ちょっとこの回の注意事項を。
1.一応性行為があるのでR-15です。
2.CPに凌壽×昌浩があります…(ていうか朧月夜の根底CPかもしれません)
まあこの2点ですかね。
晶霞さんと凌壽さんと昌浩3人の絡みがそれぞれ書けてサティスファクション。原作であんまり絡みが無い人達を絡ませるのはたいへん大好きです。特に晶霞さんと昌浩ね! 原作ほっとんど喋らなかったからね!
兄は遅れてやってきた。俺に笑いかける顔は幼い頃に見たのと同じ、胡散臭くて気持ち悪い笑顔だった。いや、むしろ酷くなっていた。皮膚一枚の下にどろどろした鬱屈を秘めていて、つついたら弾けてしまいそうだった。なんでみんな兄が抱え込んでいる憎悪に気づかないんだろうと、俺は昔みたいに怯えた。
姉に言ったことがあるのだ。兄は危険だと。いつかあいつはみんなを食べてしまうと。けど姉は哀しそうな顔をして、お前まであいつを信じないのかと泣いた。姉の泣くところなどそれが初めてで、俺はそれ以上何も言えなかった。
――あの時何千という言葉を尽くしてでも姉を説得するべきだったと、今にして思う。そうしたら、未来は少しばかり変わっていたかもしれない。
里に戻ってから数日経った後の、蒸し暑いある日。俺は兄に呼ばれ、相談したいことがあると言われて里から連れ出された。
数は少なかったが、幼い頃、何度か兄に手を引かれた記憶があった。蜥蜴や蛇みたいに乾いて冷たい指。その時もそうだった。俺は抵抗せず、手を引かれるまま里を出て、青く広がる草原を渡った。もちろん、心では兄に恐怖を覚えたままで。
怖がっているのなら抗えばよかったのに、何故そうしなかったかと疑問に思うだろう。俺は――俺は、きっと、その時まで兄を信じていたのだ。
兄の心の奥底から湧き出る憎しみを、俺は最初から知っていた。だから怖かった。だけど同時に、兄は自分に対して危害を加えないだろうと思っていた。兄の眼差しが、差し伸べられる手が、それを物語っていたからだ。でも、その見通しがあまりに甘かったと気づくのはすぐのことだった。
里からどんどん引き離され、人影が見えなくなり、本当に二人きりになってから、遠く離れた草原の真ん中で兄は足を止めた。俺は微かに震えながら兄の指を引き、蚊の泣くような声で、「にいさん、」と呼んだ。
辺りは昨夜降った雨のせいか噎せかえるような草いきれで満ちていた。降り注ぐ陽光はきつく、ちりちりと肌を焼いて痛いほどだった。もしかしたら太陽以外のものも俺の肌を粟立たせていたのかもしれない。 兄はぞっとするような優しい笑みを浮かべて、俺を振り返った。
「昌浩」
反射的に一歩下がろうとして、囁かれた言霊に足を囚われる。仮名を呼ばれただけなのに拘束されてしまった体を、俺は呆然と見下ろした。兄の力は俺よりも余程強かったのだ。
兄の手が伸び、俺の髪を掬う。薄く血色の悪い唇が寄せられる。自分の体の一部に触れられることに、俺は形容し難い嫌悪感を覚えた。
「にいさん、なにを」
「お前の痛がることはしないさ。傷つけもしない。大丈夫だ、優しくしてやるから」
「……なにするつもり。やめろよ、」
「嫌がっても無駄さ。声を上げてもな。俺以外には届かない」
俺ははっとした。周囲に結界が張ってあったのだ。みるみる怯えの色を濃くする俺を、兄は満足げに笑って眺めた。握られたままだった髪の毛が引っ張られ引き寄せられる。俺を胸元に抱き込んで、兄はただただ楽しそうに笑っていた。
兄は宣言したとおり、俺の身体には傷一つ付けなかった。痛くもしなかった。ゆっくりと俺の身体を征服していく兄の手つきはひたすらに優しかった。そうして、俺の意思とは無関係に性感が暴かれていった。
泣き叫び、許しを懇願し、四肢で抵抗を続け、家族の名を呼んだ。なのに助けは来なかった。父も、母も、姉も、誰一人として俺の声に気付くことはなかった。魂を呼び、血に響きを乗せ、声を届けろと俺は姉に教えられていた。その通りにやったのに、誰も応えてくれなかった。
俺は裏切られた。
絶望の波濤に叩きつけられた心が息を吹き返したのは、全ての責めが終わった後だった。
