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 低く落とされた声に太陰が振り向いたとき、幼い天狐はすでに地上に降りていた。そのまますたすたと池のほうに進んでいく。
 その背が少し気になって、太陰は彼を視線で追った。
 あの新参の式を、太陰はそれほど嫌ってはいなかった。確かに最初こそ近寄りたがったが、いざ話しかけてみれば余程親しみやすい人柄であったのが理由だった。
 そして、何よりその霊気だ。
 天狐というからもっと恐ろしく冷たい霊気を放つものだと思っていたのに、ちっともそんなことはなかった。騰蛇のように震えが走るものでも、青龍のように落ち着きをなくすものでもない。彼の霊力は陽だまりのような暖かさを伴っていて、――そう、どことなく晴明に似ていた。
 ただ、あの夜の出来事だけは気になっていたけれど。
 ちらりと同胞たちを見やると、男三人は興味のない様子で思い思いの方角を向いていた。……太陰は他人の心を推し量る行為があまり得意ではない。だから、彼らが興味のないふりをしているのか、それとも真実好奇心を抱いていないのかどうかはよくわからなかった。
(面倒くさいったら、)
 唇を尖らせる。太陰はふわりと浮き上がると、手近な玄武の首根っこを掴んで飛び立った。ぎょっとした玄武が目を丸くしてじたばたと抗議する。
「何をするのだ太陰!」
「ちょっと付き合いなさいよね」
 昌浩はまだいくらも歩いていなかった。せいぜい数十歩といったところで、風将である彼女にとっては取るに足らない距離にしかすぎない。するすると彼の頭上に辿り着くと、昌浩は歩みを止めて太陰を仰ぎ見た。
 古びた赤い髪紐が風に揺れる。困ったような顔をして、彼は太陰に尋ねた。
「……なんでついてくるの」
「見学。いいでしょ?」
「はあ」
 太陰があっけらかんと答えると生返事が返ってくる。昌浩は再び歩き始めた。面倒くさそうな顔をした玄武を片手で引きずったまま、太陰は高度を下げてその隣に並んだ。
 天狐はのろのろと足を運んでいる。
 その愚鈍さがどうにも耐えがたく、ついつい太陰は突っ込んでしまった。
「なんで飛んでいかないの」
 昌浩が唇を引き結んだ。続けて「天狐なんだから、空を翔けるのだって易しいんでしょう」と問われ、ますます俯く。
 遠慮のない質問にとうとう観念したのか、少しののち、短く息をついて少年は答えた。
「俺は飛ぶのが苦手なの」
「それは……」
 太陰はちょっと押し黙った。それから彼女にしては珍しく、何というべきか言葉を探し、眉を寄せて、つっかえつっかえ、聞いた。
「天狐としては、珍しい、のかしら」
「……まあ、たぶん」
「ふうん……」
 居心地の悪い沈黙が流れる。誰もが何も言いださないものだから、しんとした空気は冷えたまま凝っていった。
 背がむずむずする。太陰は玄武を取り落とすと、もじもじと両手を擦り合わせ、脈絡なく大声を出したくなる衝動と必死に戦った。
 無論、衝動に任せていたらもっと取り返しのつかないことになると、彼女の勘が告げていたためだ。
 そのうち昌浩の素足が、土ではなく漆を塗られた木を踏んだ。大きく造られた池に架けられた橋の曲線、その上を行きすがら、天狐はわざとらしく声を張り上げた。
「俺があんまり下手だから、根気良く教えてくれた一族全員も匙を投げたよ。けどその後に風狸の友達に教わって、風に乗って飛ぶことくらいはできるようになったんだ」
「風狸? ……ああ、あのいつもへばりついてた」
「いつもじゃないよ」
 むっとした昌浩が言い返す。それを横目に、太陰は遠い昔、外つ国で見かけたことのある妖を懐かしく思い返した。
 風狸は狒々のような姿をしている大陸の妖だ。大きさは獺程度で、昼間は木の幹に張り付いて擬態している。夜になると山々を飛び回って蜘蛛や鳥などを食べていた。太陰が夜の空中散歩を楽しんでいると、彼女の巻き起こす風に乗ってよく遊んでいたものだ。彼らは風を読み風に乗るので、ずいぶん遠くまで滑空することができるのだ。
 玄武も風狸の事は見知っている。ああ、と相槌を打って、彼は何気なく呟いた。
「では風がないと飛べぬのか」
 昌浩の肩がぴくりと揺れる。反論は何もない。
 その挙動が肯定の意なのだと察して、太陰は腕を組んだ。
「なんだ、結局不便なんじゃない」
「……ひっどいなあ」
 ぷうと頬を膨らませて、昌浩が神将二人を振り返った。

