は戦意を失わなかった。籠手を嵌めた手で錫杖を握り締め、彼は冷静に計算した。
 邪魔な十二神将が身体を動かせるようになるにはまだ時間がかかるだろう。理由は知らないが、弱体化している天狐は眼前。誰の邪魔も入らない。
 ひゅっと呼気を吐き出し、僧は接敵した。
 呪縛から解き放たれた神将たちは反応できなかった。丞按と昌浩の距離は近すぎ、また彼らも虚脱から回復しきっていない。身を封じる忌々しい呪縛は無くなったというのに。
 昌浩は眉を吊り上げたまま、接近する丞按をじっと見つめていた。
 動じる様子は、ない。
 動けないのか――それとも、何らかの罠なのか。
 一瞬不安がよぎる。だが丞按は構わずに錫杖を振りかぶり、石突を叩き落とした。

 鈍い音が響く。

 神将たちは固唾を呑んで、その音を聞いた。
 手応えは硬かった。錫杖が触れたのは肉でも骨でもない――寸前で築かれた、障壁だった。
 眉間の直前で静止した石突。霊力で固定し動けなくさせた錫杖に、昌浩は驚くべき豪胆さで声を発した。
「縛!」
 込められた言霊が、一時的に高まった天狐の霊力をもって具現化する。かけられた強力な縛魔術――だがそれを、丞按は歯を食いしばるなり力任せに法力で跳ね返して見せた。
 昌浩の瞳が驚きで見開かれる。
(どれほどの力が――)
 錫杖を固定していた霊力が丞按の術でかき消される。再び振り下ろされる錫杖を今一度阻んで、彼は後退った。
 丞按の力はあまりに強く、束縛することすら満足にできない。生半な霊力では太刀打ちのしようがない。
 ならば――
 唇を噛んで、昌浩が三度錫杖を阻んだ、その時だった。
 丞按の背後に鳶色の長髪が踊り、銀光が迸った。
 銀輪を槍に変じた六合が丞按の足首の辺りを薙ぎ払う。常人であれば反応できず何も分からぬまま腱を斬られるだろう速度。しかし丞按は見事にそれを見切ってみせ、すんでのところで身をかわした。さらに、返す錫杖の先で尚も昌浩の首を狙う。それもまた阻まれるが、次第に昌浩の反応が遅れてきているのは明白だった。動体視力が追い付いていないのだ。その事実に気付いた六合は素早く間に滑り込み、幼い天狐を背に庇った。
 得物の奪い合いが再発する。槍と錫杖が数合打ち交わされるが、実のところ六合の不利は変わらない。――彼は十二神将で、理に縛られている。
「昌浩!」
 幼い子どもの声に、昌浩ははっと振り返った。五丈も離れたところで、あちこちに咬み傷を負った玄武が白い焔の中、さらに血塗れの太陰を助け起こしていた。
 昌浩と同じ黒曜の瞳が、炯々と光っている。
 その叫びの意味するところを正確に察し、昌浩は歯噛みした。
 丞按に、呪縛は効かない――何度も試して分かっているはずなのに。
 それでも再度戒めをかけようと集中した、その時だった。
 六合の槍を弾き返した丞按が蛮声を張り上げた。