最中のことを、俺はあまり覚えてはいない。辛くて悲しくて怖いばかりだったから、多分頭が途中で記憶を残すことを拒否したんだろう。いったい何刻の間その行為が続いていたのかもわからない。気がつけば、兄は自分一人だけ乱れた衣服を整えていた。整え終えると彼は振り返り、俺の耳元で何事かを囁いてから口付けをしてきた。
その時兄が口にした言葉を俺は確かに聞いているはずなのに、今に至るまで一度も思い出すことはできていない。なんだか、とても大事なことを言われた気がするのだけれど、……忘れてしまった。
いつの間にか兄はいなくなっていた。同じように、いつの間にか太陽も沈んでいた。満天の星空が空を覆い、月が宙天にさしかかる頃、俺はようやく身を起こすことができた。
頭はまだぼんやりとしていて、心は死にかけていた。だけど俺は解放されて自由だった。やっと自分の意思で動かせるようになった体を、俺はひとつひとつ改めた。そうすることで、奪われたものを順々に取り戻そうと考えたのだ。
全部脱がされた服。
うっすらと痣のできた手首。
熱をもって腫れぼったい両目。
からからに乾いた喉。
ひどく重い下肢に、白く汚れた腹。
立ち上がるが力が入らず、俺はよろめいた。その拍子に自分の中から兄の放ったものが大量に零れ落ちる。両足をつたう生暖かい液体はどろどろとしていて、泡が混じっていた。留まらず排出されていく液体の感覚に、ぶるりと震える。
しばらくして、俺は近くに渓流があったことを思い出しふらふらと歩きだした。――水が欲しかった。喉が乾いていたから、冷たい水で潤したかったのだ。すぐに流れは見つかり、足を取られないよう気をつけながら浅瀬でうずくまる。近くの山から流れてくる清冽な水が下半身を冷やした。折角見つけたのに、なぜだかその頃にはもう飲む気は起こらなかった。
体中が冷えていく。それに従って、だんだんと、自分がいったい何をされたのか、認識することができた。
――俺は汚されたのだ。
気付いた瞬間、身体をくの字に折り曲げて吐いていた。だって、全てを覚えていないわけではなかったからだ。断片的な記憶が脳裏で明滅する。その欠片だけで、嘔吐するには十分な内容だった。
肌を掻きむしった。兄に触られた全身が厭わしかった。性器を擦り上げられて自分の意思とは関係なく精を吐き出してしまったことも、中を探られてあられもない声を上げてしまったことも、奥を突かれて自分から腰を揺らしたことも、全て。
兄は徹頭徹尾、最初の宣言通りに俺を扱った。恐怖で縮こまる身体を労り、時間をかけて慣らし、心の動きと関係なく反応が起きるようになってからも、ずっとずっと優しかった。
いっそ酷くしてくれればよかったのだ。そうしたら、自分自身に対する嫌悪感でこんなにも死にたくはならなかったのに。
泣きながら身体を洗い、芯が凍りつくまで水の中で清め、震えながら恐々と服を拾いに行き、臭いが取れるまで濯いだ。一連の作業をしながらずっと考えていたのは、これからのことだった。
兄にされたことを誰かに話す? できるわけなかった。その頃の俺は子供の範疇に入っていたが、兄としたことが何をするためのものかは知っていた。あれは愛を囁いたり子作りをする行為で、双方の合意の元に男女が行うべき物だった。間違っても男の兄弟がするものではない。俺は禁忌を犯してしまったのだ。たとえそれが強要されて始まったものだとしても、俺がしてしまったことに変わりはない。
口を噤んで里に戻ったとしても、兄と顔を合わせなければいけない。そんなのはごめんだった。自分を強姦した男と平然と話す器量はなかった。途方に暮れている間に太陽は顔を出し、眩しさに眼底が痛んで俺は顔を覆った。本当に、どうしたらいいのかわからなかったのだ。
半日悩み抜いて、結局俺は里に戻ることに決めた。
今出奔したら両親は俺を捜して奔走するに違いない。九尾の軍勢が近くまで来ているのにそんな危ない真似をさせるわけにはいかなかった。途中兄が出てきやしないかと怯えながらとぼとぼと両親の元へ帰ると、二人はまっさきに俺の顔色を心配した。
気分でも悪いのか、病でも得たのかと根掘り葉掘り聞かれたが、俺は半分嘘をついてごまかした。九尾の軍を偵察していたから寝ていないと言ったのだ。寝ていないのだけは本当だった。母はほっとし、父は危ないことをするなと俺を叱った。俺は素直に謝ってから、二人に心配ごとを聞いた。
「兄さんはどこ?」