 その表情は、外見相応に幼く。無防備で、柔らかかった。

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 「式になった」という天狐を紹介され、晴明の次男吉昌は、目を丸くして少年の形をした妖を見下ろした。
 たとえ希代の陰陽師と世に謳われる実父であっても、まさか伝承に聞く大妖をくだすことができるとは信じ難かったのであろう。彼は盛んに首を振って、「まったくあの人は」を零していた。
 そんな吉昌を、昌浩は面白そうに眺めて笑っていた。



 ――正午まで、あと四半刻ばかりを残す頃。
 安倍邸の表門前に一台の牛車が停まった。迎えの車である。
 吉昌が乗り込んだのを認めて、青龍と太陰、そして昌浩が車を囲む。当然ながら神将たちは陰形し、昌浩は人目につかぬよう力を抑えてでの同行だった。
 一目のありすぎる真昼間なら、凌壽も怪僧も襲いはしないだろう。ただ、万が一という可能性もある。一同の空気は終始張り詰めており、中でも酷かったのは青龍だった。気難しいこの神将はいつもにもましてぴりぴりと気を尖らせ、おかげで車中の吉昌は到着する頃にはすっかり気疲れしてしまっていた。
 式にくだってからの数日間、昌浩は幾人かの神将と会話したが、青龍とは一言も口を利いていない。吉昌とは少なからず同じ心持だったようで、彼は吉昌を気遣ってから、「いつもこうなの?」とこっそり太陰に耳打ちし、青龍に睨まれた。子ども二人で首を引っ込めていると、闘将三番手は忌々しげに舌打ちし、視線を逸らした。
 この神将にはあまり歓迎されていないようだな、と特に落胆することなく考え、しかし息苦しさに昌浩はため息をついた。牛車の屋根に腰かけて足を揺らしていると、童女の外見をした神将が宙を漂い、近づいてくる。彼女は今度こそ声を潜めて、昌浩に告げた。
「敵が出なかったから機嫌が悪いのよ」
「……そういうものなの?」
 聞き返すと、太陰はさらに声を低くして、さっさと敵をぶち倒したいの、と言った。
「その点はわたしも同感だわ。待たされてイライラするのは大嫌いだもの」
 まどろっこしいのが嫌いだ、と胸を張って言い放つ太陰に、昌浩はくすりと笑んだ。
 牛飼童が声を上げて牛を止める。立派な四足門の前に着けられた車から吉昌が降り、家司の案内を受けて衛士の間を通り過ぎる。
 その背を守るようにして、式神たちは表門をくぐった。
 途端、水の波動が肌に触れる。知っている神気に気付いて、昌浩は顔を上げた。
 何度か口を利いたことのある神気だ。太陰より幾許か年上の少年の姿をとっている神将、玄武のものだろう。
 先を行く吉昌を見上げると、彼は家司の目を盗んでちらりと目配せした。その意を察し、昌浩は吉昌から離れると陰形している式神たちに目を向けた。
 何もない空間から姿が滲み出る。陰形を解いた青龍と太陰は地を蹴ると、一跳びで三丈は離れた渡廊に飛び乗った。そのまま屋根を伝って神殿を目指していく。
 仲間たちはそこにいるのだ。
 土御門殿は玄武の結界によって守られている。その内に入っている今、もう吉昌の護衛は必要ないだろう。先ほどの目配せはそれを促すものだった。
 しかし、昌浩は注意深く気を這わせた。用心に次ぐ用心を重ねる。それはもはや習慣づけられた行為だった。
 いついかなる時でも、警戒の手を緩めてはならない。「絶対的な優位」などはこの世に存在しない。
 半世紀以上逃避行を続けた妖が見つけた、この世の真理の一欠。
 それを噛み締め、彼は睨みつけるように足を踏み出した。