「……その傷も命を喰らって癒すか、呪われた天狐め!」

 嘲りの籠った悪意が昌浩の耳を打つ。昌浩は――ひくりと喉を震わせて、今度こそ完全に凍りついた。
 六合の注意が逸れ、動きが僅かに鈍る。その隙を突き、間合いを詰めると丞按は彼の肩を強打した。神将がよろめく。が、追い打ちはなかった。丞按は身を翻すと短く呪を唱え、結界を解いたのだ。
 僧が素早く飛び離れ疾走する。逃げるつもりなのだと気付き、玄武は眦を釣り上げた。すかさず波流壁を生みだし、逃げかける丞按の行く手を遮ろうとする。
 だが、法力が込められた錫杖が打ち鳴らされると水壁はあっけなく崩壊した。
 どうと大量の水が地面に流れる。その音で昌浩がはっと我に返った。彼は咄嗟に丞按の背に縛魔法をかけたが、僧は後ろに目が付いているかのようにやすやすと避けた。
 未だ不安定な空間が揺らめき、丞按の姿を押し隠してしまう。
 ――結局、昌浩たちはおめおめと丞按の逃亡を許してしまった。
 一同の存在する大路が、だんだんとざわめいていく。ずれていた相が噛み合い、本来の雑踏に戻っているのだ。六合はふっと息をつき、銀槍を転変させてから天狐を振り返った。
 彼は俯いている。
 その横顔は、窺い知れない
 陽炎のように実体を伴わない影が像を結んでいく。通行人のひとりと接触しそうになり、玄武は太陰を抱えたまま慌てて身を引いた。彼らは人ならざる者ゆえ眼に映らないものの、物質としての肉体は保有している。ぶつかれば騒ぎになるだろう――そう考え、彼は道の真ん中で立ち尽くす昌浩に声をかけようとした。
 けれど、それよりも早く、天狐は面を上げて神将たちを見やった。
 憮然とした面持ちだった。
「……場所を移すぞ」
 六合が玄武たちに近寄り、傷の酷い太陰に自身の長布をかけた。太陰は意識こそ保っているものの、あちこちを酷く咬まれ出血が酷い。少女の小さな体躯はそこここが牙によって引き裂かれていた。痛みが酷いのか、呼吸も荒い。……早く処置しなければ危ないだろう。
 小柄な神将を二名とも抱えると、六合は大きく跳躍して近くの築地塀を乗り越えた。すぐに晴明の元に連れて行き天一に移し身の術を使ってもらわねばならないが、一旦二人の傷の具合をしっかり見定めねばならなかった。
 万が一を考えると、晴明に癒しの術は使わせられない。けれどその身を犠牲にする天一の術は、彼女に負担がかかりすぎる。十二神将が自力で治癒できる傷ならば、できるだけ術を行使せず自己再生を待つべきだった。
 地面に太陰と玄武のふたりが下ろされる。と、六合の背に低く抑えられた声がかかった。
「傷治すよ」
 彼が振り返ると、幼い天狐が硬い瞳を向けていた。
 昌浩は足早に近寄ると、迷いなく太陰の側に膝を突いた。
 冷たくも聞こえる声音に、氷のような無表情――しかし、六合はその中に微かな揺らぎを感じ取っていた。
 自制――熱さを内包した、冷たさ。
 誰に苛立っているのか。
 昌浩の指が、鼓動を確かめるように太陰の首筋に触れる。だが、すぐにそれは払い除けられた。
 半身を起した玄武が太陰を護るように引き寄せ、その面立ちを不信に揺らしている。
「“命を喰らって癒す”とはどういう意味だ」
 真っ向から視線をぶつけ、玄武は詰問した。
「真実なのか。ならば、お前が癒したという騰蛇や勾陣は――」
「そうだ」
 強い応えに遮られ、彼は思わず口籠った。
 天狐の目が、ぎらぎらと燃えている。……抑圧された怒りが漏れ出ている。
 昌浩は黒瞳を眇めて、神将たちに有無を言わせず太陰の喉元に掌を当てた。気圧され止める暇もなかった――昌浩の身体が、淡く発光する。
 あっという間だった。数瞬後には光が消え、その時には太陰の傷はもう跡形もなくなっていた。
 楽になったのか、今まで顰めていた顔をふっと緩めて、太陰が瞼を開ける。
 覗き込む面々の顔を確認するようにひとつひとつ焦点を合わせ、彼女は最後に天狐へと眼差しを移した。
「昌浩、」
 乾いた唇がゆっくりと動く。
 そうして、そっと瞼を下ろした。
 彼女の乱れた前髪を、昌浩が優しく撫ぜる。それから、彼は玄武によく研がれた刃の視線を向けた。
「吸気の術」
 ぶっきらぼうに、昌浩はその名を口にした。
「と、俺は呼んでる。生命力、つまり寿命を対価に傷を癒すものだ」
 不穏な言葉に、さっと神将たちの気配が変わった。昌浩にとってはよく見知った反応――警戒と疑心。拒絶。ごく自然な、当たり前の反応だった。
 胸は痛まない。
 ただ――昌浩は生涯付き纏っている疎ましさを、この時強く感じていた。
 そして、変に攻撃的になっている自分を自覚する。理由は明白だ。――これは八つ当たり。
 ふっと自嘲して、昌浩は視界を閉ざした。できるだけ穏和に聞こえるよう声を落とす。
「安心していい。傷を負った者から奪うわけじゃない」
「――では、あのとき桂が枯れたのは?」
 昌浩の告白に、六合が疑問を呈した。
 自失した昌浩が運ばれた夜に枯れた大樹。あの時、彼は多少なりとも傷を負っていた。……あれは彼自身の傷を治すために、命を奪われたのではないだろうか。
 その問いに、なんでもないことのように彼は答えた。
「そう」
 同意する。
「施行者と対象者が同一の場合、つまり俺が怪我を負った場合だな。その時は他者から対価を得ることになる」
 言い置いて、彼は玄武に手を伸ばした。脈を取るように手首に当てられた指の感触は、柔らかい。玄武は黙ったままそれを受け入れた。
 ――もう昌浩の双眸には、細波一つ立たない。
 彼の指先が仄かな灯りを点す。昌浩が大きく息を吐き出したその時、六合が囁いた。
「お前が他人を癒すとき、対価は誰が支払う」
 天狐はほんの少し目を細めた。灯りは指先に留まったまま広がらない。
 やがて数拍ののち、彼は微笑して燐光を纏った。
「――俺自身だよ」

