体調を崩し宿下がりしている中宮がいる土御門殿に忍びこむなど、人であれば絶対に許されない行為だ。だが神の眷属たる神将には人間の決まりごとなど何の意味も持たない。
軽々と築地塀を跳び越え広大な庭に降り立った二人は、敷地全体に充満する妖気に表情を硬くした。――僧が生みだし操る幻妖と同種の玄い気配。重たく凝っているその妖気は寝殿のほうから濃く漂いだしている。
「これだけの妖気がありながら、晴明の占が何も示さなかっただと……?」
「何者かが占を捻じ曲げていたと考えるのが妥当だろうな」
紅蓮の金の瞳が勾陳に向いた。
「あの僧だと思うか?」
「いや……」
勾陳は緩く首を振った。僧の法力が確かなものだということはその身をもって知っている。だが占を捻じ曲げるほどの力とは思えなかった。安倍晴明の占を別の結果にすりかえるには、あれよりも強大な妖力、ないし霊力が必要だろう。
紅蓮も勾陳と同じ予想をしているのか、不機嫌そうに庭を見渡した。
「気に入らんな」
寝殿を目指し庭を横断する。と、人が倒れているのを見つけ、彼らは足を止めた。中宮の警護のため土御門殿に配されている人間だろう。抱き起こしてみるが、脈もあるし息もある。ただ昏倒しているだけだ。おそらくこの呪詛の妖気にあてられて倒れたのだろう。見はるかせば他にも幾人か地面の上に倒れ伏しているのが見受けられた。
警護の兵はひとまず置き去りにし、悪い予感に背を押されて紅蓮達は寝殿に上がりこんだ。ここでも室内や渡殿で女房や舎人が昏倒している。この分では中宮も相当危険な状態だろう。
「まずいな」
「どうする。……晴明を呼ぶか?」
気が進まなさそうに提案された意見に、勾陳はしばし考えこんだ。もし先程の僧に出くわした場合、今の晴明では危険すぎる。彼はなるべく安静にさせ、代わりに十二神将が動くことが最善の策なはずだ。
針のような気配の呪詛がぴりぴりと足の裏を刺す。そう考えていられる猶予はない。
髪を揺らし勾陳は顔を上げた。
「呪物がどこかにあるはずだ。それを破壊しよう」
「わかった」
紅蓮は頷き身を翻した。地面に跳び下り、勾陳と二手に分かれる。彼は玄い気配に集中して慎重に歩を進めた。妖気が最も濃いところ――すなわちそこが妖気の噴出点、呪詛の媒介がある場所だ。
妖気を探り追いかけていた紅蓮は足を止めた。ごく近くから妖気が噴き出している。鋭い目で周囲をぐるりと見回し、彼はある一点に視線を注いだ。
寝殿の角に作られた盛り土。そこから湧きだしている真っ黒な妖気。
近づき盛り土を崩すと、中から現れたのは黒い糸だった。糸にしては光沢のあるそれには見覚えがある。
「髪……?」
先程の闘いで子供の妖が言っていたことを思いだし、紅蓮は独りごちた。
触れるとすうっと神気が吸いとられていく。この感触は間違いなく、あの時僧が使用していたものだ。
つまんだ糸を通し、妖気――呪詛の根が地中にまで及び、土御門殿を侵食しているのが手に取るように理解できた。だが、紅蓮や勾陳では地中の呪詛まで浄化できない。この髪自体を消すのは簡単だが、呪詛を消すには媒体であるこの黒髪と同時に浄化する必要がある。
どうしたものかと考えこむ紅蓮の耳に砂を踏む音が届き、彼は頭を上げた。
「見つけたか、騰蛇」
「ああ」
「私もあちらで一つ見つけた。探る限りこれで全てのようだが……」
「晴明は呼べない。玄武か天一あたりに連絡を取って来てもらおう」
「呪物は見つけた?」
唐突に響いた声に驚き、紅蓮と勾陳はばっと背後を振り返った。数瞬前まで誰もいなかったはずの場所に黒衣の子どもが立っている。――何も気配がしなかった。こうして姿を見せている今でも、子どもの気配はひどく薄い。
「……何の用だ」
「ちょっと気になったからね」
妖は気軽に紅蓮へと近づくと、彼の手にあった黒髪をひょいとつまんだ。瞬時に髪がぼっと音を立てて燃える。同時に地面を通して感じられていた呪詛が跡形もなく消えていった。大気に漂う妖気も分解されて溶けていく。
さわりと頬を撫でる風に、勾陳ははっと気づいて寝殿の反対側の気配を探った。――妖気が消えている。土御門殿を覆っていた妖気も呪詛も、何もかもが浄化されている。
手に残った灰を払い、妖は爪先で盛り土をならした。
「他の髪も全部燃やしておいた。今のが最後だよ」
土が均等にならされる。妖は腰に手を当てると、己よりずっと長身の神将達を見上げた。
「安倍晴明を邸から出してはいけない」
