久々に3000字です。ほんとはもうちょっと長くなりそうだったんですが、さすがに4000とか5000は長すぎるな……と思って自重しました。その分第六章がもっと長くなる罠。
さあ、めっためたのお時間です。
一刻半の後、三人が風で戻ってきた。
青龍との無言の時間に耐えかねていた昌浩があからさまにほっとして出迎える。気難しい神将の相手などできるはずもないので、昌浩は青龍と口を利いていなかった。当然会話など起こるはずもない。
土御門殿に近づく危険の兆候はなく、また六合たちの道中も何もなかったそうだ。晴明の息子の身に累が及ばなかったことに昌浩は胸をなでおろしたが、心の底から喜べたわけではなかった。
敵に動きはなく、僧の気配は感じられなかった。つまり昌浩を囮としたこの作戦が失敗に終わったことを意味している。
「出なかったわね……」
青龍一人を土御門殿に残し、皆を安倍邸に運ぶ手はずを言いつかっていた太陰は、何の収穫もなかったことに不機嫌になっている。見かねたのか、六合が珍しく重い口を開けて慰めた。
「敵が慎重になっていると考えたほうがいい。こちらにも天狐がいるのだから」
「それはそれで腹に据えかねるのよ。だってわたしたち十二神将が人間に侮られてるってことじゃない」
「そもそも、」玄武が不審げに後を継いだ。
「騰蛇と勾陣の二人を押さえこめる法力を持つ人間など、本当に存在するのか?」
一同が眉を顰めて小さな神将を見やる。彼は指を顎に当てて、神経質そうに片足で桧皮葺の屋根を擦った。
「末席とはいえ我らは神。晴明ですらそのような真似、軽々とできるものではない。――昌浩。僧は本当に、人間であったのか?」
視線が年若い天狐に集中した。
昌浩が黒曜の瞳を伏せる――数日前の記憶、肌で感じた霊力を思い起こしているように、視線が揺れる。
「……彼は……」
惑うように、唇が震える。
だが次の瞬間、昌浩は瞳を大きく見開いて背後を顧みた。
「いた!!」
「なに?」
「北……すぐそこの辻!」
怪僧のおぞましい法力が神経に触れ、昌浩は叫んだ。怪訝に聞き返されて答えを返すことすらもどかしい。
感覚する――僧はまだ気付いていない。
杉皮を蹴って屋根の縁に進む。そのまま飛び出そうとする昌浩の腕を、誰かが掴んで押しとどめた。弾みでつんのめる。
抗議のために見上げた先には、無口な神将がいた。
「なにするんだ! せっかく見つけたのに――」
「突出するな」
ぐいと引き戻し、六合は手短に同胞に指示した。
「太陰、風を。青龍は警護を」
「わかったわ!」
太陰が応じる/青龍が舌打ちする。
神気によって創られた大気の渦が、青龍以外を瞬時に閉じ込め上空に舞い上がった。
凌壽と僧を敵とした一連の戦いの主導権を握っているのは、狩る立場である敵側だ。守らなければならないものの多い晴明たちは、自然、防衛に力を入れてしまう。それでは後手に回らざるを得なくなり、先手を取ることは難しくなる。すなわち、相手の不意を突く奇襲を行うことができない。彼らは今圧倒的に不利な状態に置かれていた。そんな中、奇襲を行う好機――悟られる前に相手の位置を特定できたことは行幸に近く、この機宜を逃すわけにはいかないのだった。
「あそこね!」
加速は即時。あっという間に目指す四つ辻に近づく。と、眼下では網代笠をかぶった大柄な僧が素早く踵を返そうとしていた。
「間違いない、あいつだ!」
面々の中で唯一僧を目にしている昌浩が確認を取る。ちらりと覗いた面影は間違いなく、あの時の壮年の男だった。
「太陰、俺を落とせ」
「でも六合、」
「心配ない。結界は頼んだ」
太陰が大きく眦を決する。だがすぐに彼女はきっと唇を引き結び、僧の頭上へと追い付くと竜巻の中から六合を放り出した。
僧が反応し、天を仰ぐ。六合の長布が音を立てて広がる――左手首の銀輪が輝き、流水の如く形を変える。