「このっ……!」
 太陰は大きな竜巻を作り出し、幻妖の群れへと解き放った。荒れ狂う風が幾つもの幻妖を浚い、粉微塵にする。けれどすぐ側にある丞按の結界はびくともしない。変わらず幻妖を吐き出している。
 そしてその幻妖自身も凌壽の力を得、力を増したのか焔に身を焦がされる様子がない。醜い獣たちは白炎を踏みにじり、大きく咆哮した。その数は既に十を超え、二十に差し掛かろうとしている。
 昌浩も丞按の張った結界を破ろうと練り上げた霊力を放つ。が、結果は太陰と同じだった。幻妖は身を呈して結界とその中にいる主を守り、崩れ、新たな幻妖が出現する。終わりがない。白狐の攻撃も追い付かない。
 盾となる幻妖どもが邪魔だが、どうにかして丞按の注意を逸らさなくてはならない。司令塔は丞按だ。奴の気さえ惹けば――
 六合が槍をくるりと回し、腰だめに構える。銀色の残光が網膜に赤い軌跡を描いたかと思うと、彼は鋭く吶喊した。
 幻妖の壁の僅かな隙間。丞按をまっすぐに見通せる、完璧な好機。六合の槍の穂先が、まるで吸い込まれるように空間に突き刺さる。
 丞按の肩先目掛けて突き込まれた銀槍は、しかし後三尺というところで阻まれた。
 銀槍は深々と幻妖の体躯に埋まっており、残念ながら、丞按自身には届いていない。
 失敗を悟った六合は即座に柄をはねあげて幻妖を両断する。その動作に合わせて、後方から少年の声が響いた。
「縛!」
 天狐の霊力が縛鎖を形成し、結界を無視して丞按に絡み付いた、かに見えた。
 だが。
 丞按が錫杖を振るう。すると、なんと縛鎖は音を立てて弾け飛んでしまったではないか。
(そんな……!)
 愕然として、昌浩は己の両手に視線を落とした。
 丞按の法力は以前と変わらない。昌浩は自分の最高の出力で術をかけたつもりだった。……それが防がれたということは。
(俺の霊力が)
 ――こんなに早く、僧に劣るほど早く、弱まるとは考えていなかった。

 丞按が嗤った。
「やはり天狐といってもこの程度か」
 網代笠の下の口端が吊り上がる。
「弱い、弱いな。安倍晴明め――こんな下っ端どもで、俺を倒せると思っているのか」
「なんですって?!」
 主たる晴明を侮辱する言の葉に、上空の太陰が声を荒げた。太陰だけではない。玄武も、表情こそ変わらないが六合も、その台詞によって火が付けられる。
 三者の殺意が、もどかしさを付随して丞按に注がれた。
 けれど十二神将が人を傷つけることは許されない。丞按はそれを知ってか、泰然と構えて視線を受けた。
「時間が来たことにも気付かないのでは、下っ端と言われても仕方なかろう」
「時間――?」
「そう、時間だ」
 丞按が網代笠を放る。
 ふわりと風に乗った笠が、白炎の燃え盛る大地へと落ちる。
 同時に、召喚された白狐たちが消し飛んだ。
 ばちりと音を立て、続いて昌浩の結界すらもが消滅する。ただ異空間であることは変わりがない。丞按が新たに結界を結んだのだ。
 狐火も地中から雲散霧消し、代わりに昌浩にとって馴染みのある妖気が吹き上がる。
 背筋を走る悪寒に震え、昌浩は理解した。
 丞按の身を護っていた小さな結界――あそこで落とした凌壽の髪は、強化された幻妖を生みだすだけではなかったのだ。
 地下から妖気を侵食させ、丞按にとって有利な空間を創りだすことこそが本来の目的。
 今更勘付いたところで遅すぎるが。
 一同の足下から直接獣の口が生え伸び上がる。寸前でそれぞれ身を躱していくが、妖気に塗れた地は逃れた先でも幻妖を生み出し、息つく暇を与えない。気付けば、一塊りになっていたはずの四人はばらばらとなっていた。
(――白炎を再び出したとして、祓えるだろうか)
 おそらく無理だろう。霊力の低下した白炎はきっとなんの効果も為さない。
 では幻妖を滅しながら丞按を倒さなければならない。なんて地道で原始的な。
 歯噛みした、その時だった。
 最早分厚い壁と化している幻妖の向こうから、遊環の音が響いた。
 音波の集合が戒めとなって昌浩を襲う。足下に注意しながら、彼は圧縮した霊力を前方に解放した。幻妖を巻き込んで光が炸裂する――同時に戒めの術を粉砕する。
 なかなか皆の援護に回ることができない。昌浩はちっと舌を鳴らした。丞按はまるで人間の限界を超えたような強さだ。殺さずに打ち倒すことなど夢のような話で、到底できそうに――

