何故、昌浩は晴明の式にくだったのか。
真実を知れば、答えは自ずと明らかになった。彼はその身を守らなければならないが、逃亡が許されない。力が劣るのに防御に回らねばならない。圧倒的に不利な状態に置かれている。
そのために、盾が必要だった。
式にくだることで、彼は十二神将という盾を手に入れたのだ。
「案外狡猾な奴だな。さすが狐」
高欄に腰かけていた朱雀が、昨晩の顛末の分析を聞き終わり鼻を鳴らした。白虎の風によってあの会話は十二神将全員に中継されていた。その場にいない者でも新しく式になった妖のことを聞いていたのだ。
天一がそっと恋人に寄り添う。その肩を抱いて、朱雀は姿の見えない天狐を思い返した。彼が見たのは、力無く目を閉じて自失している姿だけだったが、敵意を向けない理由には成り得なかった。
けれども、「そうでしょうか」と疑問を挟む者もいた。
「騰蛇と勾陣の話を聞く限り、彼は当初こちらに干渉することを嫌がっていた。くだったのは我々が束縛したからで、巻き込むつもりはなかったのでしょう」
青空を見上げながら、穏やかに太裳が意見する。昌浩を直接視認している彼には、あの幼い天狐が邪悪な者だとはとても思えなかった。むしろ、無理をして提案しているようにしか見えなかった。
が、その場にいる最後の一人、青龍は冷たく断じた。
「結果的には同じことだ。あれは俺たちを利用している。ならこちらも最大限利用すればいい」
「青龍、過程は重要です。結果に至るまでの道のりも評価してしかるべきものですよ。結果ばかり見ていては、心が貧しくなってしまいます。悲しいことです」
「……貴様は本当に俺を苛立たせるのが上手いのだな」
「はい?」
太裳がきょとんとして首を傾げる。青龍の堪忍袋が膨らんでいくのに天一はおろおろとしていたが、不意に何かに気付いた様子で「あ」と声を上げた。
「天貴?」
「あそこに」
指し示した先には、枯れ果てた桂の木と、
その根元で立ち尽くす、小柄な妖の姿があった。
幹を撫でる。がさがさした表皮からは、命の欠片は感じられない。
だが、この樹はもっと生きるはずだった。昌浩は覚えている、この場所にあった若木のことを。彼がずっと大きくなる頃には、腕を回すこともできないだろうと想像していた、若く新しい命を。
だのに、自分が奪ってしまった。
深く追憶を吐き出し、昌浩は力を込めた。
温度の無い焔が発現する。限定した対象以外はけして燃やさない、白い狐火。それが朽ちた樹に燃え移り、物質の結合を解いていく。
塵は塵に。
灰は灰に。
空気に溶け、土に還っていく桂だったものにはもう触れることはできない。昌浩がほどいてしまった。
そして、まもなく彼も同じものになるのだ。
思考に埋没していた昌浩の意識を、ふと、何者かが叩く。振り返ると、屋敷の簀子に一人の姫が佇んでいた。
昌浩とそう見た目の年が変わらない、美しい髪の少女だ。
誰だろう。昌浩は瞬きした。今自分は見鬼でも判らぬほど気配を薄くしている。視認できるのは力の強い化生のものと、晴明のような強い見鬼だけだ。姫はしっかりと昌浩に焦点を合わせている。ということは、少女は晴明の血縁者……孫娘なのだろうか。
あまり彼女には似ていないが、では彼はこんな美姫を生む血筋だったのかと、昌浩は首を傾げた。
興味を覚えて近付いていくと、姫は臆することなく昌浩を見返してくる。なかなかに度胸もあるらしい。神気が二つ、陰形したままするすると彼女のそばに控えた。昌浩の知らない気配だ。十二神将全員を紹介されたわけではないので、昌浩の知る神将は少ない。積極的に知ろうとしてもいないので、これは当然だった。
神気の片方、炎の波動を発する神将が冷たい隔意を示してくる――昌浩は微笑した。
自分が晴明の血縁を傷付けるわけがないのに。
「こんにちは」
「こんにちは」
少女は目を丸くして返事をした。
「あなたはだあれ? 妖?」
「俺は昌浩。昨日の晩から晴明の式をやってる」
「晴明さまの?」
おや、と昌浩は目を瞠った。この姫は晴明の血縁者ではないのか。
「君は?」
「わたしは彰子。――わけあって、安倍の家にお世話になっているの」
やはりか。こんなに強い霊力を持っているのだから、血縁かと思ったのだが。
高欄の近くまで寄ると、彰子は身を屈めて目線を近くした。ずいぶんと妖に慣れている。それに、普通と違って奔放そうな姫だ。
その時妖気が神経を掠めて、昌浩は微かに顔を歪めた。
出所は目の前の少女だ。周囲の神気や霊力に紛れてほとんどわからないが、重たい妖気が彼女の体内で凝っている。
(呪詛か)
得心がいって、彼は密かに頷いた。誰がかけたか知らないが、強い呪いだ。晴明をそばに置くことで、彼女の命は保たれているのだろう。
生まれついて霊力が高いせいで、災難を被ってしまったのか。
