対流圏を突き破り、成層圏へと躍り出る。
白銀の龍は長大な体をくねらせ、冷たい西風を切り裂き、さらに上空へと伸びあがった。
望月の夜だ。すでに雲海は遥か下方に位置し、白々と輝いている。天蓋はただ一色、黒のみ。笠の内側を様々な色で飾っている星々を従えて、真円を描く月は、冴え冴えと月読の力を投げ掛けていた。
西風が東風に変わる。龍は上昇をやめ、薄い空気の中を悠々と泳いだ。四方の空気は雲海よりも暖かい。龍は温度などさほど気にはしない生き物だったが、はりつめた冷たさを持つこの天空は気に入っていた。
すべての源の生まれる場所は、かくあるべきなのだと実感できるから。
大洋の向こう岸。地平線の彼方、青く煙る大気のその下に存在する霊脈の鼓動。
点在する大陸を確かにつなぐ地の底の龍脈。
そして、天上をあまねく覆う星の気脈。霊子の大河。
循環する霊力は目に見えぬ血潮、八番目の大洋となって星を覆い、物質と結合して命を与えている。神代七代の伊邪那美が千の魂を奪おうが、伊邪那岐が千五百の魂を生むように、生命は無数の泡のごとく殖えていく。
世界は広大だった。原初・太極から始まった拡大は今なお衰えず、とどまるところを知らない。彼女とて、冷たい闇の向こう、星と星が結んだ絆の先にあるものがいったい何なのかを知るすべは持っていなかった。確かなのは、この不可視の大洋の存在が希少であるという、その一点のみだった。
だがそれで十分だった。なぜならば、彼女は見上げる存在ではなく、崇められ畏れられ祀られる存在だったからだ。天にまします者は、ただ見下ろしていればいい。それが彼女の役割だった。
結局のところ、天を見上げる者とは矮小な存在にすぎないのだろう。
龍は大河へと身を浸した。命の源が白銀の鱗にぶつかるたび波濤となってきらめく。ゆるやかな波間を縫うように泳ぎながら、彼女は鋭い牙の並んだあぎとを開き――
水流を、呑み込んだ。
とたん霊力の奔流が渦を巻き龍身をまっすぐに貫く。透明な細胞のひとつひとつに霊子が浸透し、体を熱くみなぎらせる。この瞬間大河は彼女の一部であり、彼女は大河そのものだった。原初の海に加えられたひとしずく、それが彼女だった。
自我を保ったまま肉体が拡散していく感覚が意識を支配する。同時に、現実に存在する肉体が霊力の高まりにざわめいた。前足に握りしめた龍珠が閃光を放つ。体内で膨れ上がる霊圧に貴船の祭神高龗神はらんらんと眼をきらめかせ、昂りに身を任し、牙をむき出した。
雷鳴。
――天空に響き渡ったのは、まさしく鳴神だった。鉄槌のごとき雷の咆哮。あまねく生命がひれ伏す神の猛り。心の臓を鷲掴みにされ、腹の底から湧き出る畏怖。
遠雷のように喉を鳴らし、高淤はゆっくりと霊力の流れの中で旋回した。正と負に分かれ帯電した大気が軋み、重苦しく音を立てる。
先ほど取り込んだ霊子は、すでに彼女の内に存在してはいなかった。大河はただ流れるもの。留まることはなく、星から生まれ、星に還る。それが大洋に連なるものの全てだ。何者も、星の霊力を喰らうことはできない。
貴船の龍神はたまにこうして天上へ昇り、霊脈にその身を躍らせていた。彼女の通力が増すというわけでもないので、この行為はあまり意味はない。単純に、ただの気分転換で行っているだけの話である。神の時間は長い、暇を潰すための遊びのようなものだ。
ただしこれは高龗神だからこそできる気分転換でもあった。位の低い神や妖では天上に辿りつくこともできないだろうし、霊脈の波飛沫に触れただけであてられて命を吸い取られる可能性がある。極めて高度な、かつ難易度の高い遊びだ。
気分が良い。高淤は潜行した。ほどなくして霊脈の底に突き当り、全身がとぷりと外気に触れる。長大な本性を波うたたせながら、彼女は大河に別れを告げた。
重力の力を借りて高速で落下する。あっという間に雲海に到着し、高みから自身の住まいを俯瞰する。緑の国土、隆起する山々、海へそそぐ河川。その中、彼女の神体でもある霊峰にある気配を感じて、高淤は長い髭をぴんと緊張に張り詰めた。ゆっくりと探る。――貴船の最奥、人が立ち入ることのない禁域に、侵入者がいる。
『おや、これは……』
気配の正体を探り当て、彼女は僅かに目を瞠った。瞬時に本性から人身へと転変する。空を裂いて禁域の巌へ降り立つと、小さな人影が木々の間に隠れるようにしてあった。