 刹那、粉塵の奥で動いた影に彼は勘で対応していた。

 錫杖の先が突き込まれる前に障壁を形成する。金属が弾かれる音がして、昌浩は後方に下がった。
 いつの間にか接近していた丞按が、障壁を避けて回り込もうとしている。続けて全方位に結界を創り、昌浩は焦りと共に周囲を見回した。
 六合は長布と銀槍で幻妖を捌いている。太陰は宙に浮いているからいいが、竜巻を撃っても撃っても敵が減らず、援護になっていないことに腹を立てているようだ。最も危ないのは玄武。結界で持ちこたえているが、破られるのは時間の問題だろう。
 完全に分断されている、これではまずい――
 丞按が再び錫杖を振りかぶる。意識を戻し、霊壁に力を注ぎながら、昌浩は怪僧と真正面から睨み合った。
 淀んだ眼光が暗く輝いている。
 真っ黒な憎しみが溢れ出してくるような眼差しだった。
 初めて接する、深い憎悪――背筋が寒くなる、強い怨嗟。
 ぞっとした瞬間、昌浩は視界の端で蠢く黒い物を認めた。
 それは空をひらりとまって、太陰に近づいていた。
「――太陰!」
 咄嗟に注意を呼び掛ける。少女は「え?」と振り向き、昌浩を見た。その時には、もう手遅れだった。
 凌壽の髪が、太陰の細い足首に巻きつく。少女が悲鳴を上げた――纏っていた風が呆気なく消失し、太陰は足下に群がっていた幻妖の只中に落下していった。
「太陰!」
 青褪めた玄武が声を上げる。六合が銀槍を薙ぎ払い、幻妖を何匹か両断した。だが太陰の元までは辿り着けない。寡黙な神将の無表情が、焦りで彩られた。
 幻妖の群れは、依然として蠢いている。
 丞按の打ち付けてくる法力に耐えながら、昌浩は六合と玄武に叫んだ。
「凌壽の髪だ! 気をつけろ、呪縛にかかる!」
 けれども、その叫びは一瞬遅かった。
 玄武の織りなす結界を蛇のようにくねって髪がすり抜ける。玄武は気付かなかった――いや、直前に飛び退こうとしたが、相手が早かったのだ。
 波流壁がどうと音を立てて崩れ落ちる。飛沫を跳ね飛ばし、何頭もの幻妖が突進する。
 玄武は神気が失われていくのを知覚していた。長い紐に転じた黒糸、髪が、神気を根こそぎ奪っていく。抗うことすらできない。膝を突いて、迫りくる幻妖を睨みつけるのが関の山だ。
 圧し掛かってきた幻妖に転がされる。大きな顎が開く。涎で糸を引く牙と牙を気丈に見据える。
 悲鳴一つ洩らさず、細い肩を牙で貫かれる同胞を、六合は幻妖の壁越しに確かに見た。
 長布を振り払う。幻妖が跳ね飛ばされ、道が作られる。しかしそれは瞬く間にすぎない。斬っても斬っても、妖は地面から妖気を吸い取って際限なく現れ出でる。
 丞按の何度目かの攻撃を防いだ昌浩は、結界を消すと幻妖の隙間に飛び込んだ。太陰と玄武の元に向かおうとする。だが、丞按は甘くなかった。戒めの術と共に錫杖が打ち込まれる。周囲の幻妖も爪と牙を鳴らして飛びかかってくる。仕方なく結界を形成してそれを防ぎ、その場に留まって敵を倒すほかなくなる。
 六合の援護もできない、太陰と玄武を助けにいくこともままならない。幻妖を全滅することも、丞按の妨害により不可能だ。
 なんてことだ――歯軋りして、昌浩は己の迂闊さを呪った。
 忌々しい男の声が脳裏で木霊する。
(お前は)
 びりと、古傷が痛む。
(優しい。故に愚かだ)
 冷たい指がうなじに触れる、錯覚。
(甘さを棄てなければ面倒くさいことになるぞ)
 草いきれの匂い――夏の日の忌まわしい記憶。
(こんな風にな)