「玄武! 六合!」
 風を使ってひらりと屋根に飛び移り、太陰は大声で同胞を呼んだ。長身の神将と子供の姿をした神将が大棟で応じる。太陰に続いて屋根に上がった青龍はぐるりと広大な庭を見渡した。同時に「異常は」と問う。
 六合は無言で首を横に振った。
「今のところ何もない。そちらは大丈夫なのか」
「晴明が起きだそうとしては叱られてるわ」
 逆に玄武が訊き返してくる。その答え、現状での唯一の不満を口にして、太陰は薄い胸を反らした。
「何かあったら大変なのに、どうしてああも無理に動こうとするのかしら。信じられない!」
 大人しく寝てればいいのよ、と小さな肩をぷりぷりと怒らせる彼女の言い分は大半の神将と同じものだった。だが、辛い要望でもある。太陰と青龍に遅れて寝殿に到着した昌浩は、神将たちの会話に口こそ挟まなかったものの、内心では晴明に同情していた。
 寝てばかりいては体が萎えてしまう、と茵に横たわって彼が嘆くのは毎日のことだった。過保護な神将が無理矢理寝かしつけるせいで、年老いた主はこのところ精彩を欠いているように見受けられる。少しくらい融通を利かせてもいいのではないか、と昌浩はひっそり思っていたが、進言はできなかった。
 不信されている己が口を出しても、むしろ神将たちは反発するばかりだろう。
 無用な争いは避けたかった。所詮昌浩は異物にすぎない。来るべき日が訪れ、無事にこの件が収まりさえすれば式からは離れるつもりだった。共闘するのだから仲違いする気もなく、別れゆく相手に無理に悪しき記憶を植え付ける必要性も感じなかった。

 なにより、彼らは晴明の僕だ。
 晴明の朋だ。

 十二神将を愛するには、それだけで十分な理由だった。
(それに、)
 ふと、昌浩はあの神気を思い出した。

 蒼い月光をはねのける真紅の神気――荒々しく力強い、燃え盛る焔。
 金色に煌めく美しい眸。
 初めて助けられた、あの瞬間。

 かっと頬が熱くなる。反射的に口元を隠して、来たばかりだというのに彼は神将たちに背を向けた。
 上擦りそうになる声を努めて抑え、平静に聞こえるように口を動かす。
「……結界、はってくる」
 音は、思っていたより素っ気なく響いた。
 気に留めなければいい――そう願って、彼は桧皮葺の屋根を蹴った。

 昌浩が式にくだり、数日が経った。
 土御門殿にかけられた呪詛の件はないものとして扱われ、ごくごく少数の者だけがその事実を知ることになった。けれど中宮の体調は相変わらず思わしくなく、快復しない。未だ呪いがかけられているのでは、と中宮の父、左大臣藤原道長が晴明に文を寄越したが、晴明の見立てではただの気鬱だろうとのことだった。
 土御門殿に配されている神将たちの目から見ても、それは間違いない。
 そして、晴明たちが懸念している敵の攻撃も、以前訪れないままだった。
 