一生消えることのない呪詛を若い身空で刻まれ、彼女は生きていかねばならない。
昌浩は心臓を押さえた。――解決する手段は、なくもないけれど。
「……彰子は、いくつ?」
微笑みを取り戻して尋ねると、彰子は無邪気に答えた。
「十三よ。昌浩は?」
「百は超えたけど忘れた」
「まあ、晴明さまより年上なの」
「妖だもの。けど、俺はまだ子どもだな」
化生としては、昌浩はまだまだ若輩だ。そこらの雑鬼より年下になる。それなのに高い霊力を有しているのは、ひとえに生まれが良かったからにすぎない。
彰子が嬉しそうに身を乗り出した。傍らの神将が動揺して、気配を歪める。それに気付かないふりをして、昌浩はほんの少し後ろに下がった。
「ねえ、お話ししましょう? お友達になりたいわ」
「……いいよ。俺でよければね」
「よかった!」
昌浩は少々迷ったものの、彼女の申し出を受け入れた。姫が手を叩いて喜ぶ。神将の動揺には気付いていないらしい。
どんどん変な心配をかけさせていることに罪悪感が沸くものの、まあ、どうにかなるだろうと楽観的に結論付けて、彼は一応一定の距離を保ったまま、彰子の言葉に耳を傾けた。
「昌浩、どうしてさっきは樹を燃やしていたの?」
「あー……」
てらいの無い質問に、一瞬口ごもる。昌浩はしぶしぶ白状した。
「あの樹枯らしたの、俺だったから」
「えっ」
「不慮の事故で。それで、いつまでもあのままにしておけないだろう? 倒れたら危ないし、……目覚めも悪いから、さっき晴明に許しをもらってやったんだ」
「そうだったの……」
口元に袖を当てて、彰子がため息をついた。
朝起きたら枯れていたから、びっくりしたの。晴明さまは不吉の予兆ではないので心配なさらずに、とおっしゃっていたから気にはしていなかったんだけど……。
そう言って、彼女は桂の生えていた箇所を見やった、その時だった。
「彰子さん?」
温和そうな女性の声が遠くでし、彰子ははっとした。
室内に踏み入ると、件の天狐は礼儀正しく茵の上に正座していた。
見張りを任せていた紅蓮はすでに立ち上がり、隅に移動している。神経を尖らせつつも明後日の方向を向いているのは、晴明の背後に控えている青龍と視線を合わせぬためだろう。それでも陰形しないのは、おそらく、ひとえに晴明の身を案じてのことだ。対する青龍も刺々しい気配を隠そうとしない。入口に控えた白虎は呆れているようだった。晴明もまったく同感である。こんな時にまで仲の悪さを露呈せずともいいだろうに、この二人は本当に懲りないのだ。
陰形している勾陣はわからないが、青龍にくっつくようにして付いてきた太裳だけは、一人場の空気を読まずにのんびりと微笑んでいる。少年の姿をした妖は、神将たちを見渡してから、少し戸惑ったように晴明を見上げた。その仕草は外見通り幼く、ともすれば、奇異なる力を持つ異形にはとても思えないものだった。
子どもの正面に太裳が円座を差し出す。それに腰を下ろすと、晴明は深く頭を下げた。
「まずは、謹んで御礼申し上げまする」
きゅ、と妖孤は唇を引き結んだ。
「昨夜は我が式神の窮地を救ってくれたとのこと。また中宮様の呪詛をお解きになられたとの由、本来ならば私が処理いたしまするところをお手数掛けさせてしまったようで、誠に申し訳ありませぬ。さて、」
そこで晴明は顔を上げた。強い意志を秘めた瞳が、辺りに満ちた全ての霊力を跳ね返すように真っ直ぐ見返してくる。
「凌壽とは何者なのか、お尋ねしてもよろしいかな」
沈黙。天狐は何も答えない。晴明は畳みかけた。
「我が式騰蛇と勾陣が僧の妨害に遭った時、貴方は僧の持っていた髪を指して“凌壽のもの”と断じた。僧はその凌壽と繋がっている。その上、凌壽は貴方の命を奪うため私を狙った。――私はすでに、貴方がたの闘争に巻きこまれている。説明を求めてもやぶさかではありますまい」
天狐が目を伏せ、細い指で衣の裾を握りしめた。
揺れている。
晴明が勾陣から得た情報は以下の通りだった。僧は中宮章子を狙っていること。僧は天狐凌壽から力を得ていること。天狐凌壽が昌浩をおびき出すため、晴明を邪魔に思う僧に手を貸したであろうこと。昌浩は争いに晴明を巻きこみたくないと考えていること。だが、これだけでは情報が少なすぎる。身を守り、中宮の安全を確保するためには、より正確で詳しい情報が必要だ。
天狐は霊格の高い強力な妖だが、幸いこの子どもは弱っている。十二神将全員でかかれば逃げおおせることはかなわないだろう。
やがて天狐は疲れを滲ませた溜息をついた。黒瞳にちらりとよぎったのは、かすかな苦渋と戸惑い。けれど現れたのは刹那の時に過ぎず、子どもは再び、全てを飲みこむ闇色の双眸を晴明へと戻した。
「……知っていることを話してもいい。ただ、条件がある」