「うるさい!」

 幻聴を振り払うように、昌浩は吠えた。古傷の痛みを無視して霊力を込める。結界がぎゅんと拡大し、丞按と幻妖とを跳ね飛ばした。
 が、離れたところにいた六合には届かない。幻妖に埋もれた太陰と玄武にも。
 そして、それが六合にとっての仇となった。
 幻妖の体に隠れて忍び近付く糸は、宙に舞い上げられた幻妖が目くらましになったその瞬間を逃さなかった。
 長く転じた糸が長布ごと六合を縛り上げる。強制的な神気の流出が実行され、すぐさま束縛の妖力に転化される。急激に襲いくる眩暈に呻き、六合は萎えた右手で槍を振るった。間合いに入り込んでいた幻妖の頭を穂先が断ち割る――だが、そこまでだった。
 六合の手から銀槍が滑り落ちる。地面に落ちたそれは乾いた音を立てると、形を崩して元の腕輪へと変化した。
「六合!」
 神将の最後の一人が囚われ、昌浩の顔色が変わる。
 刹那の躊躇があった――しかし、彼はすぐに選択した。
 結界を解かずに丞按を倒すのではなく、結界を解いて仲間を救う道を。
 自らが傷を負うことは考えず、昌浩は結界を解いた。途端、幻妖が津波のように押し寄せてくる。
 最大限の霊力を駆使して、幻妖たちを消し去らねばならなかった。結界を解いてから間髪入れずに焔を生み出す。掌に灯った白炎が、輝きを増す。けれどまだ足りない。さらに霊力を込めた上で、黒い波よりも早く対応しなければならない。
 ――丞按が声を上げたのは、その時だった。

「貴様の身体のこと、聞いたぞ」

 動きが止まる。
 予感で凍りついた昌浩の耳朶に、声は容赦なく爪を立てる。
(動かなければ――)
 頭の奥では冷静な自分がそう囁いているのに、彼は焔を広げることができなかった。
 竦んだように、足に力が入らない。
 事実、彼は怯えていた――数瞬後に訪れる未来を感じて。
 津波の向こうで、丞按が嘲りの色を隠しもせずに叫んだ。



「人間の肉体しか持たない、できそこないの天狐め!」

 一刻半の後、三人が風で戻ってきた。
 青龍との無言の時間に耐えかねていた昌浩があからさまにほっとして出迎える。気難しい神将の相手などできるはずもないので、昌浩は青龍と口を利いていなかった。当然会話など起こるはずもない。
 土御門殿に近づく危険の兆候はなく、また六合たちの道中も何もなかったそうだ。晴明の息子の身に累が及ばなかったことに昌浩は胸をなでおろしたが、心の底から喜べたわけではなかった。
 敵に動きはなく、僧の気配は感じられなかった。つまり昌浩を囮としたこの作戦が失敗に終わったことを意味している。
 「出なかったわね……」
 青龍一人を土御門殿に残し、皆を安倍邸に運ぶ手はずを言いつかっていた太陰は、何の収穫もなかったことに不機嫌になっている。見かねたのか、六合が珍しく重い口を開けて慰めた。
「敵が慎重になっていると考えたほうがいい。こちらにも天狐がいるのだから」
「それはそれで腹に据えかねるのよ。だってわたしたち十二神将が人間に侮られてるってことじゃない」
「そもそも、」玄武が不審げに後を継いだ。
「騰蛇と勾陣の二人を押さえこめる法力を持つ人間など、本当に存在するのか?」
 一同が眉を顰めて小さな神将を見やる。彼は指を顎に当てて、神経質そうに片足で桧皮葺の屋根を擦った。
「末席とはいえ我らは神。晴明ですらそのような真似、軽々とできるものではない。――昌浩。僧は本当に、人間であったのか?」
 視線が年若い天狐に集中した。
 昌浩が黒曜の瞳を伏せる――数日前の記憶、肌で感じた霊力を思い起こしているように、視線が揺れる。
「……彼は……」
 惑うように、唇が震える。
 だが次の瞬間、昌浩は瞳を大きく見開いて背後を顧みた。
「いた!!」
「なに?」
「北……すぐそこの辻!」
 怪僧のおぞましい法力が神経に触れ、昌浩は叫んだ。怪訝に聞き返されて答えを返すことすらもどかしい。
 感覚する――僧はまだ気付いていない。
 杉皮を蹴って屋根の縁に進む。そのまま飛び出そうとする昌浩の腕を、誰かが掴んで押しとどめた。弾みでつんのめる。
 抗議のために見上げた先には、無口な神将がいた。
「なにするんだ! せっかく見つけたのに――」
「突出するな」
 ぐいと引き戻し、六合は手短に同胞に指示した。
「太陰、風を。青龍は警護を」
「わかったわ!」
 太陰が応じる/青龍が舌打ちする。
 神気によって創られた大気の渦が、青龍以外を瞬時に閉じ込め上空に舞い上がった。
 凌壽と僧を敵とした一連の戦いの主導権を握っているのは、狩る立場である敵側だ。守らなければならないものの多い晴明たちは、自然、防衛に力を入れてしまう。それでは後手に回らざるを得なくなり、先手を取ることは難しくなる。すなわち、相手の不意を突く奇襲を行うことができない。彼らは今圧倒的に不利な状態に置かれていた。そんな中、奇襲を行う好機――悟られる前に相手の位置を特定できたことは行幸に近く、この機宜を逃すわけにはいかないのだった。
「あそこね!」
 加速は即時。あっという間に目指す四つ辻に近づく。と、眼下では網代笠をかぶった大柄な僧が素早く踵を返そうとしていた。
「間違いない、あいつだ!」
 面々の中で唯一僧を目にしている昌浩が確認を取る。ちらりと覗いた面影は間違いなく、あの時の壮年の男だった。
「太陰、俺を落とせ」
「でも六合、」
「心配ない。結界は頼んだ」
 太陰が大きく眦を決する。だがすぐに彼女はきっと唇を引き結び、僧の頭上へと追い付くと竜巻の中から六合を放り出した。
 僧が反応し、天を仰ぐ。六合の長布が音を立てて広がる――左手首の銀輪が輝き、流水の如く形を変える。
 現れた銀槍を手にし、六合は鋭く得物を振り下ろした。
 自重と加速の加重を乗せて、一撃が怪僧の脳天に直撃する。