◆◆◆


 晴明から借りた陰陽道の書を文台に丁寧に広げて、昌浩と彰子は二人して覗きこんでいた。遊びで読むようなものではないが、常から興味を示していた彰子に晴明が貸してくれたのだ。
 彰子は藤原家の息女だけあって漢文もすいすいと読みこなせる。妖である昌浩も、いつどこで覚えたのかは知らないが一通りの文字を知っており、文法も把握しているようだった。加えて陰陽道は本来大陸の思想を基礎とし発展したものであるために、大陸から渡ってきた彼には理解しやすいもののようであった。
 それでも、さすがに梵語までは理解しきれない。昌浩は頭を捻りながら頁を繰って、文をなぞった。
「だからね、たぶんこの部分がそれぞれの方位の不動明王を指すんじゃないかと」
「……どうして違う言葉で言わなきゃだめなのかしら。この国の言葉で言ってはいけないの?」
「…………。どうなんだろ。通じるとは思うけどなー、相手は神仏だし」
「じゃあなんでなのかしら」
「なんでだろ」
 むう、と二人で考えこんでいたその時、かたりと妻戸が鳴った。開いた先から顔を覗かせたのは童女の姿をした神将、太陰である。
 彼女は振り返った昌浩の黒瞳を見据えると、静かに呼びかけた。
「晴明が呼んでるわ。至急だって」
 彰子には、それが何を意味するのかはわからなかった。ただ直感的に不安を感じて、傍らの昌浩を見上げた。
 ――彼の眼差しは、ひどく硬質化して、彼方を見据えていた。
 気配が鋭く研ぎ澄まされていく。つい先程まで在った陽だまりのような存在感が、抜き身の刃の煌めきに塗り潰されていく。
 背筋を氷塊が滑り落ちていく感触に、彰子はおもわず昌浩の手を取っていた。
「昌浩?」
 少年ははっとして、少女の大きな瞳を見返した。眉が気まずげに下がり、それから、そっと少女の手が握り返された。
「大丈夫だよ、彰子」
 やわらかい微笑みとともに、昌浩は告げた。
「仕事に行ってくるだけだから」
 指が離れていく。
 太陰に連れられて妻戸をくぐる昌浩の背を、彰子は言葉もなく見送った。
 

「何の御用ですか」
 晴明の部屋に入るなり、昌浩は開口一番に尋ねた。
 単衣に袿を羽織っただけという姿の晴明は珍しく茵を出、文台の前の円座に座している。部屋の中に十二神将の姿はなく、気配もない。案内してきた太陰も到着するなり姿を消した。つまりここには今、晴明と昌浩の両名しか存在していない。まったくの二人きりだった。
 老人は文台の上の文をたたむと、己の息子の部屋がある方に頭を回らした。
「正午を回ってから、吉昌が土御門殿に赴き中宮様の快癒を執り行うことになった。あなたには吉昌の警護と、結界の再度の結びをお願いしたい。青龍と太陰が同行します。よろしいかな」
「わかりました」
 少年はすぐさま首肯する。――が、彼はその場を動かなかった。
 ほんの僅かの躊躇いの後、唇が開く。
「僧が……出てきたら、どうしますか」
 極力感情が排された声音が続いた。
「殺しますか。それとも捕らえたほうがいいですか」
「余力があれば」
 対して、晴明の声はいっそ優しかった。
「捕らえることもできましょう。ですが、今は全力で排除すべきかと」
「……そうですか」
 昌浩の瞼が固く閉ざされる。ややあってから現れた双眸に、彼は曖昧に微笑を乗せた。
「まだ一刻ありますね。……晴明、書を貸してくれてありがとう」
「いえ、彰子様も楽しんでおられるようでなによりです」
 あれほど楽しそうな彰子の姿を、晴明は見たことがなかった。元々闊達な性格の姫だったが、窮奇の呪詛を受け安倍の家に移ってからは時折沈んだ様子を見せていた。それが、こうも簡単に拭い去ることができるとは考えもしなかったのだ。
 すべて、昌浩が彰子と接するようになったおかげだった。
「――しかし、あなたが陰陽道に詳しいとは思わなかった」
 言うと、天狐は虚を突かれたように目を丸くして、落ち着きなく視線を彷徨わせた。
「詳しくなんて……ないです。かじったくらいで」
「どなたかから習ったのですか」
 思いもかけず生まれた疑問を、晴明は驚きとともにぶつけた。漏れ聞こえる限りで、彼が陰陽道の基礎を理解していることは判明していた。妖であれば、そんな機会はないはず。たとえ天狐であっても同様だ。
 では、なぜ彼は知っているのか。
 少年は困ったように眉尻を下げた。答えはなく、そして、それこそが答えだった。