「条件ですか」
「そう」
体を硬くする晴明と十二神将たちに、天狐は思いがけない一言を発した。
「俺を貴方の式にして頂きたい」
「――!」
思わず絶句する一同を見渡し、天狐は静かに続けた。
「それができないのなら、力ずくでもここを出て行きます。もちろん俺もただでは済まないけれど、幾人か屠るくらいはできる。――どうですか。貴方がたにとっては悪い条件ではないはずですが」
感情を抑えた瞳からは何も読み取ることはできない。動揺から駆け足になる心臓をなだめながら、晴明は天狐の意図を探った。一見こちらばかりが優位な条件に見えるが、おそらくそうではないのだろう。彼には別の目的があり、それを優先した結果がこれなのだ。神に匹敵する力を有する妖が、人の式にくだってまで成し遂げたい目的。それは一体何なのか。今問いつめても、天狐は答えないだろう。しかし、一旦式にくだしてしまえば、いくらでも情報は引き出せるのだ。
考えこむ晴明を神将たちが窺う。紅蓮は睨むように、勾陣は無表情に、青龍は苛ただしげに、太裳は眉宇をひそめて。
編まれる緊張の糸を引き千切ったのは、やはり、十二神将の主だった。
「いいでしょう。その条件、お受けします」
言い終わると同時に、天狐が床に手をつき、深々と頭を垂れた。晴明がその肩に手を置き、式にくだすための呪を唱える。長い呪が終わり、天狐が顔を上げた時、その顔には静謐な微笑が湛えられていた。
「凌壽は一族を滅ぼした裏切り者だ」
たんたんと語られる顛末には、一片の感情も混じっていなかった。
「百年近く前、あいつは九尾という大妖の軍門にくだった。俺たち天狐の一族は大半が死んで、何人かがこの国に逃れてきたんだ。けど凌壽は九尾の命で、生き残った者たちも狩り尽くそうとした」
そこで彼は微かに溜息をついた。
「結局今生き残っているのは、俺ともう一人、晶霞という名の天狐の二人きりだ」
「それで、何故晴明が巻きこまれる」
不機嫌に青龍が口を挟んだ。射殺しそうな眼光を子どもに突き刺している。子ども――昌浩はそっぽを向いて、拗ねたような声を出した。
「天狐は眷族の危機を見捨てることができない。この地に血を引く人間がいることはわかってたから、凌壽が目をつけて餌にしないよう、俺は都に注意が行かないようにしてた。……まあ、ついに見つかったわけだけど」
一か月前土御門殿で晴明は倒れた。あの時感じた視線は、おそらく凌壽のものだったのだろう。晴明が発見されたことを感じ取った昌浩は、思惑を承知で駆けつけてきたのだ。
「あの僧の考えは知らないけど、凌壽がどうして奴に協力しているのかくらいは想像がつく。自分の体力を削ることなく俺を弱らせたいんだ。確実に勝つために」
「……その割には、昨夜は手酷くやられていたようだったが」
「守る戦いは、あんまりしたことがなかったから」
紅蓮の指摘に気分を害することなく、彼は答えを返した。
囮としての戦いしか経験していないのでは仕方がなかっただろう。それに、二体の天狐の通力の差はいかんともし難がった。昌浩独りで凌壽を打ち負かすことは絶対にできず、ならば、自然彼が守る以前に逃亡する戦いを選ぶのは必定だった。
次いで晴明が尋ねる。
「もう一人の晶霞という天狐は何をしているのですか? 貴方と同じように都に現れてもおかしくないのでは」
「近くには来ていると思う。けど晴明、貴方が凌壽に直接狙われない限り、彼女は姿を見せない」
それまで黙っていた太裳が口を挟んだ。
「貴方を助けには来ないのですか。どうして、」
数拍の呼吸を置いてから、昌浩は疑問に答えた。
「そういう誓約をさせたからだ。たとえ俺が死んだとしても来るなと、血に誓わせた。俺の役目は凌壽を引きつけることだから」
上げられた蔀戸の向こうに、昌浩は目をやった。
薄く欠けた月読が、蒼い夜空に浮かんでいる。
冷たい月光は今夜も変わらずに、大地を薄明るく照らしていた。
「あと一月待てば晶霞は凌壽に打ち勝つ力を手に入れる。凌壽はそれを阻止するために俺を殺して力を奪うだろう。そうすれば、全快した晶霞を凌ぐ力を得ることができる。あいつの狙いはそこなんだ」
この国の日差しは、大陸よりも優しい。
翳していた人差し指に、白い蝶が一匹、ひらひらととまる。驚かせないようにそっと指を下ろし、彼は抱いていた赤ん坊に蝶を見せた。
「セイ、ほら、蝶々だよ。可愛いね」
赤ん坊は黒い瞳をくりくりと輝かせた。好奇心そのままに、包まれている袿の中から手を伸ばす。慌てて彼が蝶を放すと、すぐに眉を寄せて不満そうな声を上げた。
「駄目だよ、潰れちゃうから」
諭しても赤子に理解できるはずもない。じたばたと腕を振り回す赤ん坊を揺すって宥めながら、彼はため息をついた。
「あうー」
「はいはい、困ったな……」