両親は、あまり仲が良いとはいえない兄弟の居場所を尋ねるのを不思議に思ったようだが、答えてくれた。姉に大事な話があるといって、里から遠く離れた場所へ呼び出したのだという。それでついさっき、姉は出ていったばかりなのだとも。
俺は急に厭な予感を抱いて押し黙った。一瞬、自分にしたのと同じことを兄が姉に対して行うのではないかと思ったのだ。だが姉は兄よりもずっと強い。であれば、不意をついてもっと酷いことをするのではないだろうか。
――例えば。
心臓が氷の楔で打たれたようにしんと痛み、俺は駆けだした。驚いた両親が後から追ってくる。名前を呼ばれても立ち止まることはしなかったけれど、父に腕を引かれて足を止めた。もどかしさで泣きそうになりながら、俺は父に訴えた。
「兄さんが姉さんを殺してしまうかもしれない」
父はばかなことを、と言いかけて黙った。兄はなんだかんだで家族に情を示していたが、その方向性は不器用だった。ねじ曲がっていたと言ってもいい。とても不安定なひとだった。その不安定な天秤が悪い方向へ大きく傾いたのではと感づいたんだろう。
予感は俺の鼓動を急かしてけたたましく警鐘を鳴らす。俺の必死な顔を見て、父は頷くと背中に俺を乗せて空へ翔け上がった。真っ青になった母も後に続く。高い空の上は鮮やかすぎるくらい見事な茜色で染まっていた。
父は速かった。翔けながら姉に呼びかけているうちに、兄と姉がいるという場所へ辿り着いた。父の呼びかけに、姉は兄に背を向けて上空を見上げた。その時だった。
兄が背後から姉の胸を貫いたのだ。
姉は息を呑んで背後を振り返ると、愕然として震えていた。兄は嬉しそうに笑って腕を引き抜くと、姉から天珠を奪った。血に塗れた美しい天狐の心臓。あいつはその血を舐めて笑っていた。姉は天珠を喪ってもなお美しく、銀色の髪が流水のようにうねって揺れていた。
俺はその様をただ見ていることしかできなかった。
髪の毛がざわりと逆立ち、父の肩を掴んでいた指が震えた。目の前でゆっくりと倒れ伏していく姉と、その向こうで笑っている兄。認めた瞬間に俺は父の背から地面に飛び降りた。つい先ほどまで絶望と恐怖に満ちていた心がどろどろと煮立っていく。
兄に対して、初めて恐怖以外の感情を覚えた瞬間だった。
父と母は俺よりも速く兄に突進した。自分の娘の天珠を奪い返そうとして、自分の息子に攻撃した。だけど兄は、両親より強かった。鈍い音を立ててはね飛ばされた母が岩に叩きつけられる。息が詰まって咳きこむ母の前にやってくると兄は爪を伸ばした。そうはさせまいと父が飛びかかり、母から兄を引き剥がす。だがすぐに兄から重たい一撃を腹に喰らい、父は衝撃でよろめいた。
兄が右手を振りかぶる。
俺は何も考えてはいなかった。ただ無我夢中だった。家族の窮地に、自分が何をできるのかも考えていなかった。だから俺は衝動のままに、父と兄の間に飛びこんだ。飛びこんで、形の成さないままの霊力で殴りつけた。
あいつはまともに俺の攻撃を受けて、ぽかんと目を見開いていた。上半身を仰け反らせて手が泳ぎ、一歩後退する。奇術を初めて見た人間の子供のように驚いてから、兄は嬉しげに笑った。
その後に何が起こったのか、俺は覚えていない。
知らない間に意識が消失していたらしい。出し抜けに目覚めは訪れた。ついさっきまで眼前にいたはずの兄を捜すが、目が霞んでよくわからない。どうしてか頭と喉が酷く痛み、倦怠感があった。霊力もひどく弱っている。体全体で風を感じ、移動していることに気づいた。腕と肩が引っ張られて辛く、誰かに肩を貸されているようだ。顔を上げると、すぐ近くに呼吸を乱した姉のかんばせが目に入った。びっくりして姉を呼ぼうとする。が、声が出ず噎せてしまった。姉は俺が覚醒したのにようやく気付いたのか、こちらを見下ろして担ぎなおした。
あの時確かに心臓を抉られた姉が、生きている。
ほっとして気が緩むと腕の力も抜けてしまった。姉が慌てて足を止め、俺を引っ張り起こす。やっと視力が回復した俺の目は、自分たちが尖った岩山の中腹にいることを伝えた。姉は息をするのも苦しそうな様子だった。それもそのはず、彼女の胸にはまだ塞がりきらない風穴がぽっかりと空いて、血を流していた。