現れた銀槍を手にし、六合は鋭く得物を振り下ろした。
自重と加速の加重を乗せて、一撃が怪僧の脳天に直撃する。
――金属音。
六合渾身の攻めは届いていなかった。ぎりぎりのところで僧は錫杖を翳し受け止めていたのだ。
僧が錫杖を捻り、槍を絡め取ろうとする。察した六合が力を反転し、逆に得物を奪い取ろうと試みる。数瞬の絡み合い――しかし、昌浩たちにはそれで十分だった。
「結!」
仄白い焔と共に空間が隔絶する。人界とは僅かに位相のずれた空間に閉じ込める。
狐火に満たされた、昌浩の支配する異空間。けれど僧は間一髪、大きく飛び離れると遊環を鋭く鳴らして己の周りに小さな結界を築き、狐火の進行を妨げた。着地した昌浩と玄武、太陰を認め、僧は舌打ちと共に錫杖を構えた。
六合も油断なく銀槍を構え、間合いをはかっている。
僧の腕は大したものだった。加えてかなりの剛力である。六合と数合打ち合える人間が存在するとは、と玄武は舌を巻いた。
できればあのまま接近戦を続け、僧に術を使う隙を与えぬようにしたかった。けれどそうも言っていられぬほどの腕前である。現に、あの六合が術の発動に反応できなかった。
さらに、理のこともある。十二神将は親たる人間を傷つけてはならない――怪僧を討つのはあくまでも昌浩でなくてはならないのだ。
だが遠距離戦を得手としている昌浩の力を完全に発揮するためには、今度は側で打ち合う六合が邪魔になる。まったく、彼らと僧は相性の悪い相手だった。
「ひとつ訊きたい」
昌浩が前に出る。何を悠長な、と玄武は非難がましく彼を見上げた。
が、言葉は出ずに終わる。――彼の眼差しが、何物をも寄せ付けずに燃え上っていた。
その奥に秘められた感情が何なのか、玄武に読み取ることはできなかった。
「何故中宮を狙う」
続けて、昌浩はゆっくりと勧告した。
「答えろ。……大人しく降伏すれば、命までは取らない」
(馬鹿な)
玄武と太陰は驚いて、小柄な天狐に目をやった。……何を言い出すのだ、彼は。
笠の下で、僧の目が細くなる。そのまま、くつりと笑いが漏れた。墨染の僧衣が上下し、手にした得物の先の遊環が揺れる。金属の擦れ合う甲高い響きが広がる。
その音に誰もが集中したその瞬間、黒衣の袖口からほつれた糸が滑り落ちた。
黒い糸。その糸が、狐火のない地表に触れる。
瞬間、僧の足下から妖気が噴き出した。
「――――!?」
誰もがはっと息を呑んで、糸の正体を悟った。
黒糸――いいや違う、あれは毛髪。
凌壽の髪だ。
神将たちの様を嘲笑い、僧はいっそ悠然として錫杖を地に打ち付けた。
「我が名は丞按。覚えておけ――藤原の血を滅ぼす者の名をなあ!」
途端、漆黒の化け物が地面からぬうっと鎌首を持ち上げた。
一匹ではない。いくつもいくつも、沼地に湧く泡のように後から後へと現れる四足の幻妖が、狭い円の中から億劫そうに前足を引き抜いている。
躊躇する余裕は、もうとっくに無くなっていた。
昌浩は奥歯を噛み締めた。降伏など、聞き入れられるはずがないことは重々承知していた――けれども、どうしてもしたかったのだ。
そのツケがこれか。苦々しく目を細め、昌浩は白炎に命じた。
「顕れろ!」
空間を満たす焔は従順だった。焔の一部が僧――丞按を取り囲むように凝縮する。密度を高め、高物質化した焔は四体の獣の姿をとった。長い口吻、すらりとした手足、ふさふさとした尻尾――微かに揺らめきを残した四匹の白狐は、牙を剥いて主人の命に従った。次々に幻妖に飛びかかると、俊敏な動きで翻弄する。的確に首を狙い続けるその姿勢は、よく訓練された猟犬のそれだった。
だが幻妖の勢いはそれをも凌ぐ。同族の屍を踏み越える獣を目にして、玄武は眉を吊り上げると両手を翳した。
「波流壁!」