二人の動きが凍りつく。そんな紅蓮と勾陳に真剣な双眸を向け、妖はさらに言葉を紡いだ。
「彼を生かしておきたいのなら絶対に外へ出すな」
「……どういう意味だ。お前は何を知っている。何者だ」
紅蓮の声音がすっと冷える。刺々しい神気がじわりと妖の肌を刺す。
どんな化生のものでも怯えるだろうその神気をまるで感じないような顔をして、子どもは受け流した。
「彼を巻きこみたくない。妖同士の争いに眷属を引きこむのは俺の本意じゃないんだ」
「眷属?」
勾陳が一歩足を踏みだす。
安倍晴明は狐の子と言われている。人間の間ではただの噂だが、それは真実だ。
「天狐同士で争っているのか?」
妖がどこか傷ついたようにふっと視線を逸らした。その拳は硬く握り締められている。何かを堪えるように唇を噛みしめ、妖は再度神将達を見上げた。
「とにかく、彼を外に出しては……」
突然、ふっと言葉が途切れる。子どもは大きく目を見開くと、ばっと天を仰いだ。
「阻め!」
込められた言霊が堅牢な防壁を築く。次の瞬間閃光が弾け、三人は腕をかざして目を庇った。
閉ざされた視界で響く轟音。だがその中で紅蓮は妖の唸る声を聞いた。苦しさに満ちた、声を。
「凌壽……!!」
全身に刻まれた傷はほんの少し動くだけで激しく痛む。だが勾陳は無理矢理痛みをねじ伏せると、乱入してきた妖に筆架叉の切っ先を向けた。
「何者だ」
「通りすがりの妖」
こともなく告げると、妖は突きつけられた鋭い刃先を恐れることなく足を踏みだした。勾陳の目元が険しくなり、並んで立っている紅蓮もいつでも焔を出せるようにと神経を尖らせる。
刃の先端に白い包帯の巻かれた細首が触れる。勾陳が少しばかり力を加えればその喉笛はあっさりと掻き切れるだろう。けれど妖はそんな不安など微塵も感じていないのか、筆架叉を持っている彼女の手首にそっと両手を添えた。黒い目が伏せられた下で、勾陳がぷつりと包帯を突き破る。
「勾、……っ」
案じて勾陳の名を呼んだ紅蓮は、すぐに息を呑んだ。
ふわりと青白い燐光が妖の身を包む。穏やかな通力の波動。瞬きを数回するかしないかのうちに光はふっと消え、珍しく勾陳は驚いた様子で自分の身体を見下ろしていた。その全身に刻まれていた切り傷は跡形もない。皮膚の表面に残された血液だけが、傷があったという事実を教えていた。
妖が勾陳から手を離す。はっと我に返った勾陳は筆架叉を引いた。まだ妖に対する眼差しは不審げなものだが、彼女は筆架叉を腰帯に差し戻した。何度か手のひらを握ったり開いたりしていたが、やがて顔を上げ紅蓮に頷く。問題はないようだ。
ほっと胸を撫で下ろし、紅蓮は妖を見下ろした。小さな頭が紅蓮の腰あたりで小首を傾げ、じっと見上げてくる。その手はまっすぐに紅蓮へと伸ばされていて、彼は少々躊躇したが、結局その手を取った。
その途端、あたたかい何かが触れた手から流れこんでくる。
妖の指先から紅蓮の体内へと侵入してくる流れは、しかし嫌悪感を催すものではなかった。血潮と同じ温度が腕を伝わり、心臓に入り、そして全身に行き渡っていく。液体のような、それでいて不思議に揺らめく感触が優しく身体の裡を撫でていく。
流れが染み渡ったと紅蓮が感じたと同時に、妖の身を取りまいていた燐光が消えた。気づけば、紅蓮も勾陳と同じように傷が無くなっている。
――これは晴明の使う回復の術とは根源的に違う。もっと直接的な、原始的な何かだ。
顔をしかめて見下ろされていることに気づいたのか、妖はきょとんと見返してきた。そのあたたかく細い指はいまだ紅蓮の手を握っている。
「……まだどこか痛む?」
片手が離れ紅蓮の頬へと伸びる。だが紅蓮はぴっと手を振り払うと顔を背けた。妖は何か間違えたか、という幼げな顔をしていた。けれども、すぐにその表情は闘いの中で見せた硬いものへと変貌する。
「さっきの僧が何者か知ってる?」
尋ねられた勾陳は腕を組み、妖に答えた。
「教える義理が私達にあると思うか」
「危ないところを助けてあげたし。怪我も治してあげたんだから、それくらいよくないかな」
「ふむ」
涼しい目線で妖を眺める勾陳は警戒を解いてはいない。相手の真意がわからない以上、あまり関わらないほうがいいという判断だろう。紅蓮もその判断には賛成だった。
しかし彼女はこれ以上喋ることはないだろうという紅蓮の予想に反し、素直に口を開いた。
「あの僧とは初対面だ。我々を妨害しに来たらしいが、それ以上のことはわからない」
「妨害?」