顔色が変わったことを察した姉が、肩を上下しながらも自分の右手を示してみせる。そこには血で汚れた天珠が握りしめられていた。
「……私の、ことは、気にするな」
ひゅうひゅうと喉笛を鳴らしながら、姉はそう言った。
「大丈夫だ……私の天珠だ」
そうはいっても、姉が大怪我をしているのに代わりはない。俺は咄嗟に吸気の術で姉を癒そうとした。しかし、それは叶わなかった。
喉から胸にかけて激痛が走り、猛烈な吐き気が俺を襲った。支えられたまま地面に熱い固まりを吐き出す。びちゃりと弾けたそれは真っ赤な色をしていて、鉄の臭いがした。
俺は愕然と、自分が吐き出した血液を見下ろした。
死ぬんだろうか。
『死』は俺にとって縁近いものであったが、同時に最も縁遠いものでもあった。死にかければ近くの命を奪って勝手に回復する俺は、自分の死というものをあまり考えたことがなかった。だが、その時は違った。 ――術が発動しない。
喉に凝った『何か』が俺の霊力を弱め、さらに吸気の術の発動を阻害している。重い手で喉に触れると、ぬるりとした血の感触があった。さらにそこにはぱっくりと割れた大きな傷があって、じわじわと血を零し続けている。いつ付けられたのか、全く記憶にない。
けれど、自分の内部に巣くう『何か』の正体は朧気に察することができた。
「いいか……術は使うな。絶対にだ」
姉が俺の手を握りしめ言い聞かせた。
「誰が襲ってきても、お前は手出しをするな。私がお前を護る。もし……私が死んだら、お前は私の天珠を持って逃げろ。その場で使ってもいい。いいか、凌壽や九尾には決して渡すな」
凌壽。
自分を、姉を、両親を裏切った男。
実の兄。
そうだ、両親はどうなったのだろう。凌壽も。それに何故、いきなり凌壽はこんな凶行を引き起こしたのだ。
姉は悔しげに唇を噛みしめた。
「お前が凌壽に殺されかけて、あいつに術をかけた。父さんと母さんがその隙に私の天珠を取り返したんだ。あいつは今、お前から術をかけられて弱っている。……父さんたちは、私たちを逃がすため、まだあいつと戦っている」
俺は咄嗟に背後を振り返った。既に周囲は闇に落ち、望月が夜空の中で煌々と光を投げかけている。
「行くぞ。……足を止めている、暇など、ない……」
姉が喘ぎながら俺の肩を支え、跳躍する。瞬間、俺たちは山陰に赤い炎とどす黒い妖気を目撃した。
空中を滑りながら姉が呆然と呟く。
「檮杌(とうこつ)……!」
大陸の四凶の一つ、檮杌。人の頭に虎のような身体を持ち、猪のような長い牙、長い尻尾を持つという大妖が、俺たちの里を襲っていた。その他にも夥しい数の妖が集結し、群を成して加勢している。
常に破壊を求めている四凶は、立ち向かってくる天狐を力任せに蹴散らしていた。
「九尾に……与したというのか……」
姉が苦々しく吐き捨てる。滅びゆく里に俺は瞠目していた。
――おそらくは、これが凌壽の狙いだったのだろう。
あいつは俺たち家族を裏切ったのではない。一族全てを裏切ったのだ。姉を騙して里から離れさせ、その間に九尾の軍勢を向かわせる。同時に天狐の中で最も強い姉を殺し、一族を滅ぼしやすくするというのが計画だったのだ。
凌壽の一族に対する憎しみは、……こんなにも、激しいものだった。俺はあいつの心に気づいていたのに、何もできなかった。何も変えられなかった。怖いばかりで、何もしなかった――。
満月の隣で、妖星が青白く燃え立っている。運命を変えられなかったことを呪うように。
里から離れ、俺たちはひたすら東へと突き進んだ。途中九尾の軍に追いつかれるも、死にものぐるいでそれらを殺し続けた。姉が意識を失いかければ俺が彼女を支え、残り少ない霊力を費やして退ける。叱られても聞かなかった。姉を死なせることだけはどうしても嫌だった。
二人して息も絶え絶えに海を越えると、ついに追っ手の姿は見えなくなった。
けれど、それが限界だった。
俺は霊力を消耗しきっていた。吸気の術は未だ行使できず、喉の傷を塞ぐことができない。血も、体力も、霊力も、何もかもが残り少なくなっていた。
姉も同じような状態だった。俺よりも多くの追っ手を倒していた彼女の霊力は底をつき、胸の傷を癒すだけの余裕が既になかった。ずっと気を張っていたからその状態でも持ちこたえていたが、追っ手を振りきったことで気力が折れてしまった。