初めての子守だから、勝手がわからない。早く戻ってこないかなあ、と半泣きになりながらあやし続けていると、背後から優しげな声がかかった。
「――尾花」
「あ」
振り返る。とても大好きな人がそこにいて、幸せそうに笑っている。
頬がひとりでに熱くなるのを感じながら、彼はその人の名を呼んだ。
「おかえりなさい、――……」
◆◆◆
そこで、目が覚めた。
そろそろと、詰めていた息を吐き出す。両手で顔を覆い、眼底に強く力を込める。何度も見た夢、何回も繰り返す結末。定められた終わり。
また名を呼べなかった。
わかっている。彼は何十年も前に死んだのだ。島国を転々としている間に流れた年月は長すぎて、死に目には会えずじまいだった。彼はただの人間で、ずっと早くに死ぬことなどわかりきっていたはずなのに。
でも、せめて、彼の最期くらいついていてやりたかった。
夢の中でくらい、名前を呼びたかった。
嗚咽を無理やり飲み込む。喉が痛み――彼はふと、認識した。
周囲に点在するいくつもの神気を。
「――――!!」
零れ出ていた涙を拭うことも忘れ、跳ね起きる。自分の置かれた状況にやっと気がついたのだ。
寝殿造りの屋敷の一室で茵に寝かされていたということに。
(外に)
逃げなきゃ、と混乱したままの脳が囁く。立ち上がろうとして――胸を強く押され、昌浩は再び茵の上に転がった。眼前で大気が揺らめき、一瞬で結像する。顕現したその姿を、押さえこまれた昌浩は呆然と見上げた。
昨夜助けてくれた神将だ。
「逃げるな」
焔とは正反対の冷たい声が、昌浩の頬を打った。
「お前からは聞かねばならないことがある」
昌浩の神経に気配が触れる。探らずともすぐに知れた。陰形した神将が傍らにいるのだ。
――これでは逃げられそうにない。
力が抜ける。こちらが諦めたのを察したのか、神将は手を放した。陰形していた気配がかき消え、遠ざかっていく。
ここは安倍の屋敷だ。よくは覚えていないが、おそらく凌壽と闘った後自分は失神してしまったのだろう。それでこの神将が連れてきてくれたのか。……来たくはなかったのに。
消えた神将は晴明を呼びに行ったのだろうか。となると尋問されるのだろう。先のことを考え、彼は気鬱になった。体力は凌壽のせいですっかり無くなっているし、この戦力に囲まれては脱出は絶望的だ。不幸中の幸いで、怪我はないが――怪我?
ざあっと血の気が引く音が聞こえた。指が震えている。
「あの、」
咄嗟に、側の神将に呼びかけていた。
「夕べ、俺……何かした?」
掠れ声に、赤い神将は盛大に眉間に皺を寄せた。数拍沈黙を挟んで、そっぽを向く。
「桂を一本枯らした」
昌浩は、ゆるゆると息を吐き出し安堵した。よかった。誰も傷つけていない。
体の調子を確かめるため探ってみると、傷はすっかり癒えていた。……いつものとおりだ。喉元の古傷もいつもどおり、慢性的な痛みを訴えている。
ただ、指先で触れた包帯の感触だけが違っていた。
瞬時に、喉が氷を飲み込んだようにひきつれた。唇はもつれ、彼は言葉を発するのに多大な労力を必要とした。
「包帯」
弱弱しい声に神将が振り返る。昌浩は天井を見つめたまま、気配だけでそれを察した。彼を直視することはできなかった。
なのに、あの美しい金の瞳が、布越しに全てを捉えているようだった。
「……代えたの?」
神将は少し黙ってから、ぶっきらぼうに返した。
「汚れている奴を寝かすわけにはいかなかった」
見られたのだ。
きつく瞼を閉じ、唇を噛む。真新しい感触に、感謝の念より羞恥が先に立った。
かけられていた袿に力の限り爪を立てる。だが、いつだって後悔をする暇を運命は与えてはくれない。
今もそうだった。接近するいくつもの気配は、彼を追い立てる猟犬だ。
ずうっと昔から、昌浩は追いかけられて生きている。そうして、それはきっとこの先も変わらない。
常闇の双眸を開き、彼は首を傾けた。
跫音はすぐそこまで迫っていた。
幼い妖はくらむ視界の中で萎えそうになる足を動かし、後退った。全身が痛む。きちんと直立している自信がない。意識は朦朧とし、苛む苦痛の中、ただひとつの行動を取らせようと警鐘を鳴らしていた。
逃げなければ。
晴明に迷惑をかけるわけにはいかない――どこかに隠れ傷を癒し、次の襲撃に備えなければならない。何十回と行ってきた過程を再び追尾し、彼は途切れそうになる思考を繋いだ。
喉が痛い。呼吸するだけで組織がひきつる。凌壽が離れたことで妖気は暴れなくなったが、新たに与えられた痛みと傷は重かった。口がきけない。この状態ではあの僧とも満足に闘えず、逆に殺されてしまうかもしれない。今の自分はあまりに弱体化している――早く逃げなければ。
子どもの意識は一極に集中していた。だから、すぐそばにあるふたつの神気を無意識に忘れていた。