「私達は主の命を受けている」
「おい勾、」
制止の呼びかけに彼女は紅蓮をちらりと流し見た。が、それだけで何も答えない。苛立つ紅蓮とは反対に、勾陳はどこまでも落ちついていた。
妖は何事か考えるように顔を伏せていたが、ほどなくして足を踏みだした。紅蓮と勾陳の間をするりとすり抜ける。通り過ぎる刹那に、彼らの耳に小さく「ありがとう」という囁きが届いた。二歩三歩と離れたところで、その姿は闇に溶けこむようにして消えていく。つむじ風が子供のいた場所にぐるぐると渦巻き、空気をかき混ぜた。
気配は欠片も残っていない。普通なら霊力の残滓くらいは残るはずなのだが、あの妖は完璧に霊力を抑える術を身につけている。
大路の真ん中に、神将二人が取り残される。紅蓮は勾陳をきっと睨むと口を開いた。けれど彼が声を出す前に、勾陳が素早く言い放つ。
「これでも私は人を見る目はあるほうなんだ」
「……なんだと?」
「だからあの子どもに喋った。そう心配しなくても大丈夫だろう」
それでもまだ紅蓮は不満げだ。勾陳は彼を見上げると、気分を害したように眼差しをきつくした。
「信じられないならそれでもいいが。……言っておくが、お前は私が背中を預けると決めた男だぞ」
ぐっと紅蓮が押し黙る。彼は視線を勾陳から逸らすと、眉間に皺を寄せて土御門殿の方角に歩き出した。
「行くぞ。大分時間を喰った」
徒人には見えない不可視の影がふたつ、夜の都を疾走する。
土御門大路を東に抜けながら、紅蓮と勾陳は膜のような何かを突き抜けたのを感じ、道の交差する場所で足を止めた。
「騰蛇、」
「わかっている」
紅蓮は油断なく辺りを見回しながら右手をかざした。ぼうと焔がその腕に絡む。勾陳は腰帯から筆架叉を二振りとも抜き放つと、口の中で呟いた。
「――晴明の予感どおりか」
二人は結界に取りこまれたようだった。いくら気を凝らしてみても、創生された境界から外のことが把握できない。異様な空気の篭った球状の結界は、神気で探る限りかなりの強度を有しているようで、紅蓮と勾陳の力でも、内側から破壊するには骨が折れそうだった。
まるで待ち伏せるかのような襲撃。おそらく、晴明の言ったとおり何がしかが足止めに来たのだろう。
そんな中、張り詰めていた二人の緊張の糸を破ったのは、しゃらんと響く錫杖の音だった。身構える二人の前に、しゃんしゃんと小環を鳴らしながら、ひとつの影が小路の角から現れる。
姿を現したのは、墨染めの古びた僧衣を着た壮年の男だった。零れる法力の欠片がぴりぴりと二人の肌を刺す。相当強い法力を持っているらしい。網代笠の下から覗く顔は三十路半ほどに見えた。
「人間か……? 何者だ」
「安倍晴明に従う十二神将だな」
紅蓮の誰何の声に答え、僧は被っていた網代笠を外し放った。
「俺の邪魔はさせん。……ここで死んでもらう」
勾陳は隣で焔を掲げたまま動かない紅蓮を見上げた。金冠を焔で煌めかせる紅蓮は険しい顔のままで微動だにしない。――理のことを考えているのだろう。十二神将は人を傷つけてはならないと定められた、理のことを。
怪僧に視線を向け直し、勾陳は小声で紅蓮を呼んだ。
「騰蛇」
「なんだ」
「あの僧の相手は私がやる。お前はなんとかしてこの結界を打ち破れ」
わざわざ結界など張って襲うということは、なるべく他の人間を巻きこみたくないという考えなのだろう。ならば結界さえ破ってしまえば、この場を逃れることはできる。
「……言っておくが、一度理を犯した自分が相手をするなどと言い出すなよ」
何かを言いかけ口を開いた紅蓮に、勾陳は先に釘を刺した。図星だったのだろう、紅蓮は口をつぐむと僧を睨み、不機嫌そうに焔をまとった腕を素早く一閃した。大きく焔が広がり、生まれでた紅く燃え盛る蛇が二匹、大きくあぎとを開いて結界壁へと突進する。炎蛇が放たれた瞬間、勾陳もまた筆架叉を構え疾風の如く僧に躍りかかった。だが僧はにやりと哂い、錫杖でとんと地を突く。
「させぬぞ!」
しゃんしゃんと響く、小環の作る音の輪。その音色は奇妙に重く、鼓膜を刺すような痛みをもたらす。
紅蓮の炎蛇が結界にぶつからんとしたその時、地面から湧き出した玄い妖がその間に割って入った。轟音が響き、火の粉が舞う。蛇は妖と相殺され、結界には傷ひとつつけられず、紅蓮は舌打ちして怪僧を見やった。その手に握られた錫杖が音をたてるたびに妖がむくむくと現れ、僧を守護するかのように取り囲んでいる。向かっていったはずの勾陳は、手にした筆架叉で幻妖を貫き、切り払い、神気で薙ぎ払っているが、分が悪い。幻妖は倒しても倒しても後ろから波のように打ち寄せてくるからだ。