島国の森の中、生い茂る葛の葉に埋もれて、俺たちは互いを抱きしめ合っていた。
俺の体力は少ない。おそらくは先に死ぬだろう。だけど、姉の天珠の光もだんだんと弱まっていた。あれは、彼女の心臓そのものだ。このままでは、姉もゆっくりと弱って死んでしまうだろう。
吸気の術は使えない。ならばと、俺は最後の力を振り絞って呼びかけた。
「……ねえさん、」
蒼い瞳が動いて、俺を見た。
「俺の……天珠を、使いなよ」
血で汚れた唇が、ばかな、と囁いて歪む。俺はできるだけ明るく笑おうとした。
「……たぶん……俺のほうが、先に、死ぬから……。だからさ、使ってよ……姉さんならいいよ……」
森の中から見上げる夜空の先、梢の向こうで輝く満月は真っ白だった。早いものだ、あの滅びの日からもう一月が経ったのだ。
「ああ……でも、俺、ちゃんと天珠あるのかな……」
自嘲して目を閉じると、姉が俺の身体を震える手で引き寄せた。死ぬなと耳元で囁かれる。姉の身体は冷たくて、自分も同じくらい冷たかった。
死ぬときに術が発動しませんように。
そう願いながら、眠気に負けて俺は意識を落とした。――直前に、獣のものだろうか、草をかき分ける音を耳にしながら。
自分が生まれた時のことを詳細に覚えている生き物は少ないと思う。
いや、幼子は別だ。幼子は母親の胎の中にいた頃のことも覚えている場合があるのだそうだ。ただ長ずるにつれ、皆幼い日のことを忘れていくのだという。
俺も同じだ。けどひとつだけ、生まれ落ちた瞬間に感じた感情を明確に覚えている。
それは、恐怖という感情だった。
俺が生まれたその日、夜空には凶星が光輝いたらしい。一族の殆どは慄いたそうだ。だが両親と姉と兄、そして一族の長は動じなかった。慈悲深いと称される天狐という種の大半が生まれてすぐの俺を縊るよう長に進言したが、長は首を縦に振らなかったそうだ。もし長が俺の抹殺を宣言していたと思うとぞっとする。両親と姉はきっと死に物狂いで抵抗したに違いない。あのひと達は優しいひとだったから――天狐族全てを敵に回して、同族殺しの汚名も被って、血が穢れるのも厭わなかったに違いない。
それに、姉は天狐の中でも史上最強と噂された強い天狐だった。大陸全土の支配を企む九尾の魔の手を退けていたのは彼女だった。その姉をこの混乱の時期に長は失いたくなかったのだろう。
長は俺に忌み名を付け、俺を生かす道を選んだ。通り名は姉が付けてくれた。姉がよく訪れていた島国の読みらしい。その国では大陸と同じ文字が使われているが、話し言葉は違うのだそうだ。一人皆と違う読みを与えることで、俺が守られるようにという配慮らしい。
忌み名を知っていたのは、俺自身と両親、姉、そして長だけだった。家族の中で兄一人だけは俺の真名を知らないことになる。兄はずいぶんと家族と長に文句を言ったようだが、長は全てを突っぱねた。まったく、長には感謝してもしきれない――兄に俺の忌み名が伝えられていたら、多分俺はとうにこの世にはいなかっただろう。
天狐は皆白銀の頭髪で、変化すると真っ白な白狐となる。だが兄と俺だけは黒髪で、変化すると犬のように黒かった。皆は多分、俺が兄と同じ性質を持って生まれたのではないかと疑っていたんだろう。
兄は異質だった。一族の中にあって唯一残虐で酷薄な男だった。生まれたとき、俺が真っ先に感じ取った恐怖――あれは、兄に対する怖れだった。俺とは種類の違う異質さが、兄にはあった。
赤ん坊の頃から俺は兄に怯えていたらしい。兄が近くにいると火が点いたように泣き、妖気を感じ取っただけで母に縋りつく。近寄ると泣き喚く子供のことなんか嫌いになればよかったのに、何故か兄は度々俺に接触したそうだ。どうも泣く俺の顔を見て機嫌良さそうに笑っていたらしい。まったく、よくわからない男だ。
話しも走れもするようになる頃まで成長すると、俺は兄が近づいても泣きはしなくなった。この頃からなら朧気に記憶が残っている。そう、俺は兄を怖がってすぐに他人の影に隠れてはいたが、泣きはしなかった。真っ黒い闇色が俺を飲み込もうとして笑っているのを感じ取っていたが、家族が守ってくれると信じていたからだ。やがて一対一で接しても、虚勢ではあるが平静を保てるようになった。その頃はまだ、兄は俺に対して何の危害も加えようとはしていなかったからだろう。