透明な水の障壁が丞按と幻妖を閉じ込めるべく収束する。しかし響く金属音がそれを妨害した。
流水が敢えなく散り、飛沫と化す。丞按の術が押し勝ったのだ。
「馬鹿なっ……」
愕然となる玄武を六合が素早く庇う。
先週はなんも言わずお休みして申し訳ありません。まあ……リアルで色々あるものでして。いや自分が悪いんすけどね。自分自身が原因なんで、それでへこんでちゃ駄目ですよね。あきませんよね。
自戒として一週間ブログに触っていませんでした。今日から再び更新です。
お詫びの印と言っては何ですが、明日の午後7時にもう一話更新します。どうもすみませんでした。
30日追記≫
すみません、7時ムリっす……10時にしてください……すみません……
敷地をほとんど半分横切る距離を歩いて、前栽の木立に分け入っていく。
築地塀の隅に辿り着くと、昌浩は深く息を吸い込み、吐き出した。その行程を何回か重ね、気息を整えていくと同時に霊力を練り上げていく。天狐の狐火の波動が収束され、燠火から篝火へ、そして閃光を放つ玉へと変貌していく様が、神将たる太陰と玄武の眼にははっきりと映っていた。
小さな気合いと共に、片方の踵が地面を叩く。
たったそれだけで、練り上げられた霊力は結界の基礎として形を得た。
玄武はしげしげと枯れ葉に覆われた地表を見つめていた。天狐の通力は周囲の地霊や木霊と喧嘩することなく、かといって押しのけるでもなく、自然に根付いている。
人間や神族より自然との親和性が高い妖だからこその業か――それとも、天狐であるが故の技量の高さのためなのだろうか。
どうやら大がかりな結界を作るための基点の一つにすぎないそれを注意深く観察しながら、玄武は喉の奥で唸り声を上げた。
悔しいが、玄武の織りなす結界よりも相当強靭なものになるのは間違いないだろう。
おそらくは天空と同程度――もしくはそれ以上、だ。
徒人 にはけっして見えぬ輝きの残光を振り切り、玄武は昌浩を見上げた。天狐が小さく息をついて、それからきょとんと見返してくる。その双眸に、彼は率直に尋ねた。
「何故こんな回りくどい方法を取るのだ?」
昌浩が、ゆっくりと瞬きする。
無言のままに続きを促され、小さな神将は物怖じせずに口を開いた。
「天狐ほどの妖なら、この屋敷を囲む結界など造作もなく創れるのだろう?」
言い終えてから、玄武はしまったというように唇を噛んだ。これでは、まるで自分が僻んでいるかのように聞こえるではないか。
事実、太陰はそう受け止めたらしい。はっと口元を押さえて、らしくもなくおろおろと二人を見比べている。
けれども昌浩は気付いているのかいないのか、平然として玄武の問いに答えた。
「相手は凌壽の力を使ってるんだもの。念には念を入れなきゃならないし、俺は形振り構っていられないんだ」
本当は体の一部分――髪や爪、そして血を媒体にして築き上げてもよかったのだが、そうすると昌浩が倒れた場合結界も同時に崩壊する。自身の欠片を通して常に霊力を注ぐことになるので、本体が死ぬとすぐに結界を維持する霊力が枯渇するためだ。人であれば何か法具を使えばいいのだろうが、あいにく昌浩は妖。半永久的に機能するものを、となると霊力の凝集体を創るしか手がないのだ。
たとえそれが、人間の技術を踏襲したものであろうと。
妖の矜持さえかなぐり捨てねばならぬほど、凌壽という天狐は強大なのだ。
さっと青くなって、太陰と玄武は小さな拳を握りしめる。
同じ天狐である昌浩がここまで警戒する敵を、彼らは直接見てはいない。ただ話されただけだ――十二神将一番手と二番手でさえ、まともに戦って勝てるかどうか分からない相手だと、本人たちから。
老練な主は離魂術が使えず、満足に力を奮うことができない。
はたして十二神将と昌浩だけで、本当に凌壽を倒せるのだろうか――?