そうこうしているうちに、幻妖が相対するのも勾陳だけではなくなった。紅蓮の足元からも玄い妖が這いだし、牙を剥きだして襲いかかってくる。紅蓮は目を細めると、両手に真紅の焔を生み出し地面に叩きつけた。
「小賢しい!」
叫びとともに、ぶわりと広がった焔が無数の幻妖を呑みこむ。怪僧は焔に煽られたが寸前で障壁を築き、勾陳も大きく跳びすさった。
紅蓮の側に着地した勾陳は、非難するように紅蓮を呼んだ。
「騰蛇!」
「へまはしない。それに、」
吐き捨て、紅蓮は顎をしゃくってみせた。その先では燃え尽きて灰と化した仲間の骸を踏み砕き、新たな幻妖が地中から無数に這いだしてくる。怪僧はその後ろで冥い眼光を光らせ、紅蓮と勾陳を嘲笑っていた。
その身の内からは衰えない強大な法力が感じられる。これだけの数の幻妖を生み出し操っているというのに、僧に疲労の色は見受けられない。
勾陳は筆架叉を一振りし、こびりついた幻妖の体液を払うと剣呑に呟いた。
「きりがないな。どうする」
「幻妖さえいなければどうということはない。結界を破って終わりだ。錫杖を潰すぞ」
「わかった」
だが、怪僧は錫杖を翳し凶将二人を睥睨した。
「小手調べはこの程度にしておくか」
「なに……?」
しゃんと音を立てて錫杖が地面を叩き、音波が耳をつんざく。咄嗟に勾陳は僧に駆け寄ろうとして――地中から伸びた玄い蔦に足をとられ、つんのめった。
「これは……っ」
驚く間もなく、蔦はあっという間に伸びて勾陳の全身を絡めとる。そればかりでなく、僧が再度地を突くと重圧がみしりと音をたててのしかかった。体内で骨と内臓がきしむのを感じながら、勾陳は歯を食いしばった。
蔦の表面には鋭い棘が備わり皮膚を刺す。裂かれた場所から血がぼたぼたと流れ落ちていく。呻いた勾陳が横目で見やると、紅蓮もまた蔦に全身を拘束され、のしかかる圧力に耐えていた。両者ともいたるところに切り傷を作っている。勾陳が片膝をがくりとつき、紅蓮は意思の力だけで耐えながら息を切らして怪僧を睨んだ。
「貴様……っ」
「神封じの術、それなりに効くようだな。――だがお前には少々心もとないようだ」
己に絡まる蔦にじわじわと神気を染みこませているのを見透かされ、紅蓮は喉の奥で唸った。怪僧は蔦から逃れようと足掻いている神将達を見下すと、懐に手を差しいれ何かを取りだした。その手に握られている黒い糸の束を目にした瞬間、本能的に寒気が走る。紅蓮と勾陳はすぐに悟った。怪僧の握る黒い糸――凄まじいほどの妖気を発している。ただの妖気とはわけが違う。
怪僧は数本糸を引きだすと嘲笑した。くつくつと哂いながら手を払うと糸が舞い、宙を滑るように流れる。紅蓮達にするすると近づいたかと思うと、突然糸は長く転じて彼らを縛りあげた。糸が触れたところからぞわりと肌が粟立つ。かと思えば、次の瞬間神気が急速に吸いとられ、紅蓮達は苦鳴をあげた。
視界が暗くなり眩暈がする。勾陳は耳鳴りを感じながら視界を回復させようと頭を振った。だが棘がぎしぎしと喉を刺して、彼女は喉の奥で血の臭いを嗅いだ。
「く…そっ……」
紅蓮もまた神気を奪い取られ、それでも闘志を失わない金の瞳で怪僧を睨んだ。
こんなところで死ぬわけにはいかない。この状況をどうにかしなければ、晴明が離魂術を使ってやってくるだろう。それだけは避けなければならないのだ。
僧の周りの幻妖が牙を剥いて二人を取り囲む。弱ったところを確実に仕留めるつもりなのだと察し、紅蓮は闘気を燃え上がらせた。
「なめるな……!」
「駄目だ、騰蛇!」
怪僧を直接攻撃する意思を読みとったのだろう、勾陳が掠れた声で叫ぶ。紅蓮はちらりと彼女に視線をやったが、すぐに怪僧へと戻した。勾陳は内心で歯噛みする。――止められない。
怪僧は十二神将最強の凶将騰蛇の通力を感じながらも平然として、紅蓮に錫杖を向けた。
「――行け!」
号令に忠実に従って、幻妖の群れが二人に襲いかかる。対する紅蓮も通力を爆発させようとして――
突如炸裂した光が、全員の目を灼いた。
「ぐぅっ……!?」
呻いた怪僧が後退る。紅蓮と勾陳も咄嗟に目を瞑ったが、瞼の裏で残像がちらついてしばらく使い物になりそうにない。