氷の如き白く冷たい神気が立ち上り、場を支配する。人影は凭れていた大樹から離れ、彼女に向かって一礼した。
「お久しぶりです、高淤の神。ご無沙汰をしていました」
「全くだな。……何十年ぶりだ?」
「八十年、といったところでしょうか」
「晶霞が初めてお前を連れてきたのが百年前か。そのあとはあまり顔を見せなかったな。……お前の所業はしばしば風に乗って耳に入ったが」
「……そんなに噂になってますか?」
「おせっかいな異国の天狐」
腰に手を当てて高淤が揶揄すると、人影は苦笑して頬を掻いた。
「それで、晶霞ともどもこの地に近づかないようにしていたようだが、ここにきて何の用がある」
「お見通しですね」
「親交を温めにきたわけではないのだろう。私を誰だと思っている」
樹上から漏れる月明かりが人影を照らす。佇んでいるのは子どもだった。黒い衣を纏った子ども――子どもにしか見えない妖は、困ったように首を傾げる。禁域に吹く風が結った長い黒髪を揺らした。
「今日はお願いがあって来たんです」
ふむ、と高淤は顎を引いた。巌にすとんと腰をおろし、片膝を立てる。口元は面白がっているのか笑みをたたえたままだ。この神と子どもは特別仲が良いわけではないから、こうして話を聞く態度をとってもらえるだけ僥倖というものだった。
子どもが背筋を伸ばし、高淤を見上げる。
「そのうちここに晶霞が来ると思います。そしたら匿ってやってください」
「ほう?」
「それと貴女のお膝元で少々暴れることになってしまうので、そのことを了解して頂きたい」
高淤は考えるように唇に指をやったが、すぐに唇を吊り上げた。子どもを片手で手招きする。子どもは少し躊躇する素振りを見せた。だが、記紀にも記載されているこの龍神に逆らうことは異国の妖とてそうそう許されない。
地を軽く蹴るとふわりと宙に浮かぶ。子どもは高淤の傍に着地した。彼女にならって同じように腰をおろすと、龍神は前触れもなく子どものおとがいに指を伸ばし、くいと上向かせた。ぎょっとした子どもが固まる。高淤は面白そうに、その様を玲瓏な瞳で覗きこんだ。
「ときに、」
悠然として、高淤は続けた。
「私がただで何かをしてやるとでも思ったか?」
子どもの黒瞳が凍りついた。冷や汗が幼い顔にじわりと浮かぶ。
すっかり氷像のようになってしまった子どもに、貴船の祭神は意地悪く目を細めた。
「――冗談だ」
指が離れると、子どもは背を丸めて肺の中が空になるまで息を吐き出した。高淤はくつくつと喉の奥で笑う。送られる恨みがましい視線が、むしろ心地良い。
「お前には借りがある。その程度のことなら聞いてやろう」
「……ありがとうございます」
子どもの気配が緩む。ほっと息をつき、安堵する妖の気配を高淤はそっと探った。
最後に会った時よりも霊力は回復し、数段強さを増している。見違えるほどに。
が、首に巻かれた包帯の下からは、じわじわと零れ出る何かが感じられた。
無意識の仕草なのだろう、慣れた様子で子どもは首を撫でながら、ああ、と呟いて空中を眺めた。
「忘れてました。あともうひとつ、伝言をお願いします」
「晶霞にか?」
「はい」
妖は巌から離れ、ゆっくりと宙を漂いながら高淤に向き直った。
「誓約を忘れるな、と」
真摯な光がその双眸に宿っている。
高淤はじっとその光を見つめ、承知した、と短く答えを返した。
貴船の山林に吹く風が一時その勢いを増す。高淤の髪を揺らし、子どもの髪を揺らし――枯葉が幹を叩く。びょうと耳をつんざく風音に紛れ、場を辞する囁きが届く。かと思うと、子どもの姿はもうどこにも見当たらなかった。
まるで闇に溶けたかのように。
「神に通じる力を持つ妖狐か……」
高淤はひとりごちると、人身を解いた。瞬く間に見鬼にしか見えぬ白銀の龍が地から天へと雲を突き抜けて昇る。頭をめぐらし遥か彼方から平安の都を見下ろして、龍神は先程の子どもに思いを馳せた。
――妖でありながら神に通じる力を持ち、また人間にも近い妖に。
遊戯王終ってしまって残念だ…
見に行きたかったのにー!!!
読み直さなくていいから。
読破とかしなくていいから。
作品もキャラもわかんないのに無理しなくていいから。
遊戯王はDVD出るのか分かりませんが、出たら絶対に貸しますね!