そんなある日のこと――俺が七つ年を数えた頃だっただろうか。俺は里を一人抜け出して、離れた山の崖地で遊んでいた。同年代の子供などいなかったから、基本的に一人で遊んでいたことが多かったように思う。その日も一人きりだった。一人で遊んでいて、俺は足を滑らせて、崖下に転落したのだ。
普通の天狐だったら、幼子といえど丈夫な体のおかげで擦り傷と打ち身程度で済みすぐに回復するだろう。だけどあいにく俺は普通じゃなかった。崖から落ちて、俺は背骨を折って不随になりかけたのだ。
痛みで悲鳴を上げていた俺をまっさきに見つけたのは兄だった。無意識に上げていた魂の呼び声が届いたんだろう。兄はゆっくりと茂みをかき分けながら俺に近づき、しゃがんで俺を覗きこんだ。じいっと観察して、し終えて、あいつは、ぽつりとこう言ったのだ。
「なんだ、もう死ぬのか」
俺はその時あんまり痛かったから、詳しいことなんて覚えちゃいない。けどあの時、兄は道ばたの塵でもみるような軽蔑の視線を俺に向けていた。失望の、眼差しだった。
兄が俺になんの期待をしていたのか、俺は知らない。知らないけど、推し量ることはできる。兄は自分が異質であることをよく知っていた。だから仲間が欲しかったんだろう。そして俺は、その唯一の候補者だった。
しかし期待は裏切られ、兄は俺に興味を失くした。兄は倒れ伏した俺の襟首を掴むと、物のように引きずって歩きだした。森の中を突っ切ろうしてと茂みをかき分けたその瞬間――俺のもう一つの異質が初めて発現した。
兄は数瞬前に感づいて手を離したおかげで命拾いをした。跳びすさり、離れたところから俺を眺めている兄の目の前で木々や草花は枯れていった。俺は温かい奔流を全身で受け止めながら、薄れていく痛みを不思議に思っていた。やがて激痛が完全になくなり、驚きながら身を起こして周囲を見回すと、森の中で俺の周りばかりがぽっかりと死の荒れ地になっていた。
困惑しながらも、兄に手を引かれて俺は里に帰った。兄が目の前で起きた出来事を両親に報告すると、両親は慌てて長に相談しに行った。すぐに俺と兄も長の前に連れて行かれ、そこで俺は自分の異質を二つ知った。
一つは、俺の体は人間並に弱いということ。
もう一つは、俺は他者の命を喰らうことで自らの体を急速に癒すことができるということだった。
人と同じ強さしかないからこの能力が備わったのか、それとも能力が備わったから人と同じ強さを持つ形になったのかはわからない。もしかしたら他の理由があるのかもしれない。長は両親にだけ何事か話していたようだったが、子供達には何も知らさなかった。後になって聞いてみたが、姉も兄も知らないといっていた。
だが、この一件で一旦は失望した兄の眼差しが変化したのは確かだ。兄は再び俺に期待する眼差しを向け、俺はそれを無視した。その頃は兄に対する嫌悪感よりも自分自身のことで手一杯だったように思う。兄に構っている余裕なんてなかった。まだ十を数えていない妖なんて赤ん坊とそう変わらないのだから、当たり前だと思う。
両親は姉と共に悩んでいたようだ。体が弱すぎて天狐として育てると成長途中で死にかねない。かといって異質な能力を制御するためには早くから霊力を育てた方がいい。三人が頭を捻っているそんな時、俺は空気を読まず質問した。「にんげんってなあに、」と。
体が弱いと言われてもちっともぴんとこなかった俺は、長に説明された人間という生き物が気になっていた。だってその生き物は天狐よりも肉体的には弱いが、寿命は数十年あるのだという。自分はその人間と同じくらい弱いらしいが、人間がちゃんと育つのなら自分だってその年月分育つはず。だから人間がどういうもので、どういう暮らしをしているか知りたかったのだ。
つたない言葉で訴えると、両親と姉は考え込んだ。しばらくしてから、姉が「自分が責任を持つ」と前置きして、俺の頭を撫でた。
姉の話した内容とはこうだった。人里近くに下りて人間を観察しながら、同時に姉の手ほどきを受けて修行をする。まずは自分の能力の把握から始め、能力を制御できるようにすること。体の使い方は人間を見ながらやってはいけないこと、やってもいいことを学ぶようにと。姉は九尾を探るために時々里の外へ出て人間の中に紛れていたことがあったから、人のことはよく知っていたんだろう。両親はその提案を飲み、俺も二つ返事で頷いた。
