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 体調を崩し宿下がりしている中宮がいる土御門殿に忍びこむなど、人であれば絶対に許されない行為だ。だが神の眷属たる神将には人間の決まりごとなど何の意味も持たない。
 軽々と築地塀を跳び越え広大な庭に降り立った二人は、敷地全体に充満する妖気に表情を硬くした。――僧が生みだし操る幻妖と同種の玄い気配。重たく凝っているその妖気は寝殿のほうから濃く漂いだしている。
「これだけの妖気がありながら、晴明の占が何も示さなかっただと……?」
「何者かが占を捻じ曲げていたと考えるのが妥当だろうな」
 紅蓮の金の瞳が勾陳に向いた。
「あの僧だと思うか?」
「いや……」
 勾陳は緩く首を振った。僧の法力が確かなものだということはその身をもって知っている。だが占を捻じ曲げるほどの力とは思えなかった。安倍晴明の占を別の結果にすりかえるには、あれよりも強大な妖力、ないし霊力が必要だろう。
 紅蓮も勾陳と同じ予想をしているのか、不機嫌そうに庭を見渡した。
「気に入らんな」
 寝殿を目指し庭を横断する。と、人が倒れているのを見つけ、彼らは足を止めた。中宮の警護のため土御門殿に配されている人間だろう。抱き起こしてみるが、脈もあるし息もある。ただ昏倒しているだけだ。おそらくこの呪詛の妖気にあてられて倒れたのだろう。見はるかせば他にも幾人か地面の上に倒れ伏しているのが見受けられた。
 警護の兵はひとまず置き去りにし、悪い予感に背を押されて紅蓮達は寝殿に上がりこんだ。ここでも室内や渡殿で女房や舎人が昏倒している。この分では中宮も相当危険な状態だろう。
「まずいな」
「どうする。……晴明を呼ぶか?」
 気が進まなさそうに提案された意見に、勾陳はしばし考えこんだ。もし先程の僧に出くわした場合、今の晴明では危険すぎる。彼はなるべく安静にさせ、代わりに十二神将が動くことが最善の策なはずだ。
 針のような気配の呪詛がぴりぴりと足の裏を刺す。そう考えていられる猶予はない。
 髪を揺らし勾陳は顔を上げた。
「呪物がどこかにあるはずだ。それを破壊しよう」
「わかった」
 紅蓮は頷き身を翻した。地面に跳び下り、勾陳と二手に分かれる。彼は玄い気配に集中して慎重に歩を進めた。妖気が最も濃いところ――すなわちそこが妖気の噴出点、呪詛の媒介がある場所だ。
 妖気を探り追いかけていた紅蓮は足を止めた。ごく近くから妖気が噴き出している。鋭い目で周囲をぐるりと見回し、彼はある一点に視線を注いだ。
 寝殿の角に作られた盛り土。そこから湧きだしている真っ黒な妖気。
 近づき盛り土を崩すと、中から現れたのは黒い糸だった。糸にしては光沢のあるそれには見覚えがある。
「髪……?」
 先程の闘いで子供の妖が言っていたことを思いだし、紅蓮は独りごちた。
 触れるとすうっと神気が吸いとられていく。この感触は間違いなく、あの時僧が使用していたものだ。
 つまんだ糸を通し、妖気――呪詛の根が地中にまで及び、土御門殿を侵食しているのが手に取るように理解できた。だが、紅蓮や勾陳では地中の呪詛まで浄化できない。この髪自体を消すのは簡単だが、呪詛を消すには媒体であるこの黒髪と同時に浄化する必要がある。
 どうしたものかと考えこむ紅蓮の耳に砂を踏む音が届き、彼は頭を上げた。
「見つけたか、騰蛇」
「ああ」
「私もあちらで一つ見つけた。探る限りこれで全てのようだが……」
「晴明は呼べない。玄武か天一あたりに連絡を取って来てもらおう」
「呪物は見つけた?」
 唐突に響いた声に驚き、紅蓮と勾陳はばっと背後を振り返った。数瞬前まで誰もいなかったはずの場所に黒衣の子どもが立っている。――何も気配がしなかった。こうして姿を見せている今でも、子どもの気配はひどく薄い。
「……何の用だ」
「ちょっと気になったからね」
 妖は気軽に紅蓮へと近づくと、彼の手にあった黒髪をひょいとつまんだ。瞬時に髪がぼっと音を立てて燃える。同時に地面を通して感じられていた呪詛が跡形もなく消えていった。大気に漂う妖気も分解されて溶けていく。
 さわりと頬を撫でる風に、勾陳ははっと気づいて寝殿の反対側の気配を探った。――妖気が消えている。土御門殿を覆っていた妖気も呪詛も、何もかもが浄化されている。
 手に残った灰を払い、妖は爪先で盛り土をならした。
「他の髪も全部燃やしておいた。今のが最後だよ」
 土が均等にならされる。妖は腰に手を当てると、己よりずっと長身の神将達を見上げた。
「安倍晴明を邸から出してはいけない」
 二人の動きが凍りつく。そんな紅蓮と勾陳に真剣な双眸を向け、妖はさらに言葉を紡いだ。
「彼を生かしておきたいのなら絶対に外へ出すな」
「……どういう意味だ。お前は何を知っている。何者だ」
 紅蓮の声音がすっと冷える。刺々しい神気がじわりと妖の肌を刺す。
 どんな化生のものでも怯えるだろうその神気をまるで感じないような顔をして、子どもは受け流した。
「彼を巻きこみたくない。妖同士の争いに眷属を引きこむのは俺の本意じゃないんだ」
「眷属?」
 勾陳が一歩足を踏みだす。
 安倍晴明は狐の子と言われている。人間の間ではただの噂だが、それは真実だ。
「天狐同士で争っているのか?」
 妖がどこか傷ついたようにふっと視線を逸らした。その拳は硬く握り締められている。何かを堪えるように唇を噛みしめ、妖は再度神将達を見上げた。
「とにかく、彼を外に出しては……」
 突然、ふっと言葉が途切れる。子どもは大きく目を見開くと、ばっと天を仰いだ。
「阻め!」
 込められた言霊が堅牢な防壁を築く。次の瞬間閃光が弾け、三人は腕をかざして目を庇った。
 閉ざされた視界で響く轟音。だがその中で紅蓮は妖の唸る声を聞いた。苦しさに満ちた、声を。
「凌壽……!!」

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