首筋を衝撃が襲う。子どもは己が落ちたことにも気付かずに――無為の暗闇に、思考を溶かしていった。
脆すぎる手応えだった。妖だからと強めに力を込めたのだが、必要なかったかもしれない。それほど呆気なく、幼い天狐は手刀一発で落ちてしまった。
手負いとはいえ、少しおかしい。
腕の中でぐったりとしている子どもを訝しげに一瞥し、勾陣はそれを紅蓮に押しつけた。
昌浩、と呼ばれていたこの天狐を助けたのは、何も親切心からではない。現時点で最も情報を握っているのがこの子どもだからだ。幸い傷を負って弱っていたし、捕らえて脅せば吐くだろうと判断しただけのことだった。
紅蓮が不器用そうに子どもを抱える。不服そうな眼差しを、勾陣は気付かないふりをしてやり過ごした。彼女では運びにくいから紅蓮に渡したのだ。相手は妖なのだから外見に惑わされなくともいいだろうに、この最強の十二神将は相変わらず子どもが苦手なようだった。
少しは慣れろ、そう心の中だけで呟き、勾陣は西を振り返った。
「帰るぞ」
◆◆◆
神気がふたつ、近付いてくる。
凶将たちが戦闘を起こしていたあたりから目を覚ましていた晴明は身を起こした。どうやら紅蓮と勾陣は無事なまま闘いを終えたようだ。怪我をしていなければいいがと嘆息して、彼は袿を羽織った。
身体の芯を揺さぶる強大な霊気が衝突していたのも気にかかる。二人から詳しく話を聞かなければならないだろう。すでに夜遅く、子の刻を過ぎているが仕方ない。これは十二神将の主たる晴明の義務であり、矜持だった。
天后が顕現し、そっと晴明の肩を支える。今この部屋の中にいる神将は彼女だけのようだった。珍しく青龍もいない。久方ぶりに人数の少ない自室に戻っている。皆二人の様子を見に行ってしまったのだろうか。
そこに音もなく妻戸を開き、白虎が顕現した。
「晴明、来てくれ」
肩を支えていた天后の手が強張る。晴明もさっと顔色を変え、最悪の場合を想定した。
「二人に何かあったのか」
「いや、そうではないが……」
珍しく白虎が言葉を濁す。とにかく門まで来てくれと繰り返され、晴明は天后と顔を見合わせた。
白虎とて、今の状態の主人を動かしたくはないはずだ。それがわかっていながら晴明を呼ぶということは、ただならぬ事態であるということになる。だが、紅蓮と勾陣の両名が無事だというのにいったい何が起こったのだろうか。
天后と白虎に付き添われ庭に下りる。気だるい身体を門まで進めると、すでに幾人かの十二神将が集っている。帰還した凶将二人は、なぜか邸に入らずに門の外側で晴明を待っていた。不思議に思ったが、理由はすぐに知ることになった。
紅蓮の腕に抱かれた黒衣の子どもが、皆の当惑の原因だった。
「それは?」
尋ねた天后に、勾陣は簡潔に返した。
「天狐だ」
とたん、ざわめきが広がる――なかでも、晴明はとみに驚いていた。
彼の母親もまた、天狐だったのだから。
子どもは少年のようだった。首からは血が流れ、べったりと胸元を汚している。血の気の失せた肌は白く、か細い呼吸を零す唇は青かった。勾陣が気絶しているその幼い天狐を冷静に指す。
「危ないところを救ってくれた恩人だ。晴明を狙っている奴とも知り合いらしい。見ての通りの傷だし、詳しく話を聞き出そうと思って連れてきた。晴明、入れてやってくれ」
紅蓮が何か言いたそうにちらりと勾陣を見やる。が、結局沈黙を選んだようで口を開くことはなかった。その様が少し気になったが、晴明はすぐに注意を戻し頷いた。
「わかった。いいだろう」
結界の創造者の認証が得られた。一時的に妖が結界内に入ることが許される。天狐は神に等しい力を持つが、所詮は妖にすぎない。晴明の許しがない限り入れることができないため、紅蓮たちは晴明を呼んだのだった。
屋敷の近く、池のそばまで移動する。どこか空いている部屋に入れて、目覚めるまで見張りを付けるかと思案していた晴明の耳に、ぼそりとした呟きが飛び込んできた。
「起きたぞ」
子どもを抱いていた紅蓮がかすかな身じろぎを感じたのか、注意を促した。彼は抱えていた天狐を下ろすと、乱暴に片腕を掴んでぶら下げる。小さな呻きが天狐の唇から洩れた。ゆるゆると瞼が上がる。茫洋とした瞳が紅蓮を捉え――
その双眸の奥底で瞬く白い光を認めた瞬間、紅蓮は反射的に彼を地面に叩きつけていた。
「騰蛇?!」
白虎が叫ぶ。晴明を庇うように青龍が顕現し、間に立つ。天后が悲鳴を上げて口元を覆う。勾陣はそんな友の肩を抱いて、紅蓮と倒れ伏す子どもに鋭い眼差しを向けていた。
晴明は、ただ静観している。
子どもの指が痙攣した。間もなくして、ゆっくりと身を起こす。その一挙一動に、その場の誰もが集中していた。