何が起こったのかはわからないが、この隙にぎちぎちと締めつける蔦と糸を断ち切ろうと身を捩った瞬間、拘束が解かれて勾陳は地面の上に座りこんだ。咳きこみながらもすぐに立ちあがり、よく見えない視界を紅蓮の方に向ければ、彼もまた同じように全身に裂傷を負いながらも立ち上がるところだった。
何度も目をしばたたきながら足元を見ると、白い何かが見えた。――蔦の灰。ぼろぼろに崩れてあの強靭さは見る影もない。軽い混乱に襲われながら二人が前方に視線をやると、怪僧ではない何者かが、白い焔を纏って立っていた。
感じるのは圧倒的なまでの通力。だがその波動は神のものではない。
妖だ。
その小柄な妖は、長い黒髪を揺らして左右に両手を伸ばした。その足下からぶわりと広がった白い焔が結界内に充満し、満ちていた幻妖達が音もなく焼かれて崩れていく。
やっと視界が回復してきた紅蓮と勾陳を、その妖は不意に振り返った。じっと見つめてくる黒曜の瞳に邪気は見当たらず、ただ白い焔の輝きだけが映っている。勾陳や玄武の衣装に似た黒の衣の裾が翻り、その子どもの姿をした妖はふっと二人から視線を外すと、険しい表情で片膝をついている怪僧を見据えた。
幻妖の灰が舞い散る中、怪僧が見えない鎖にその身を囚われていることに気づき、紅蓮は戦慄する。
こうも簡単に、あの僧が拘束されてしまうとは。
人間であれば十三・四といったところだろうか。小さな身体に秘められた霊力は、あの僧の法力を軽々と超えている。紅蓮の通力すら超えているかもしれない。これだけの力を有しているというのは、ただの妖ではありえない。
怪僧は歯軋りしながら、目の前の乱入してきた妖を睨んでいる。妖は結界内全ての幻妖を灰に帰し燃やし尽くすと、口を開いた。
「その髪、どこで手に入れた」
「どこで、だと……?」
「凌壽のものだな。人間には過ぎた力だ。……燃やさせてもらう」
すっと、篭手を嵌めた腕が怪僧の胸元を指し示す。伸ばされた指の先で白い焔が小さく灯った。それを受けて、僧の目がぎらりと光る。
「そういうわけにはいかん。――癪だが、この力は有用だ」
低く言い放つやいなや、怪僧を拘束していた霊気の鎖がばちりと音を立てて弾けた。僅かに妖が目を見開く。その妖を嘲り、怪僧は糸を――黒髪を一本引き抜くと、眼前の乱入者に投げ放った。髪から黒い妖気が立ちのぼって僧を覆い隠し、渦を巻いて襲いかかる。
しかし細い肢体を包むように燃え上がった白炎が妖気を阻み、逆に妖気を浄化していく。光の粒をまき散らしながら広がった焔は黒髪を灰塵へと化した。
黒い妖気が消え失せる。と、すでに怪僧の姿はどこにもなく、いつの間にか結界も解かれている。
妖が小さく息をついた。目の前で塵が風に吹かれなくなっていく。焔を収めると、彼は紅蓮と勾陳に視線を向けた。
怪僧と対峙していた時の硬質な光は消え失せ、どこか戸惑ったような色が瞳に浮かんでいる。
「ええと……」
怪訝な顔で見やる紅蓮と勾陳に、少し口ごもってから彼は手を差し伸べた。
「怪我みせて」
月が満ちる。
あの夜から数えて九百九十八度目の月が。
凌壽に残された時間は少ない。次の望月の晩までに、何としてでも晶霞の天珠を狩らねばならないのだ。その夜を過ぎれば機会は二度と訪れないだろう。
――そう、だからそれまでに、晶霞より弱いあの天狐を始末して、その心臓をこの身に取りこまねばならない。
凌壽が幾度も奇襲をかけても、あの天狐は必ず生き延びてきた。何度も死にかけているはずなのに、すぐに傷を治して姿を消し、時を置いて気配を感じた凌壽がまた襲いかかる。……何十年と繰り返してきた堂々巡り。
だがそれもこれで終わりだ。あの幼い天狐はもう隠れることはできない。
「遊びは終わりだ……」
気配を隠すための膜の中でうずくまりながら、凌壽は冥い目で呟いた。
◆◆◆
――光の中で、誰かが自分を抱えて笑っていた。
「む……?」
その顔をよく見ようと意識を凝らし、晴明は瞼を開けてしまった。途端飛びこんでくるのは、見慣れた天井。――自分の部屋だ。
夢か、と胸の裡で呟き、晴明は身を起こした。夢で見た映像はすぐに薄れていってしまう。光の中で微笑んでいた誰かが女なのか男なのかすらもわからなかった。ただ、今見た夢の中の光は、昔よく見た夢の光に似ていた。……そんな気がする。
目覚めた晴明に気がつき、傍らに隠形していた天后が顕現する。袿を引き寄せると晴明の肩にかけ、脇息を寄せた。その視線があまりにも心配そうな色を含んでいたので、晴明は苦笑いする。どうにも、天后には気苦労をかけてしまうらしい。