「じゃあ俺の手伝いはここで終わり。彰子は皆のご飯を作ること」
「はい」
 目元がほんの少し赤くなっていたが、昌浩は指摘しなかった。彰子は微笑みを取り戻し、美しく可憐な華に戻っている。
「ここの戸締まりはしておくから、行っておいで」
「うん。また後でね、昌浩。ありがとう」
「どういたしまして」
 ひらひらと手を振る昌浩に見送られて、彰子は母屋に帰っていった。彼女に付いていた神将たちも一緒に離れていく。と、片方の神将が陰形を解いて廊に姿を見せた。
 長い金の髪が美しい、女性の神将だ。
 彼女はやんわりと笑むと、昌浩に向かって一礼した。昌浩がまごついて瞬きしていると、すぐにその姿が掻き消える。
(……お礼だったのかな)
 特に何も考えないで会話してたら話の流れでこうなっただけだったんだけど。
 一人塗籠で照れくささを味わう。――その時だった。不意に胸に差し込みを覚え、昌浩は顔を歪めた。
 彼にしか聞こえないぎちぎちという音が、心臓の周りでうねっている。
 響く根の音に縛られ、呼吸がし難くなる――胸を押さえ、じわりと汗を滲ませ、昌浩は途切れそうになりながらも意識の集中を始めた。
 ゆっくりと、低下していた霊力を高めていく。高まりと共に音が静まり、同時に締め付けも緩んでいく。
 だが、完全に無くなったわけではない。
 痛みが治まったことを確認する。昌浩は額の汗を乱暴に拭って身を起こした。
 喉に触れる。悔しさに、思わず唇を噛んだ。
(……近くに、留まるからだ)
 この身に残留している凌壽の妖気が主に呼応し、宿主の力を削っている。
 こんなに長時間、奴が側にいたことはなかった。おそらくこれからは、さらに霊力が削られていくに違いない。
 そして霊力が低くなれば、アレがこの命を蝕もうとするのだろう。
 まったく、厄介事ばかりだった。だが悲しいことに、昌浩は厄介後にすっかり慣れ切ってしまっていた。
 ――しかしそんな彼でも、動揺する厄介事はまだこの世に存在していたのだった。
 突如鮮烈な神気が存在を主張する。顕現した神気に息を呑んで、昌浩は戸口を振り返った。
 赤い髪に浅黒い肌――額を飾る金冠。
 美しく煌めく金の瞳。
 力強い神気が肌を打つ。その感触に陶然としながら、昌浩は最初の夜のことを思い返していた。

 初めて助けてくれたひとだ。
 そして、目覚めたとき一番近くにいてくれたひと。
 あまりに色んなことがありすぎて碌な反応も会話もできなかった。けれど、落ち着いた今ならちゃんと話ができそうな気がする。