かくかくと、何かにひっぱられるように子どもが立ち上がる。紅蓮が手のひらを翳し、焔を召喚した。いつでも放てるよう、蛇がばちばちと音を立ててとぐろを巻く。
しかし、彼は眼前で明るく輝く焔も、そして神将たちすら視界に入っていないようだった。
足を引きずるように踵を返す。夢見るような足取りで、天狐は敷地の中にある小さな森に近づいていった。その無防備な背中に、紅蓮が殺気を投げつける。が、あからさまに示されたそれさえも、天狐には届いていないようだった。
一番近い桂の前で足を止めると、子どもは幹に手を触れた。さらに祈りを捧げるかのごとく額を当てる。すると、その身が淡い光に包まれた。
(あの時の)
勾陣が紅蓮を見やる。紅蓮も目だけで頷き返す。間違いない。二人を癒した時と同じ、青白い灯火だった。
けれども、直後に起こった現象は二人の身にもたらされたものとは全く異なっていた。
桂の太い幹がばきばきと軋む。木肌はたちまち荒れ、罅が入り、葉が萎れ、あっという間に立ち枯れていってしまう。水分や生気を芯まで吸い取られ、樹は細く小さく脆くなった。
燐光が蛍火のように掻き消える。子どもがくずおれた。その身に刻まれた傷は消滅しているが、生気は相変わらず薄い。背筋を這い上るうすら寒い予感に紅蓮は身を震わせた――やはり、連れてくるべきではなかったのだろうか。
この天狐は敵ではないが、同時に味方でもないのだから。
「……どうなっている」
青龍が唸った。紅蓮の背に視線が突き刺さる。舌打ちをしたいのをぐっと堪えて、紅蓮は無視することに決めた。青龍が自分に向ける感情など、わかりきっている。今更構っても仕方がない。
「大丈夫なの?」
不安げに、天后が勾陣に尋ねた。警戒の色が濃い声音は、この場にいる全員の総意だ。だが勾陣は目を瞑ると、心配性な親友の背を軽く叩いてみせた。
情報が必要なことには変わりない。この天狐が危険であろうがなかろうが、捕えて話を聞きださなくてはならない。もし何か兆候が現れたら、その時は――
指に触れたあたたかな感触を思い出し、紅蓮は顔をしかめた。子どもは動かない。呼吸で僅かに背中が上下しているだけだ。
ようやっと煉獄を収め、彼は振り返った。
「どうする」
晴明はしばらくの間答えなかった。ただじっと、子どもの幼い顔立ちを見つめている。
神将たちが辛抱強く待っていると、ややあってから命がくだされた。
「……成親の部屋が空いているな。そこで休ませてやれ。見張りは、」
二名の神将の名を晴明は呼んだ。
「紅蓮、六合。任せたぞ」
ずっと陰形していた六合が応じる気配を見せた。紅蓮は少し躊躇ってから、子どもに近づく。手を伸ばし、思い切って触れるが子どもは覚醒しない。何も起こらないことに安堵して、彼は慎重に子どもを抱え上げた。
成親が使っていた部屋に向かう紅蓮の背を、体が冷えることも忘れて晴明は見送った。
霞みがかった記憶の彼方から、遠く呼び声が響いていた。
◆◆◆
荒れ果てた廃屋に足を踏み入れる。腐食していない床の上に腰を下ろし、僧は短く悪態をついた。その背後に気配が生まれる――手放していなかった錫杖を軽捷に向けて、僧は殺意をむきだした。
「――なんだ、あの妖は」
暗闇から滲むように現れ出でた気配の主……凌壽は、にやにやと嗤いながら、楽しそうに答えた。
「あれは俺の獲物さ」
僧が目元を険しくする。
「貴様、あの妖が俺を邪魔しに来ると知っていたのか?」
「さてな」
凌壽はひょうひょうと躱すばかりだ。まともに答える気などないのだろう。埒が明かんな、と苦々しく思いながら、僧は錫杖を下ろした。
「天狐どうしで何を争っているか知らんが、俺の邪魔をすることだけは許さんぞ」
「わかっているさ」
その気のなさそうな返事に苛立つ。凌壽は僧を嘲るように笑みを深くすると、自身の黒髪をぶちぶちと引き千切った。差し出されたそれを忌々しげに僧が奪う。
僧は会話を打ち切るように背を向ける。凌壽は腕を組むと、今しがた思いついたように「そうそう」とわざとらしく声をかけた。
「あのガキについて、ひとついいことを教えてやろうか。きっと役に立つぞ」
僧が胡散臭そうな顔で凌壽を睨む。けれど天狐は気分を害すことなく、むしろ機嫌を良くしたようだった。
「あいつはな……」
朽ちた屋根の上から、月明かりが落ちる。満月だというのに上機嫌で、凌壽は笑った。
死蝋の肌は月光を吸っても、なお土気色のままだった。
八十年前につくった古傷が、包帯の下でぶちりと裂ける音を聞いた。
ついで、かすかな痛みが走る――痛みが広がる。
体内に残った妖気が、元在った場所に還ろうと躍起になっているのだ。
じくじくと反応する妖気の痛みを抱え、彼は閃光の消え失せた夜空を睨んだ。三丈ばかり離れた空中に、夜より濃い闇が澱んだように固まり、幼い妖と神将を見下ろしている。
ずっと子どもを追ってきた、裏切り者の天狐。