小さな神将たちがすっかり固くなる。昌浩は優しく微笑して、二人の肩を宥めるように叩いた。
「あまり悲観しないで。大丈夫、数のうちじゃ二対十三じゃないか。きっと勝てるよ」
玄武がじろりと睨み上げる。太陰も青いまま不満げに、「そういう問題?」と言い返した。
「楽観しすぎるのもどうかと我は思うぞ」
「だって、仲間がこんなにいるじゃないか」
「それは……そうだが」
もごもごと玄武が黙り込む。太陰も言い返せずに口籠っていると、昌浩は声を明るくして、「それに、」と付け加えた。
「俺を助けてくれてた赤くて大きなひとは、きっと凌壽にだって負けないよ」
思わず、太陰は玄武と顔を見合わせてしまった。
“赤くて大きなひと”といったら、彼らには一人しか思い当たらない。
じわりと額に汗が滲むのを感じながら、玄武はおそるおそるその名を口にした。
「それは……騰蛇のことか?」
「あ、そういう名前なの?」
ぱあっと頬を朱に染めて、昌浩は嬉しそうに身を乗り出した。
「直接聞こうと思ってたんだけど、色々あって聞きそびれてたんだ。――そっか、騰蛇っていうんだ」
どうしたって隠しきれない好意が滲み出ている。目眩すら覚えて、太陰は後退りながら困惑した声を上げた。
「ちょっと正気?! なんで好きになれるの? あんた最初の夜あいつに」
「太陰!」
慌てて玄武が太陰の口を塞ぐ。太陰はもごもごと抗議したが、玄武は彼女をしーっと制して、若干後ろめたそうに昌浩をちらりと目をやった。
まさか紅蓮に一度殺されかけていたとは露ほども知らない昌浩は、幸せそうにはにかんでいる。
「助けてくれたから、ちゃんとお礼を言わなくちゃと思ってたんだ。――恩人だもの」
誰が見ても、彼が心の底から感謝していることを悟れただろう。
だから、太陰と玄武は口を噤むしかなかった。もし他の賢明な神将がこの場にいても、きっと同じようにしただろう――何故ならば。
愛しむような、恥じらんだ笑みを、曇らせることは到底できそうになかったからだ。
◆◆◆
渦巻く風の音が上空から接近してくる。
六合は屋敷に被害が出るだろうか、と一瞬思案した。けれども、対処するには時間が足りない。彼が反応するより早く、次の瞬間には妖と神将が一人ずつ寝殿の屋根に放り出されていた。
「いった!」
「……太陰……」
「軟弱な男共ねえ、情けないったらありゃしないわ」
一人風を纏って穏やかに降り立った太陰は、昌浩と玄武を見下ろしながらつんと顎を反らした。結界を創るのに四隅を回らねばならないと聞いて、張り切った彼女は時間短縮という名目で昌浩を竜巻に乗せたのだが、短時間乗っただけだというのに彼はへばってしまっていた。すっかり酔ったようだ。
「そんななりで晴明を守れるのか、天狐」
青龍が冷たく睥睨する。ぐったりとしていた昌浩はむっとして、頭をもたげて彼を睨んだ。言い争いこそ起こらないものの、不穏な空気が場を支配していく。
やれやれ、と己以外には誰も気付かない嘆息をついて、六合は口を開いた。
「吉昌の祈祷が終わったようだ」
全員の視線が六合に集まる。気配を探ってみれば確かにその通りで、皆の意識は晴明より下された任務へと瞬時に切り替わった。
玄武が屋敷の中を見透かすように目を細める。
「我と太陰、六合が吉昌に付いて一旦屋敷に戻る。その後昌浩を迎えに戻り、僧と凌壽の出方を見る、だったな」
土御門殿の警護は青龍一人に任されることになるが、結界が張られた今はそれで十分だろう。それに、昌浩の言を信じるならば、今現在最も敵に狙われているのは中宮ではない。
昌浩だ。
僧は一番の障害である彼を真っ先に排除しようとするに違いない。そして凌壽は昌浩が弱らない限り動くことはないだろう。つまり今回晴明が昌浩を使ったのは、ただ結界を張ることだけが目的ではなく、彼を囮として僧を誘き出し仕留めることが真の狙いだったのだ。
人間相手では全力を出せぬ神将たちはその補佐を。
――僧を殺すのは、昌浩でなくてはならない。
太陰、玄武、六合の姿が掻き消えた。陰形した彼らの気配が遠ざかっていくのを感じながら、昌浩は我知らず、喉元に手をやっていた。
じくじくと広がる痛みが、澱のように澱んでいた。
低く落とされた声に太陰が振り向いたとき、幼い天狐はすでに地上に降りていた。そのまますたすたと池のほうに進んでいく。