 どぎまぎしながら、感情の赴くままに昌浩は話しかけていた。
「えっと……あの。この前はありがとう」
 神将が眉を顰める。言葉の意味が掴めずに沈黙する彼に、舞い上がってしまった昌浩はもじもじと続けた。
「凌壽から助けてくれて。感謝してる」
「……俺はただ、晴明の命を遂行しただけだ」
「うん、分かってる。でも俺が助けられたのは事実だから」
 ぺこりとお辞儀する天狐に面食らったのか、神将は不可解なものを見る目で子どもを見下ろした。
 その視線は氷でできた刃のように温度を無くして冷たい。なのに昌浩はそんな低温など感じていないのか、まっすぐに神将を見上げていた。
 ――天狐故にか。
 皮肉が口端を微かに持ち上げる。子どもは気付かない。
 凶将騰蛇――紅蓮は眦を鋭くして、天狐を見据えた。
「お前のその傷」
 口を開いた瞬間、天狐の顔色がさっと変わった。みるみる青褪めていく幼い顔を、紅蓮は無感動に眺める。
「致命傷だったはずだな」
 天狐が頭を振る。彼は小さく、やめてと呟いた。
 紅蓮は聞こえないふりをした。天狐の心情など、紅蓮は一顧だにしなかった。

 首の傷。
 包帯に隠されたそれは大きな裂傷だった。まるで刃物に裂かれたような、左から喉笛を真一文字に断たれぱっくりと裂かれたはずであろう傷痕。それはおそらく過去に、柘榴が割れるような真っ赤な断面を晒したはずだった。
 けれど今では、赤く盛り上がった皮膚が光を弾き、彼の細頸に半円の印を付けるに留まっている。
 天狐であっても死んだであろうはずの一撃――それを受け、何故この子どもは生き延びているのか。
 その理由があの燐光にあるのだとしたら、紅蓮は主のためにどうしても聞き出しておかねばならなかった。
 晴明の近くに危険分子を置いておくわけにはいかない。
 強まる詰問の気配を敏感に察知して、天狐が俯く。さらに強引に聞き出そうとして紅蓮は一歩を踏み出した。
 ――途端、ばちんと呪縛が全身に絡みつく。
「………!?」
 ぎょっとし、動きの止まった紅蓮の横を黒い影が駆け抜けた。紅蓮に霊縛をかけた昌浩は塗籠を飛び出し、一目散に逃げ出していく。舌打ちして紅蓮は術を解こうと神気を発しかけたが――たった百年しか生きていなくともさすが天狐というべきか。霊縛は紅蓮が屋敷を焼くか焼かぬか、ぎりぎりまで神気を引き絞らねば解けぬように調整されていた。
 なんとか解いた頃には、もう天狐は姿を晦ましている。
 一本取られたことに紅蓮が渋面を作る。――だが、彼はしばしののちに異界へと姿を消していった。
 

◆◆◆


 都の外れで、凌壽は遠くの気配を探っていた。強靭な結界の中の、そこそこ大きな霊力――感じるのは久方ぶりだ。この数十年、あの子どもは晶霞と同様気配を断って行動してきた。何かの拍子に霊力を駆使しない限り、凌壽が彼らを見つけることは難しい。それを、こうも無防備にさらしているとは――
「……あの爺と協力する気か」
 大木の枝に腰かけ、妖孤は少し驚いた。子どもの性格からして、あの餌と行動を共にするとは思っていなかったのだ。アレは大事なものほど遠ざける傾向がある。それに餌が見つかった今、アレは爺へ手出しされるのを恐れ、独りきりで自分を迎え撃つものと思いこんでいた。
 だが、今弱っているくせに気配を隠さないでいるのは、そういうことなのだろう。
(ということは、あのうるさい蠅どもが増えるということか)
 老人の配下、十二神将。
 それぞれを撃破するのは容易そうだが、群れると厄介な存在になりそうだ。こちらは一人――多勢に無勢。十二と一人を相手にするのは、流石に骨が折れる。
「せいぜい、丞按に頑張ってもらうことにするか……」
 灰色の双眸を眇めて、凌壽は独りごちた。

