低く落とされた声に太陰が振り向いたとき、幼い天狐はすでに地上に降りていた。そのまますたすたと池のほうに進んでいく。
その背が少し気になって、太陰は彼を視線で追った。
あの新参の式を、太陰はそれほど嫌ってはいなかった。確かに最初こそ近寄りたがったが、いざ話しかけてみれば余程親しみやすい人柄であったのが理由だった。
そして、何よりその霊気だ。
天狐というからもっと恐ろしく冷たい霊気を放つものだと思っていたのに、ちっともそんなことはなかった。騰蛇のように震えが走るものでも、青龍のように落ち着きをなくすものでもない。彼の霊力は陽だまりのような暖かさを伴っていて、――そう、どことなく晴明に似ていた。
ただ、あの夜の出来事だけは気になっていたけれど。
ちらりと同胞たちを見やると、男三人は興味のない様子で思い思いの方角を向いていた。……太陰は他人の心を推し量る行為があまり得意ではない。だから、彼らが興味のないふりをしているのか、それとも真実好奇心を抱いていないのかどうかはよくわからなかった。
(面倒くさいったら、)
唇を尖らせる。太陰はふわりと浮き上がると、手近な玄武の首根っこを掴んで飛び立った。ぎょっとした玄武が目を丸くしてじたばたと抗議する。
「何をするのだ太陰!」
「ちょっと付き合いなさいよね」
昌浩はまだいくらも歩いていなかった。せいぜい数十歩といったところで、風将である彼女にとっては取るに足らない距離にしかすぎない。するすると彼の頭上に辿り着くと、昌浩は歩みを止めて太陰を仰ぎ見た。
古びた赤い髪紐が風に揺れる。困ったような顔をして、彼は太陰に尋ねた。
「……なんでついてくるの」
「見学。いいでしょ?」
「はあ」
太陰があっけらかんと答えると生返事が返ってくる。昌浩は再び歩き始めた。面倒くさそうな顔をした玄武を片手で引きずったまま、太陰は高度を下げてその隣に並んだ。
天狐はのろのろと足を運んでいる。
その愚鈍さがどうにも耐えがたく、ついつい太陰は突っ込んでしまった。
「なんで飛んでいかないの」
昌浩が唇を引き結んだ。続けて「天狐なんだから、空を翔けるのだって易しいんでしょう」と問われ、ますます俯く。
遠慮のない質問にとうとう観念したのか、少しののち、短く息をついて少年は答えた。
「俺は飛ぶのが苦手なの」
「それは……」
太陰はちょっと押し黙った。それから彼女にしては珍しく、何というべきか言葉を探し、眉を寄せて、つっかえつっかえ、聞いた。
「天狐としては、珍しい、のかしら」
「……まあ、たぶん」
「ふうん……」
居心地の悪い沈黙が流れる。誰もが何も言いださないものだから、しんとした空気は冷えたまま凝っていった。
背がむずむずする。太陰は玄武を取り落とすと、もじもじと両手を擦り合わせ、脈絡なく大声を出したくなる衝動と必死に戦った。
無論、衝動に任せていたらもっと取り返しのつかないことになると、彼女の勘が告げていたためだ。
そのうち昌浩の素足が、土ではなく漆を塗られた木を踏んだ。大きく造られた池に架けられた橋の曲線、その上を行きすがら、天狐はわざとらしく声を張り上げた。
「俺があんまり下手だから、根気良く教えてくれた一族全員も匙を投げたよ。けどその後に風狸の友達に教わって、風に乗って飛ぶことくらいはできるようになったんだ」
「風狸? ……ああ、あのいつもへばりついてた」
「いつもじゃないよ」
むっとした昌浩が言い返す。それを横目に、太陰は遠い昔、外つ国で見かけたことのある妖を懐かしく思い返した。
風狸は狒々のような姿をしている大陸の妖だ。大きさは獺程度で、昼間は木の幹に張り付いて擬態している。夜になると山々を飛び回って蜘蛛や鳥などを食べていた。太陰が夜の空中散歩を楽しんでいると、彼女の巻き起こす風に乗ってよく遊んでいたものだ。彼らは風を読み風に乗るので、ずいぶん遠くまで滑空することができるのだ。
玄武も風狸の事は見知っている。ああ、と相槌を打って、彼は何気なく呟いた。
「では風がないと飛べぬのか」
昌浩の肩がぴくりと揺れる。反論は何もない。
その挙動が肯定の意なのだと察して、太陰は腕を組んだ。
「なんだ、結局不便なんじゃない」
「……ひっどいなあ」
ぷうと頬を膨らませて、昌浩が神将二人を振り返った。
その表情は、外見相応に幼く。無防備で、柔らかかった。