 ――金属音。

 六合渾身の攻めは届いていなかった。ぎりぎりのところで僧は錫杖を翳し受け止めていたのだ。
 僧が錫杖を捻り、槍を絡め取ろうとする。察した六合が力を反転し、逆に得物を奪い取ろうと試みる。数瞬の絡み合い――しかし、昌浩たちにはそれで十分だった。
「結!」
 仄白い焔と共に空間が隔絶する。人界とは僅かに位相のずれた空間に閉じ込める。
 狐火に満たされた、昌浩の支配する異空間。けれど僧は間一髪、大きく飛び離れると遊環を鋭く鳴らして己の周りに小さな結界を築き、狐火の進行を妨げた。着地した昌浩と玄武、太陰を認め、僧は舌打ちと共に錫杖を構えた。
 六合も油断なく銀槍を構え、間合いをはかっている。
 僧の腕は大したものだった。加えてかなりの剛力である。六合と数合打ち合える人間が存在するとは、と玄武は舌を巻いた。
 できればあのまま接近戦を続け、僧に術を使う隙を与えぬようにしたかった。けれどそうも言っていられぬほどの腕前である。現に、あの六合が術の発動に反応できなかった。
 さらに、理のこともある。十二神将は親たる人間を傷つけてはならない――怪僧を討つのはあくまでも昌浩でなくてはならないのだ。
 だが遠距離戦を得手としている昌浩の力を完全に発揮するためには、今度は側で打ち合う六合が邪魔になる。まったく、彼らと僧は相性の悪い相手だった。
「ひとつ訊きたい」
 昌浩が前に出る。何を悠長な、と玄武は非難がましく彼を見上げた。
 が、言葉は出ずに終わる。――彼の眼差しが、何物をも寄せ付けずに燃え上っていた。
 その奥に秘められた感情が何なのか、玄武に読み取ることはできなかった。
「何故中宮を狙う」
 続けて、昌浩はゆっくりと勧告した。
「答えろ。……大人しく降伏すれば、命までは取らない」
(馬鹿な)
 玄武と太陰は驚いて、小柄な天狐に目をやった。……何を言い出すのだ、彼は。
 笠の下で、僧の目が細くなる。そのまま、くつりと笑いが漏れた。墨染の僧衣が上下し、手にした得物の先の遊環が揺れる。金属の擦れ合う甲高い響きが広がる。
 その音に誰もが集中したその瞬間、黒衣の袖口からほつれた糸が滑り落ちた。
 黒い糸。その糸が、狐火のない地表に触れる。
 瞬間、僧の足下から妖気が噴き出した。
「――――!?」
 誰もがはっと息を呑んで、糸の正体を悟った。
 黒糸――いいや違う、あれは毛髪。
 凌壽の髪だ。
 神将たちの様を嘲笑い、僧はいっそ悠然として錫杖を地に打ち付けた。
「我が名は丞按。覚えておけ――藤原の血を滅ぼす者の名をなあ!」
 途端、漆黒の化け物が地面からぬうっと鎌首を持ち上げた。
 一匹ではない。いくつもいくつも、沼地に湧く泡のように後から後へと現れる四足の幻妖が、狭い円の中から億劫そうに前足を引き抜いている。
 躊躇する余裕は、もうとっくに無くなっていた。
 昌浩は奥歯を噛み締めた。降伏など、聞き入れられるはずがないことは重々承知していた――けれども、どうしてもしたかったのだ。
 そのツケがこれか。苦々しく目を細め、昌浩は白炎に命じた。
「顕れろ!」
 空間を満たす焔は従順だった。焔の一部が僧――丞按を取り囲むように凝縮する。密度を高め、高物質化した焔は四体の獣の姿をとった。長い口吻、すらりとした手足、ふさふさとした尻尾――微かに揺らめきを残した四匹の白狐は、牙を剥いて主人の命に従った。次々に幻妖に飛びかかると、俊敏な動きで翻弄する。的確に首を狙い続けるその姿勢は、よく訓練された猟犬のそれだった。
 だが幻妖の勢いはそれをも凌ぐ。同族の屍を踏み越える獣を目にして、玄武は眉を吊り上げると両手を翳した。
「波流壁!」
 透明な水の障壁が丞按と幻妖を閉じ込めるべく収束する。しかし響く金属音がそれを妨害した。
 流水が敢えなく散り、飛沫と化す。丞按の術が押し勝ったのだ。
「馬鹿なっ……」
 愕然となる玄武を六合が素早く庇う。