凌壽は嬉しげに哄笑を上げると、うっそりと目を細めた。
「久しいな昌浩、元気だったか?」
「お前に遭わない間はな……!」
唸り、子ども――昌浩は、気配を消すためにずっと抑えていた通力を解き放った。爆発的に広がった霊力がそのまま凝縮し、上空に立ち尽くす凌壽へと叩きつけられる。
「おっと」
闇が躍る。
巨大な霊力の塊をひらりと避け、凌壽は大きく跳び退った。おそらくは昌浩の攻撃など予測済みだったのだろう。わかってはいたが、かすり傷さえ負わせられなかったことに舌打ちをして、昌浩は素早く周囲に目を走らせた。
ここは人間の、それもこの国の帝の妻が住まう邸だ。このままではいらぬ被害が及んでしまうだろう。それに、それでは自身も全力を出しきることはかなわない。
昌浩のすぐ近くで身構えている神将二人は、突然の事態に戸惑っているようだった。目の前の天狐達にどう対処するべきか判断しかねているのだろう。勾陳が抜き放った筆架叉の刃が、白々と月光を弾いているのが目に入った。
――だが、昌浩は最初からふたりを当てにする気などさらさらない。
助けなど、必要としてはいけないのだ。
視線を戻す。凌壽は空を踏みしめたまま動こうともしていない。その鉛色の眼差しは昌浩だけに注がれている。その視線を真正面から撥ね返し、昌浩は両の脚に霊力を集中させると地を蹴った。
かざした手のひらの先に光り輝く槍が出現する。高く跳躍しながらそれを投げ放つ。
今度こそ、凌壽は動いた。その足が何も存在しない空間を蹴る。大きくとんぼを切って光の槍をかわすと、敷地の一番端、築地塀の上に着地する。
ほぼ同時に地に降り立った昌浩の髪が大きく翻った。仄白い狐火が地表を舐めたかと思うと、土御門殿を覆う結界が瞬時に結ばれる。
凌壽が鼻で笑い、結界壁の向こう側から昌浩を見下ろした。
――結界を打ち砕くつもりなのだ。
「させるか!」
昌浩は右腕を振り払った。生みだされた霊気の刃が下方から凌壽に襲いかかる。凌壽はそれを苦もなく避け、再び宙に浮かんだ。煌々と照る満月を背後にしていても、その口元がはっきりと認められる。
――遊ばれている。
いや、と昌浩は心の中でかぶりを振った。
昔からそうだった。いつだって凌壽は自分で遊んでいた。そして自分はいつだって、彼の遊びから逃げることに必死だった。
だが、もう逃げることは許されない。退いてしまえば大切なものが失われる。
奴の手にかかってしまう。
震えを押し隠し、昌浩は再び脚に霊力を込めた。一跳びで築地塀に跳び乗り、続けてさらに跳躍する。
凌壽はその場から一歩も動かなかった。腰に手を当てたままで、まっすぐ昌浩の瞳を射抜いている。
霊気の渦を纏わせ、渾身の力で昌浩は右腕を振り下ろした。
だが、一撃は凌壽には届かない。
凌壽によって創生された不可視の壁が、昌浩の霊力と拮抗する。唇を噛みしめ、昌浩はさらに力を込めようとしたが――瞬間、激しい痛みが首の古傷を襲った。
「ぐっ……!」
昌浩が苦痛に顔を歪める。妖気が出口を求めて傷口を喰い破っている――長く接近しすぎたのだ。
痛みで僅かに力が緩む。均衡が崩れた、凌壽はその隙を逃さなかった。霊力が膨れ上がり、防御壁が昌浩を弾き飛ばす。
「………っ!」
飛びそうになる意識を叱咤し、昌浩は地面に叩きつけられる寸前で体勢を立て直した。
大路の真ん中に膝をつく。荒く息を継ぎながら、気を緩めることなく顔を上げる。
追撃はなかった。代わりに黒い影が降下し、音もなく地に降り立つ。首筋を押さえながら息を切らしている昌浩を、凌壽は冷たく睥睨した。
「児戯だな」
痺れる身体に鞭を入れ、昌浩はふらふらと立ち上がった。土御門殿から凌壽を引き離すため仕方なく不得手な接近戦を仕掛けたはいいが、その代償がこれだ。やはり慣れないことはするべきではない。
喉元を押さえていた手をどける。見なくとも、べとつく生温い液体が付いているのが感じられた。
ねっとりとした視線が、血の滲む包帯に絡みつく。それを受けて昌浩が不快げに睨み返すと、凌壽は面白そうに口を開いた。
「お前と遊ぶのは楽しかったぞ、昌浩。だが流石に時間が無くなった。
……九尾にも煩くせっつかれていることだし、」
ゆっくりと伸ばされた右腕の先で、爪が音を立てて伸びる。息を呑んだ昌浩の身体が震え、その足が僅かに後ずさる。
死蝋のような肌で、天狐族を滅ぼした男は酷薄に笑んだ。
「鬼ごっこは、もうお終いだ」
目の前からふっとその姿が消える。昌浩は目を見開き、全身から通力を迸らせた。
だが次の瞬間、衝撃に襲われて昌浩は悲鳴を上げた。成すすべなく地面に転がった彼の耳に嘲りの声が響く。
「百年と少しばかりしか生きていない仔狐の牙が、この俺に届くと本気で思っていたのか?」
(まずい……!)