「お風邪を召されませぬよう……」
「なあに、そう心配せずとも大丈夫じゃて」
「大丈夫でないから口を出すんだ。そんなこともわからないのか」
冴え冴えとした声音が浴びせられ、晴明はおやおやと肩をすくめた。妻戸の脇に青龍が座っている。どうやら今日の監視役はこの二人らしい。
一月ほど前土御門殿で倒れてから、晴明に対する十二神将達の態度は格段に厳しいものになった。文台に向かえば寝ろと言われ、新鮮な空気を吸いに外に出てみれば、連れ戻され無理矢理寝かされそうになる。まるで寝床に縛りつけようかとする勢いだった。確かに通常に比べれば体調が悪いのは事実だが、そこまでするほど身体が悪いというわけではないので、少々神将達の愛が重荷に感じられる。
しかし愛されているということは確かなので、そう怒れもしないのが辛いところだ。
晴明は唸りながら茵の側に暇つぶし用にと積んでおいた書物に手を伸ばした。巻物は読んだ後巻きなおすのが面倒くさいので、置かれているのは和綴じの物ばかりである。だが手慰みに開いたそれらも、何故か晴明の頭の中にはちっとも入ってはいかなかった。――何度も読み返して内容を全て覚えているからか、と自問自答してみても、どうもしっくりこない。
晴明は読み始めていくらもしないうちにそれを閉じると、眉間に皺を寄せながら瞼を閉じた。
先程から脳裏の奥で明滅するものがある。
どうにも厭な予感がつきまとって離れない。一月前中宮の平癒を祈祷しに訪れた土御門殿、そこで感じた気配。そして「一月」という単語が、晴明の思考を席巻していく。
できるならば離魂術を使って土御門殿に飛んでいきたいが、もうこの手段は許されない。彼は昨年から離魂術を使いすぎている。立て続けに強力な妖が襲ってきたせいで、仕方なく魂を切り離すこの術を使ってきたが、身体にかかる負担がとうとう限界を超えようとしている。土御門で倒れたのは、決してあの時感じた気配のせいだけではない。
だから十二神将達は口を酸っぱくして晴明に「あの術を使うな」と言い含めるのだ。
やれやれとため息をつき、晴明は口を開いた。
「天后、すまんが紅蓮と勾陳を呼んできてくれ」
「……騰蛇もですか?」
露骨に嫌そうな顔をする天后に、青龍が無言で隠形する。すぐに消え去った気配に、わかりやすい奴じゃと晴明は嘆息した。天后も渋い顔をしていたが、他ならぬ主の命とあっては逆らえない。その姿が揺らめいたかと思うと見えなくなり、ついで気配も消えた。それからしばらくして神気が二つ、室内に顕現する。
「何の用だ、晴明」
「帰京して早々すまんな、紅蓮、勾陳」
「なに、そう疲れているわけでもないさ。雑魚どもを一匹残らず根絶やしにするのは少々骨を折ったが」
一月半前、都の外に現れた妖異を離魂術を使った晴明が退治に行った。親玉を調伏するのにそう手間がかかったわけではなかったのだが、その妖に付き従っていた手下の数が異様に多く、晴明は十二神将の数人を置いたまま都に戻っていたのだ。そして残していた神将達が帰ってきたのがつい数日前のこと。その中には紅蓮と勾陳も含まれており、晴明としてはもう少し休ませてやりたかったのだが――
「命令じゃ。今すぐ土御門殿に赴き異変を探ってこい」
「異変?」
紅蓮が軽く眉をひそめる。勾陳も考え深げな表情になり、晴明に問いかけた。
「……占には何も出ていなかったのではなかったのか?」
「占には何も示されていない。だがどうも良くない予感がする」
「陰陽師の勘か」
「そうだ」
続いた紅蓮の問いを肯定すると、紅蓮は踵を返し妻戸の側に立った。勾陳もその後に続く。紅蓮は妻戸を開けながらちらりと晴明に視線をやった。
「晴明」
「む?」
低い声がごく静かに、晴明の耳を打った。
「俺達に何かあっても、離魂術だけは使うなよ」
紅蓮の姿がかき消える。肩越しに振り返った勾陳も肩をすくめ、無言で消えた。
ひとり残された晴明は脇息に凭れると、長く息を吐いた。
「まったく……」
「いままでさんざん我らの言うことを聞いてこなかったつけだ。諦めろ」
空に漂った晴明の独り言を返したのは、戸口に顕現した玄武だった。開け放したままだった妻戸を閉め、玄武はじろりと晴明を睨む。その瞳は同じことを言いたくてたまらないのだと、雄弁に物語っていた。
じじっと、油を吸って燃える燈台の音が響く。もう夜も深い。紅蓮達が戻ってくるまで晴明は待つ気だったのだが――どうやら、玄武はそれを許してくれないらしい。