その背が少し気になって、太陰は彼を視線で追った。
あの新参の式を、太陰はそれほど嫌ってはいなかった。確かに最初こそ近寄りたがったが、いざ話しかけてみれば余程親しみやすい人柄であったのが理由だった。
そして、何よりその霊気だ。
天狐というからもっと恐ろしく冷たい霊気を放つものだと思っていたのに、ちっともそんなことはなかった。騰蛇のように震えが走るものでも、青龍のように落ち着きをなくすものでもない。彼の霊力は陽だまりのような暖かさを伴っていて、――そう、どことなく晴明に似ていた。
ただ、あの夜の出来事だけは気になっていたけれど。
ちらりと同胞たちを見やると、男三人は興味のない様子で思い思いの方角を向いていた。……太陰は他人の心を推し量る行為があまり得意ではない。だから、彼らが興味のないふりをしているのか、それとも真実好奇心を抱いていないのかどうかはよくわからなかった。
(面倒くさいったら、)
唇を尖らせる。太陰はふわりと浮き上がると、手近な玄武の首根っこを掴んで飛び立った。ぎょっとした玄武が目を丸くしてじたばたと抗議する。
「何をするのだ太陰!」
「ちょっと付き合いなさいよね」
昌浩はまだいくらも歩いていなかった。せいぜい数十歩といったところで、風将である彼女にとっては取るに足らない距離にしかすぎない。するすると彼の頭上に辿り着くと、昌浩は歩みを止めて太陰を仰ぎ見た。
古びた赤い髪紐が風に揺れる。困ったような顔をして、彼は太陰に尋ねた。
「……なんでついてくるの」
「見学。いいでしょ?」
「はあ」
太陰があっけらかんと答えると生返事が返ってくる。昌浩は再び歩き始めた。面倒くさそうな顔をした玄武を片手で引きずったまま、太陰は高度を下げてその隣に並んだ。
天狐はのろのろと足を運んでいる。
その愚鈍さがどうにも耐えがたく、ついつい太陰は突っ込んでしまった。
「なんで飛んでいかないの」
昌浩が唇を引き結んだ。続けて「天狐なんだから、空を翔けるのだって易しいんでしょう」と問われ、ますます俯く。
遠慮のない質問にとうとう観念したのか、少しののち、短く息をついて少年は答えた。
「俺は飛ぶのが苦手なの」
「それは……」
太陰はちょっと押し黙った。それから彼女にしては珍しく、何というべきか言葉を探し、眉を寄せて、つっかえつっかえ、聞いた。
「天狐としては、珍しい、のかしら」
「……まあ、たぶん」
「ふうん……」
居心地の悪い沈黙が流れる。誰もが何も言いださないものだから、しんとした空気は冷えたまま凝っていった。
背がむずむずする。太陰は玄武を取り落とすと、もじもじと両手を擦り合わせ、脈絡なく大声を出したくなる衝動と必死に戦った。
無論、衝動に任せていたらもっと取り返しのつかないことになると、彼女の勘が告げていたためだ。
そのうち昌浩の素足が、土ではなく漆を塗られた木を踏んだ。大きく造られた池に架けられた橋の曲線、その上を行きすがら、天狐はわざとらしく声を張り上げた。
「俺があんまり下手だから、根気良く教えてくれた一族全員も匙を投げたよ。けどその後に風狸の友達に教わって、風に乗って飛ぶことくらいはできるようになったんだ」
「風狸? ……ああ、あのいつもへばりついてた」
「いつもじゃないよ」
むっとした昌浩が言い返す。それを横目に、太陰は遠い昔、外つ国で見かけたことのある妖を懐かしく思い返した。
風狸は狒々のような姿をしている大陸の妖だ。大きさは獺程度で、昼間は木の幹に張り付いて擬態している。夜になると山々を飛び回って蜘蛛や鳥などを食べていた。太陰が夜の空中散歩を楽しんでいると、彼女の巻き起こす風に乗ってよく遊んでいたものだ。彼らは風を読み風に乗るので、ずいぶん遠くまで滑空することができるのだ。
玄武も風狸の事は見知っている。ああ、と相槌を打って、彼は何気なく呟いた。
「では風がないと飛べぬのか」
昌浩の肩がぴくりと揺れる。反論は何もない。
その挙動が肯定の意なのだと察して、太陰は腕を組んだ。
「なんだ、結局不便なんじゃない」
「……ひっどいなあ」
ぷうと頬を膨らませて、昌浩が神将二人を振り返った。
その表情は、外見相応に幼く。無防備で、柔らかかった。