それから十年ほど、一族の里へはあまり帰らずに俺は人のごく近くで成長した。外見は十四歳ほどで止まってしまったけれど、いろんな村や町を周る間、見た目の年が近い子供とこっそり遊んだり、童試を受ける予定の息子がいる官僚の家に忍び込んで文字や学問を学んだり、時には東の海を越えて姉と仲のよい龍神に引き合わされたりした。その頃には俺も自分の体が他の天狐と違ってどの程度ひ弱なのか、またその不足分を補うための霊力の使い方を知るようになっていた。そして他者の命を吸い取ってしまう能力についても、ある程度理解できるようになっていた。
俺は能力を吸気の術、と呼んでいた。この能力は自分が外傷を負うと任意に発現することができる。発現には自分の手を対象に接触させる必要があり、対象の命――正確には寿命を吸収し、回復力に転化させる。寿命を切り貼りしているようなものと考えてもいい。
切り取った寿命は張り付けようとすると大半が磨耗して消えてしまう。だから寿命の短い動物に術をかけると傷はあまり回復しない。一番効率的なのは植物だった。寿命の長い樹木にかけると酷い怪我でも綺麗に直るし、運がいいと樹木自体も生き残った。
だけども、生死に関わるような大怪我をした場合は強制的に使用してしまうようだった。普通だったら対象を選べるけど、意識がないから見境なしに周りから奪ってしまう。なるべく気をつけるようにと姉からは言い含められた。
正直、俺はこの能力があんまり好きじゃない。でもあるからには制御しなきゃいけないのはよくわかっていた。嫌いなら使わないように留意すべきなのだ。そんな力だけど、一つだけ、好きな点もある。最初は他者から奪うだけかと思っていたこの力は、俺の寿命をも他者に貼り付けることができるのだ。
つまり、他人の傷を癒すことができる。このことに気づいたとき俺は浮かれるほどはしゃいだ。初めて自分に価値が持てたような気がしたんだ。だって、この力は自分を癒すだけで他人を殺していくばかりだと思いこんでいたから。この力を正しく使えたら、一族の皆を九尾からさえ護れるかもしれない、そう考えた。
ただ同時に、人間と触れ合う中でもう一つの選択肢を考えるようにもなった。
俺は妖だけど、身体は人間と同じ勁さしか持たない。妖力を隠して人間の中に埋没して暮らすこともきっと可能だろう。優れている一族の中でただ一人出来損ないとして暮らす未来よりも、それはずっとずっと魅力的なものに思えた。
でも、俺はまだ子供で、しかも不安定な情勢の中ではそんな選択をすることもできなかった。
そうそう、姉に指導されながら修行を続ける中、姉の友である龍神をひょんなことから助けたりしたこともあった。あれは偶然と幸運が組み合わさってなんとか収集がついただけなのだが、以来龍神は俺のことを気に入ったようで姉から色々と話を聞いていたようだ。彼女はあの国で祀られる神々の中でも特に高い位の神なので、俺などは畏れ多くてまともに喋ることもできないのだが、姉は気安く口を利く。まったく真似できない。いくら神に通じる力を持つ天狐とはいっても、俺なんかは出来損ないの端くれだ。姉は最も力の強い天狐だから、きっと龍神は親しくしているんだろう。
そんな日々の中でも、一族と九尾の軍勢の対立は続いていた。情勢が不穏化した為俺は久方ぶりに里に帰郷し、両親と再会を喜んでいた。澄んだ空の、五月のことだった。
目を灼くような閃光が消え失せていく。やがて最初に神将たちの肌に触れたのは、水気だった。
「………?」
草と土、水の匂い。虫の鈴音。
光が去り明瞭になる視界の中で、彼らは現在の居場所を確認した。
異空間に取り込まれた地点は都だったのだが、帰ってきたのはどこともしれない河原だった。
その腕に中宮を抱いたまま、真っ先に六合が遠くの山々と星を見上げ位置を測る。龍神高龗神が座す貴船山が北側のすぐ近くにある。まだ濃い藍色に染まっている東の空には有明の月がかかっていた。
賀茂川の上流辺りにいるようだ。