「晴明、とりあえずは寝ろ。何かあれば我が起こす」
「やれやれ、子供ではないというに……」
「晴明」
玄武の重々しい口調に棘が混じる。晴明は大人しく横になって袿をかぶった。
まだ天命ではない。だから大丈夫だと何度も言っているのに、神将達はそれをわかってくれない。
心配してくれるのは非常に嬉しいしありがたいのだが、こんな時、心配されすぎるというのは逆に困ったものだ。
まどろみ始めた意識の中で、晴明はふと、埒もないことを考えた。
(……そういえば)
あの夢を、もう一度見ることは叶うだろうか。
対流圏を突き破り、成層圏へと躍り出る。
白銀の龍は長大な体をくねらせ、冷たい西風を切り裂き、さらに上空へと伸びあがった。
望月の夜だ。すでに雲海は遥か下方に位置し、白々と輝いている。天蓋はただ一色、黒のみ。笠の内側を様々な色で飾っている星々を従えて、真円を描く月は、冴え冴えと月読の力を投げ掛けていた。
西風が東風に変わる。龍は上昇をやめ、薄い空気の中を悠々と泳いだ。四方の空気は雲海よりも暖かい。龍は温度などさほど気にはしない生き物だったが、はりつめた冷たさを持つこの天空は気に入っていた。
すべての源の生まれる場所は、かくあるべきなのだと実感できるから。
大洋の向こう岸。地平線の彼方、青く煙る大気のその下に存在する霊脈の鼓動。
点在する大陸を確かにつなぐ地の底の龍脈。
そして、天上をあまねく覆う星の気脈。霊子の大河。
循環する霊力は目に見えぬ血潮、八番目の大洋となって星を覆い、物質と結合して命を与えている。神代七代の伊邪那美が千の魂を奪おうが、伊邪那岐が千五百の魂を生むように、生命は無数の泡のごとく殖えていく。
世界は広大だった。原初・太極から始まった拡大は今なお衰えず、とどまるところを知らない。彼女とて、冷たい闇の向こう、星と星が結んだ絆の先にあるものがいったい何なのかを知るすべは持っていなかった。確かなのは、この不可視の大洋の存在が希少であるという、その一点のみだった。
だがそれで十分だった。なぜならば、彼女は見上げる存在ではなく、崇められ畏れられ祀られる存在だったからだ。天にまします者は、ただ見下ろしていればいい。それが彼女の役割だった。
結局のところ、天を見上げる者とは矮小な存在にすぎないのだろう。
龍は大河へと身を浸した。命の源が白銀の鱗にぶつかるたび波濤となってきらめく。ゆるやかな波間を縫うように泳ぎながら、彼女は鋭い牙の並んだあぎとを開き――
水流を、呑み込んだ。
とたん霊力の奔流が渦を巻き龍身をまっすぐに貫く。透明な細胞のひとつひとつに霊子が浸透し、体を熱くみなぎらせる。この瞬間大河は彼女の一部であり、彼女は大河そのものだった。原初の海に加えられたひとしずく、それが彼女だった。
自我を保ったまま肉体が拡散していく感覚が意識を支配する。同時に、現実に存在する肉体が霊力の高まりにざわめいた。前足に握りしめた龍珠が閃光を放つ。体内で膨れ上がる霊圧に貴船の祭神高龗神はらんらんと眼をきらめかせ、昂りに身を任し、牙をむき出した。
雷鳴。
――天空に響き渡ったのは、まさしく鳴神だった。鉄槌のごとき雷の咆哮。あまねく生命がひれ伏す神の猛り。心の臓を鷲掴みにされ、腹の底から湧き出る畏怖。
遠雷のように喉を鳴らし、高淤はゆっくりと霊力の流れの中で旋回した。正と負に分かれ帯電した大気が軋み、重苦しく音を立てる。
先ほど取り込んだ霊子は、すでに彼女の内に存在してはいなかった。大河はただ流れるもの。留まることはなく、星から生まれ、星に還る。それが大洋に連なるものの全てだ。何者も、星の霊力を喰らうことはできない。
貴船の龍神はたまにこうして天上へ昇り、霊脈にその身を躍らせていた。彼女の通力が増すというわけでもないので、この行為はあまり意味はない。単純に、ただの気分転換で行っているだけの話である。神の時間は長い、暇を潰すための遊びのようなものだ。
ただしこれは高龗神だからこそできる気分転換でもあった。位の低い神や妖では天上に辿りつくこともできないだろうし、霊脈の波飛沫に触れただけであてられて命を吸い取られる可能性がある。極めて高度な、かつ難易度の高い遊びだ。
気分が良い。高淤は潜行した。ほどなくして霊脈の底に突き当り、全身がとぷりと外気に触れる。長大な本性を波うたたせながら、彼女は大河に別れを告げた。