咄嗟に障壁を張ったおかげで直接的な打撃はなかった。けれども霊気の壁を越えて彼の身を貫いた衝撃は並大抵のものではない。
噎せながら腕をついて必死に起き上がる。距離を詰められた場合圧倒的に不利なのは昌浩の方だ。身体能力では決して凌壽に打ち勝てない。どうにかして、まずは一旦距離を置かなければ。
視界が霞む。ともすれば平衡感覚すら失いそうになるのを堪え、防壁を張るために通力を発しかける。ところが突如伸びてきた指に喉笛をつかまれて、昌浩は苦鳴を上げた。
「俺に立ち向かってきたことは褒めてやろう。だが」
気道と血管が同時に絞まる。凌壽は彼を軽々と宙に持ち上げ、空気を求めて喘ぐ昌浩の表情を満足そうに見やった。
「できそこないのお前では、所詮蛮勇だ」
凌壽の指の下で、鮮血がじわじわと白い布地を染め上げていく。弱々しくもがいても抵抗にすらならない。針を直接突き立てるような痛みが、次第に喉から全身へと波及して力が入らなくなっていく。それでも昌浩は薄目を開け、震える腕に全力を込めると持ち上げた。
凌壽の手首にその指がかかる。しかし爪を立てる力もなく血の気が失せた顔で見下ろすと、凌壽はけたたましく笑い声を上げた。
「あの老人にちょっかいを出せばお前が出てくるだろうと思ったさ! まさかこんなに早く釣れるとは思わなかったがな。
さて、相変わらずお人好しなお前に俺からも頼みがある」
「なん、だと…」
絶え絶えの息の下、掠れ声で聞き返す幼い妖に、凌壽は残酷に告げた。
「晶霞を呼ぶついでに天珠をくれよ」
かっと子どもの眼が見開いた。その細い指の先で、ほんの僅か、爪が凌壽の肉に食い込む。
凄絶な笑みを浮かべ、昌浩は潰されかけた喉で叫んだ。
「断る……!」
刹那赤い光が迸ったのを認めて、凌壽はそちらを振り返った。
灼熱の輝きを見せる炎の蛇が二匹、凌壽めがけて迫ってくる。捕らえた昌浩を盾にしようと咄嗟に掲げかけたものの、炎蛇とは逆方向に激しい通力の気配を感じて、彼はその神気の主に昌浩を投げつけた。
二振りの筆架叉を携えた女が片腕で子どもを抱きとめる。残った左手の刃が凌壽の残像を引き裂いた。だが本体には一筋たりとも傷つけることができていない。続けて凌壽は炎蛇をもかわすが、その後も曲線を描いて迫ってくる蛇を片手に込めた妖力で粉砕した。
火の粉が舞い散る。その中に現れた二人の神将を、凌壽は不機嫌そうに一瞥した。
「あの老人の……なんといったか、十二神将か。妖同士の闘いに介入するのか? お前達には関係ないだろうに」
勾陳の手から離れた昌浩は、激しく咳きこみながらうずくまった。首からの出血が酷い。赤い雫がぼたぼたと音を立てて乾いた砂に染みこんでいく。
その幼い天狐を庇うように立ち、勾陳は凌壽に筆架叉の切っ先を向けた。
「お前は危険な妖だ。野放しにはできないと思ったまでのこと」
再び煉獄を両手に召喚し、紅蓮が勾陳の横に並ぶ。その金の瞳に剣呑な光をともし、敵意を剥きだしにして彼は唸った。
「貴様が晴明に仇なす前に、この場で消し去ってくれる!」
「できるかな……?」
暗い瞳で神将を嘲笑うその痩身から煙のように妖力が立ち昇り、ぴりぴりと大気が張り詰める。
互いが互いの出方を伺っていたその時、激痛に苦しんでいたはずの天狐の叫びが響き渡った。
「彼の者を絡めとれ!」
ほとんど息だけの、音にならない掠れた叫び。
だが込められた言霊は容赦なく発動し、発現した霊縛が凌壽の脚を地に縫いつける。凌壽が初めて、微かな焦りをその眼差しに乗せた。
紅蓮はその機を逃さなかった。掲げた焔から燃え立つ真紅の蛇が鎌首をもたげる。気合とともに炎蛇は放たれ、束縛された天狐へと大きくあぎとを開いて突進した。
同時に勾陳も動く。地を蹴り炎蛇に並走すると、彼女はそのまま凌壽に躍りかかった。――確実に凌壽を仕留めるための連携攻撃。
動けないまま二人の神将に庇われている子どもが、その奥かららんらんと光る眼差しで凌壽を射抜いている。
拘束から逃れて後の間に高めた霊力を全て注ぎこんだのか。あらん限りの力が込められた言霊を解くにはそれ相応の妖力を必要とする。神将を迎え撃っていては解除に回す妖力が足りなくなってしまう。
ざんばらの前髪の奥で鉛色の双眸が忌々しげに歪む。舌打ちをひとつして、彼は全身の妖気を爆発させた。
肉薄していた勾陳が咄嗟に筆架叉に通力を込める。襲いくる巨大な爆裂を彼女はなんとか押し返したが、紅蓮の炎蛇はそうはいかなかった。正面からまともに爆裂に突っこんだ焔の蛇が妖力の牙によって粉々に打ち砕かれる。燃えさかる鱗が巻き上げられた砂の中で散り、火の粉となって消滅していく。
視界を覆う砂塵は目くらましか。すぐにその場を飛び退き紅蓮と共に昌浩を護りながら、勾陳は気を張り詰めた。
が、いつまで経っても攻撃の気配がない。
砂煙が晴れていく。二人は油断無く周囲を警戒するが、どこにも天狐の姿は見当たらなかった。妖力の残滓すら感じられない。
どうやら天狐凌壽が退いたらしいことを認めて、ようやく紅蓮と勾陳は長く息を吐きだした。
勾陳が筆架叉を帯に戻しながら、些か憔悴したように呟く。
「あれが天狐か……」
「ひとまず退かせることはできたが、他の奴らでは荷が重いかもしれないな」
紅蓮が苦々しく吐き捨てる。その後ろで、昌浩が覚束ない足取りで立ち上がった。いまだに出血が止まらないのか、胸元は真っ赤に濡れそぼっている。
血の気のない青白い顔が、己の危機を救った神将に向けられた。