 敷地をほとんど半分横切る距離を歩いて、前栽の木立に分け入っていく。
 築地塀の隅に辿り着くと、昌浩は深く息を吸い込み、吐き出した。その行程を何回か重ね、気息を整えていくと同時に霊力を練り上げていく。天狐の狐火の波動が収束され、燠火から篝火へ、そして閃光を放つ玉へと変貌していく様が、神将たる太陰と玄武の眼にははっきりと映っていた。
 小さな気合いと共に、片方の踵が地面を叩く。
 たったそれだけで、練り上げられた霊力は結界の基礎として形を得た。
 玄武はしげしげと枯れ葉に覆われた地表を見つめていた。天狐の通力は周囲の地霊や木霊と喧嘩することなく、かといって押しのけるでもなく、自然に根付いている。
 人間や神族より自然との親和性が高い妖だからこその業か――それとも、天狐であるが故の技量の高さのためなのだろうか。
 どうやら大がかりな結界を作るための基点の一つにすぎないそれを注意深く観察しながら、玄武は喉の奥で唸り声を上げた。
 悔しいが、玄武の織りなす結界よりも相当強靭なものになるのは間違いないだろう。
 おそらくは天空と同程度――もしくはそれ以上、だ。
 徒人 にはけっして見えぬ輝きの残光を振り切り、玄武は昌浩を見上げた。天狐が小さく息をついて、それからきょとんと見返してくる。その双眸に、彼は率直に尋ねた。
「何故こんな回りくどい方法を取るのだ?」
 昌浩が、ゆっくりと瞬きする。
 無言のままに続きを促され、小さな神将は物怖じせずに口を開いた。
「天狐ほどの妖なら、この屋敷を囲む結界など造作もなく創れるのだろう?」
 言い終えてから、玄武はしまったというように唇を噛んだ。これでは、まるで自分が僻んでいるかのように聞こえるではないか。
 事実、太陰はそう受け止めたらしい。はっと口元を押さえて、らしくもなくおろおろと二人を見比べている。
 けれども昌浩は気付いているのかいないのか、平然として玄武の問いに答えた。
「相手は凌壽の力を使ってるんだもの。念には念を入れなきゃならないし、俺は形振り構っていられないんだ」
 本当は体の一部分――髪や爪、そして血を媒体にして築き上げてもよかったのだが、そうすると昌浩が倒れた場合結界も同時に崩壊する。自身の欠片を通して常に霊力を注ぐことになるので、本体が死ぬとすぐに結界を維持する霊力が枯渇するためだ。人であれば何か法具を使えばいいのだろうが、あいにく昌浩は妖。半永久的に機能するものを、となると霊力の凝集体を創るしか手がないのだ。
 たとえそれが、人間の技術を踏襲したものであろうと。
 妖の矜持さえかなぐり捨てねばならぬほど、凌壽という天狐は強大なのだ。
 さっと青くなって、太陰と玄武は小さな拳を握りしめる。
 同じ天狐である昌浩がここまで警戒する敵を、彼らは直接見てはいない。ただ話されただけだ――十二神将一番手と二番手でさえ、まともに戦って勝てるかどうか分からない相手だと、本人たちから。
 老練な主は離魂術が使えず、満足に力を奮うことができない。
 はたして十二神将と昌浩だけで、本当に凌壽を倒せるのだろうか――?
 小さな神将たちがすっかり固くなる。昌浩は優しく微笑して、二人の肩を宥めるように叩いた。
「あまり悲観しないで。大丈夫、数のうちじゃ二対十三じゃないか。きっと勝てるよ」
 玄武がじろりと睨み上げる。太陰も青いまま不満げに、「そういう問題?」と言い返した。
「楽観しすぎるのもどうかと我は思うぞ」
「だって、仲間がこんなにいるじゃないか」
「それは……そうだが」
 もごもごと玄武が黙り込む。太陰も言い返せずに口籠っていると、昌浩は声を明るくして、「それに、」と付け加えた。
「俺を助けてくれてた赤くて大きなひとは、きっと凌壽にだって負けないよ」
 思わず、太陰は玄武と顔を見合わせてしまった。
 “赤くて大きなひと”といったら、彼らには一人しか思い当たらない。
 じわりと額に汗が滲むのを感じながら、玄武はおそるおそるその名を口にした。
「それは……騰蛇のことか?」
「あ、そういう名前なの?」
 ぱあっと頬を朱に染めて、昌浩は嬉しそうに身を乗り出した。
「直接聞こうと思ってたんだけど、色々あって聞きそびれてたんだ。――そっか、騰蛇っていうんだ」
 どうしたって隠しきれない好意が滲み出ている。目眩すら覚えて、太陰は後退りながら困惑した声を上げた。
「ちょっと正気?! なんで好きになれるの? あんた最初の夜あいつに」
「太陰!」
 慌てて玄武が太陰の口を塞ぐ。太陰はもごもごと抗議したが、玄武は彼女をしーっと制して、若干後ろめたそうに昌浩をちらりと目をやった。
 まさか紅蓮に一度殺されかけていたとは露ほども知らない昌浩は、幸せそうにはにかんでいる。
「助けてくれたから、ちゃんとお礼を言わなくちゃと思ってたんだ。――恩人だもの」
 誰が見ても、彼が心の底から感謝していることを悟れただろう。
 だから、太陰と玄武は口を噤むしかなかった。もし他の賢明な神将がこの場にいても、きっと同じようにしただろう――何故ならば。
 愛しむような、恥じらんだ笑みを、曇らせることは到底できそうになかったからだ。
 