 哀れな人間。死ぬのならば、己の役に立ってから死ぬといい。

「いけない! 夕餉の支度の時間なのに」
「あ……ごめん」
「ううん、昌浩が悪いんじゃないの」
 少女は慌てて立ち上がり、名残惜しげに昌浩を見つめた。控え目な微笑が昌浩の眼に飛び込んでくる。
「また後でお話ししましょうね」
 言い置いて、彰子は裳裾を翻した。だが、母屋へと向かうその足が、「待って」という一言に引き留められる。
 彰子が振り向くと、昌浩は高欄をよじ登って簀子に降りるところだった。
 埃を乱雑に払うと、幼い妖はにこりと笑って、悪戯っぽい視線をこちらに向けた。
「手伝うよ」
「えっ、でも……」
 虚を衝かれた彰子の手が取られる。陰形した神将がざわりと空気を震わせた。
 さっと彰子の顔が赤らむ。気付いているのを隠しているのか、それとも全く気付いていないのか、昌浩はそれらを全て無視して手を引いた。
 みるみるうちに彰子の頬が朱に染まっていく。生まれて初めて異性と手を繋いだ彼女は、高まっていく鼓動を抑えきれずに微かに震えた。
「つ、露樹さまは見鬼じゃないから不思議に思われるわ」
「ばれないようにやるよ。それに彼女は陰陽師の妻だから多少のことには動じないって」
 どぎまぎする胸を宥めながら言いつのったのに、昌浩は事も無げに反論して進んでいく。あれよあれよという間に二人は厨に着いて、彰子は昌浩と手を繋いだまま露樹に姿を見せた。
「ああ彰子さん、よかった。頼まれてくれるかしら」
 温和そうな女性が微笑んで、床に置かれた木箱を指し示した。
 吉昌の妻、露樹だ。彼女は見鬼ではなく徒人だから、昌浩を見ることはできない。その証拠に、至近距離に妖が存在しているにも関わらず彼女は昌浩に気付かないままだった。
「使わない器を塗籠に仕舞ってほしいの。ごめんなさいね、わたしは手が離せなくて」
 言って、露樹は竈を振り返った。煮炊きをしている最中なのだろう、湯気と共に火の粉がぱちりと弾けた。
 彰子も笑顔で了承する。
「かまいませんよ」
「少し重いかもしれませんから、気を付けてくださいね」
 木箱は二つあった。彰子が片方を抱えてみると、確かに重い。だが支えきれないほどではなかった。
 昌浩ももう片方を持ち上げる。彼は目配せすると彰子を誘った。
「行こう、彰子」
 露樹に気付かれぬよう小さく答えるだけに止めて、彰子は彼の背を追った。
 昌浩は慣れた足取りで板張りの廊を進んでいく。いつ知ったのかまっすぐ塗籠に向かい、先に扉を開けて彼女のことを待っていた。
 室内に誂えられた棚に箱を載せ、追いついた彰子の手からもう一つを受け取ろうとする。彰子はちょっと迷ってから、彼の両手に木箱を渡した。
「わたしじゃ一度に二つは運べなかったわ。変に思われないかしら」
「心配性だな彰子は。平気だよ、もし聞かれたら暇そうな式が手伝ってくれたって言えばいい。本当のことだし」
 見えないからって何も信じないわけじゃないよ、と優しく諭され、彰子は俯いた。
 昌浩の言うとおりだ。露樹は霊的なものを感じ取ることこそできないものの、陰陽師の妻であり、陰陽師の母であり、陰陽師の義娘なのだ。配慮する必要はない。
 けれど、彰子は「でも」と呟いた。
 自分自身でも理解できぬ突発的な衝動に襲われ、彼女は無意識に口走っていた。
「――でも、楽をしたなんて思われたくないの」
 はっと口元を押さえ、彰子は昌浩を見上げた。
 口にしてから狼狽する――こんなことを言うつもりはなかったのに。
 昌浩は目を丸くしていたが、やがて表情を緩めた。腕が伸び、そっと彰子の肩を叩く。思わず彼女は肩をはねさせてしまった――だけれど、怖いわけではなかった。
 彼女はただ、動揺していただけだったから。
「彰子は、預けられてどのくらいになるの?」