重力の力を借りて高速で落下する。あっという間に雲海に到着し、高みから自身の住まいを俯瞰する。緑の国土、隆起する山々、海へそそぐ河川。その中、彼女の神体でもある霊峰にある気配を感じて、高淤は長い髭をぴんと緊張に張り詰めた。ゆっくりと探る。――貴船の最奥、人が立ち入ることのない禁域に、侵入者がいる。
『おや、これは……』
気配の正体を探り当て、彼女は僅かに目を瞠った。瞬時に本性から人身へと転変する。空を裂いて禁域の巌へ降り立つと、小さな人影が木々の間に隠れるようにしてあった。
氷の如き白く冷たい神気が立ち上り、場を支配する。人影は凭れていた大樹から離れ、彼女に向かって一礼した。
「お久しぶりです、高淤の神。ご無沙汰をしていました」
「全くだな。……何十年ぶりだ?」
「八十年、といったところでしょうか」
「晶霞が初めてお前を連れてきたのが百年前か。そのあとはあまり顔を見せなかったな。……お前の所業はしばしば風に乗って耳に入ったが」
「……そんなに噂になってますか?」
「おせっかいな異国の天狐」
腰に手を当てて高淤が揶揄すると、人影は苦笑して頬を掻いた。
「それで、晶霞ともどもこの地に近づかないようにしていたようだが、ここにきて何の用がある」
「お見通しですね」
「親交を温めにきたわけではないのだろう。私を誰だと思っている」
樹上から漏れる月明かりが人影を照らす。佇んでいるのは子どもだった。黒い衣を纏った子ども――子どもにしか見えない妖は、困ったように首を傾げる。禁域に吹く風が結った長い黒髪を揺らした。
「今日はお願いがあって来たんです」
ふむ、と高淤は顎を引いた。巌にすとんと腰をおろし、片膝を立てる。口元は面白がっているのか笑みをたたえたままだ。この神と子どもは特別仲が良いわけではないから、こうして話を聞く態度をとってもらえるだけ僥倖というものだった。
子どもが背筋を伸ばし、高淤を見上げる。
「そのうちここに晶霞が来ると思います。そしたら匿ってやってください」
「ほう?」
「それと貴女のお膝元で少々暴れることになってしまうので、そのことを了解して頂きたい」
高淤は考えるように唇に指をやったが、すぐに唇を吊り上げた。子どもを片手で手招きする。子どもは少し躊躇する素振りを見せた。だが、記紀にも記載されているこの龍神に逆らうことは異国の妖とてそうそう許されない。
地を軽く蹴るとふわりと宙に浮かぶ。子どもは高淤の傍に着地した。彼女にならって同じように腰をおろすと、龍神は前触れもなく子どものおとがいに指を伸ばし、くいと上向かせた。ぎょっとした子どもが固まる。高淤は面白そうに、その様を玲瓏な瞳で覗きこんだ。
「ときに、」
悠然として、高淤は続けた。
「私がただで何かをしてやるとでも思ったか?」
子どもの黒瞳が凍りついた。冷や汗が幼い顔にじわりと浮かぶ。
すっかり氷像のようになってしまった子どもに、貴船の祭神は意地悪く目を細めた。
「――冗談だ」
指が離れると、子どもは背を丸めて肺の中が空になるまで息を吐き出した。高淤はくつくつと喉の奥で笑う。送られる恨みがましい視線が、むしろ心地良い。
「お前には借りがある。その程度のことなら聞いてやろう」
「……ありがとうございます」
子どもの気配が緩む。ほっと息をつき、安堵する妖の気配を高淤はそっと探った。
最後に会った時よりも霊力は回復し、数段強さを増している。見違えるほどに。
が、首に巻かれた包帯の下からは、じわじわと零れ出る何かが感じられた。
無意識の仕草なのだろう、慣れた様子で子どもは首を撫でながら、ああ、と呟いて空中を眺めた。
「忘れてました。あともうひとつ、伝言をお願いします」
「晶霞にか?」
「はい」
妖は巌から離れ、ゆっくりと宙を漂いながら高淤に向き直った。
「誓約を忘れるな、と」
真摯な光がその双眸に宿っている。
高淤はじっとその光を見つめ、承知した、と短く答えを返した。
貴船の山林に吹く風が一時その勢いを増す。高淤の髪を揺らし、子どもの髪を揺らし――枯葉が幹を叩く。びょうと耳をつんざく風音に紛れ、場を辞する囁きが届く。かと思うと、子どもの姿はもうどこにも見当たらなかった。
まるで闇に溶けたかのように。
「神に通じる力を持つ妖狐か……」
高淤はひとりごちると、人身を解いた。瞬く間に見鬼にしか見えぬ白銀の龍が地から天へと雲を突き抜けて昇る。頭をめぐらし遥か彼方から平安の都を見下ろして、龍神は先程の子どもに思いを馳せた。
――妖でありながら神に通じる力を持ち、また人間にも近い妖に。