◆◆◆


 渦巻く風の音が上空から接近してくる。
 六合は屋敷に被害が出るだろうか、と一瞬思案した。けれども、対処するには時間が足りない。彼が反応するより早く、次の瞬間には妖と神将が一人ずつ寝殿の屋根に放り出されていた。
「いった!」
「……太陰……」
「軟弱な男共ねえ、情けないったらありゃしないわ」
 一人風を纏って穏やかに降り立った太陰は、昌浩と玄武を見下ろしながらつんと顎を反らした。結界を創るのに四隅を回らねばならないと聞いて、張り切った彼女は時間短縮という名目で昌浩を竜巻に乗せたのだが、短時間乗っただけだというのに彼はへばってしまっていた。すっかり酔ったようだ。
「そんななりで晴明を守れるのか、天狐」
 青龍が冷たく睥睨する。ぐったりとしていた昌浩はむっとして、頭をもたげて彼を睨んだ。言い争いこそ起こらないものの、不穏な空気が場を支配していく。
 やれやれ、と己以外には誰も気付かない嘆息をついて、六合は口を開いた。
「吉昌の祈祷が終わったようだ」
 全員の視線が六合に集まる。気配を探ってみれば確かにその通りで、皆の意識は晴明より下された任務へと瞬時に切り替わった。
 玄武が屋敷の中を見透かすように目を細める。
「我と太陰、六合が吉昌に付いて一旦屋敷に戻る。その後昌浩を迎えに戻り、僧と凌壽の出方を見る、だったな」
 土御門殿の警護は青龍一人に任されることになるが、結界が張られた今はそれで十分だろう。それに、昌浩の言を信じるならば、今現在最も敵に狙われているのは中宮ではない。
 昌浩だ。
 僧は一番の障害である彼を真っ先に排除しようとするに違いない。そして凌壽は昌浩が弱らない限り動くことはないだろう。つまり今回晴明が昌浩を使ったのは、ただ結界を張ることだけが目的ではなく、彼を囮として僧を誘き出し仕留めることが真の狙いだったのだ。
 人間相手では全力を出せぬ神将たちはその補佐を。
 ――僧を殺すのは、昌浩でなくてはならない。

 太陰、玄武、六合の姿が掻き消えた。陰形した彼らの気配が遠ざかっていくのを感じながら、昌浩は我知らず、喉元に手をやっていた。

 じくじくと広がる痛みが、澱のように澱んでいた。

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