「……半年と、少しくらい」
「露樹はよくしてくれる? 安倍の家の、みんなは」
「してくれるわ」
 彰子は口早に答えた。嘘偽りのない、真実を。
 なのに口にした瞬間、つんと鼻の奥が痛んだ。
「みんな優しいの。優しくて……申し訳ないくらい。わたし、置いてもらっているのに」
 呪詛を受けて穢れてしまった彰子を救ってくれたのは晴明だ。彼女の呪詛を凍てつかせるため、安倍の家の者は一生彼女のそばにいなくてはならない。
 束縛しているのは、彰子の方だ。
 だから、せめてもの恩返しとしてきちんと働きたい。少しでも助けになりたい。それが、自分の義務だと考えていた。
 昌浩がゆっくりと頷く。
 彼は深い夜闇の眸を合わせて、彰子を覗き込んだ。
「負い目があるんだね」
「そんなこと……!」
 咄嗟に反論しかけ、しかし彰子の声は途中で力を失った。
 心の内で自問する。――そう、彼の言うとおりだ。
 わたしは負い目を感じている。
 己が周囲の優しさに値する人間かどうか、いつも考えている。
 厭われるのが怖い――嫌われるのが怖い。
 嫌われたら最後、居場所を無くしてしまう気がして。
 喉が引き攣れる。明確な形をもって顕わになった真実が、掘り起こされて眼前に突き付けられる。
 気付かないふりをして目を逸らしていた己の浅ましい欲に眩暈がした。
 護衛に付いていてくれた朱雀と天一の神気が動揺している。聞かれてしまったのだろう――きっとすぐに晴明の耳に入るに違いない。幼い頃から力になってくれた、まるで祖父のような老人。一番頼りにしている彼を、失望させてしまうのだろうか。
 まるで足下が掬われて、空に踏み出したようだった。
 震えが走る。縋るよすがを探すように、惑った指先は袂を握り締めた。
 その時、あたたかい指先が手の甲に触れる。彰子はいつの間にか伏せていた面を上げ、間近にある一対の黒瞳に見入っていた。
 やわらかな闇がすっと細くなって、笑う。
「俺にもあったよ、負い目」
「え……?」
「いや……今でもある、のかな」
 苦笑して、昌浩は頬を掻いた。片手を彰子に触れさせたまま。
「俺の行動原理は、その負い目から作られてた。今でもまだ引きずってるのかと聞かれたら、多分答えは是なんだろう。だけど……だけどね、彰子。
負い目だけでは、生きていけないんだ」
 ひどく優しいと同時に、どこか厳しくもある声音だった。
「そのうち、彰子は負い目じゃない理由を見つけるよ。その理由で、この家で生きていける。それがどのくらい先のことになるかは分からないけど、きっと見つかる。一月かもしれない、一年かもしれない、もしかしたらもっとかかるかもしれない。だけど、俺は断言できる。君は、絶対にその理由を見つけるよ」
 夢見るように彼の言葉を受けていた彰子は、呆然と呟いた。
「……本当に?」
「もちろん! 天狐の名に懸けて誓うよ」
 そして彼は付け加えた。
「晴明と彼の家族を信じてあげて、彰子」
 彼らの好意には、信頼で報いてほしい。
 最後に格言めいた語を厳かに述べて、昌浩はにっこりと笑った。
 その眼差しがあまりに優しくて、涙が零れる。
 ぽろぽろと真珠が滑り落ちた。急いで目頭を袂で押さえた彰子は、塞いでしまった喉を元に戻そうと深呼吸する。そんな彼女の頭を、昌浩がゆっくりと撫でた。
 優しい仕草が外見を裏切って、彼が遥かに年上であることを実感させる。
 ――やがて彰子の呼吸が落ち着いた頃、昌浩はそっと身を離した。
「さあ、そろそろ行かないと」
「……どこまで道草を食べに行ってたのかと思われるかしら」
「どうかな。分かんないや」
 ふふ、と昌浩が吐息を漏らした。

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