周囲は人の手が入っていない木々が生い茂っている。幅三丈ほどの緩やかな流れのすぐ近くまでが草むらに覆われ、濃密な生の気配が満ちていた。ついさっきまで取り込まれていた何もない異空間とは対照的だった。改めて、あの空間がどれほど異質であったのかを知る。
月と星の巡りは丑寅の刻を示していた。都で昼の日中に凌壽と遭遇してからここまで、神将たちは一刻程度しか体感していない。空間を渡る際に位相のずれが時間軸のずれまで誘発したのかもしれなかったが、真相はいくら考えてもわからないだろう。
確かなのは、ここから都に帰るまでに時間がかかりそうだということだ。
勾陳が億劫そうに頬の汚れを拭う。
「あれだけの傷を負わせたのだから、当分凌壽は襲ってこないだろう。今のうちに急ぎ中宮を送り届けねばならんな……神隠しと騒ぎになっていそうだが」
「そうだな」
「騰蛇、お前は先に昌浩を連れて晴明の元へ向かえ」
「ああ、わかっ……」
その時。
紅蓮の腕の中、昌浩から響いた異音に皆が振り向いた。
堅いものが擦れ合うぎちぎちという嫌な音が耳朶を叩く。呆然として紅蓮が目を落としたその先で、昌浩は苦悶の表情を浮かべていた。元から浅かった呼吸がどんどんと弱まっていく。一旦良くなっていた顔色がまた青白く染まっていく。
そして、彼の細い首に、半透明の蔦のようなものが絡みついていた。
意識を失くしている昌浩は抵抗もできない。紅蓮は咄嗟に蔦に指をかけて引き剥がそうとした。が、指は蔦をすり抜けるばかりで触れることができなかった。神気を込めても同じ結果に終わってしまう。
「なんだこれは……!?」
苛立たしげに吐き捨てた紅蓮に、木将である六合がはっとしたように叫んだ。
「――木霊だ!」
「なんだと?」
「木霊の呪詛だ。周囲の草木が呪詛をかけている」
「ばかな――木霊の呪詛など、神木を切るか余程多くの樹を焼き払わないでもしない限り――」
反論しかけ、紅蓮は詰まった。彼の能力を思い出して。
そう、前者はともかく後者の可能性は高いだろう。彼が傷を負う度に命を吸い上げていたのが植物だとしたら――積もり積もった恨みが形を成したのだとしたら。
六合は中宮を草の上に下ろすと、纏っていた霊布を手早く引き剥がし昌浩をくるんだ。蔦か――それとも根か。節くれ立った細長い触手は簡易な結界となった霊布に払われて離れていく。しかし諦め悪く、木の根は霊布ごと昌浩を締め付けようと、その輪を大きくしまた力を強めていた。
六合の霊布が意味を成さなくなる時も近い。
ならばと神気を発しかけた紅蓮を、険しい眼差しの六合が制した。
「辺りの草木を焼いたところで効きはしない。やめておけ」
「なぜそう言える!」
「この呪詛が木々という種、そのものから向けられているからだ」
紅蓮は息を呑んだ。
木将である六合は、同じ属性である木々から呪詛の情報を読みとったのだろう。同じ神将だ、この状況で嘘をつく必要など全くない――加えて、普段寡黙なこの男が酷く饒舌に、また真剣に喋っている。
その事実が紅蓮を打ちのめしていく。
「どこへ行こうとも逃げられはしない。草木が生えている場所である限りは――逃げるとしたら、さっきのような異空間だけだ。もしくは、呪詛を正面から防いで抵抗するか」
「……そうか、相侮か」
押し黙っていた勾陳が呟いた。
「おそらく、昌浩は今までずっとこの呪詛を受けていたのだろう。天狐は土の性だから、木剋土。相克だけでいえば不利といえる。だが天狐の強力な霊力が反剋を起こし、土侮木――木霊の呪詛を押し止めていたんだろう」
昌浩が抱え込んでいたのは、凌壽の呪詛だけではなかったのだ。
戦いによって霊力を消耗し尽くした隙を突いたもう一つの呪詛。木霊の呪い。呪詛に対抗できるだけの力を失った昌浩に、抗う術などない。このままでは遠からず力尽きるだろう。
「くそっ……」
紅蓮は昌浩を抱え直すと南方の空を睨んだ。
十二神将の主がこの場にいれば、何か良い策を授けてくれるかもしれなかった。だが都は遠い。今から駆けていってもきっと間に合わないだろう。
だが、ここで為す術なく彼の弱っていく様を見ているよりは余程よかった。
彼の生命力が強ければ、もしかしたら都に辿り着くまでに命を落とさないかもしれない。分の悪い賭だが、やらないよりはましだ。一縷の望みに希望を見いだし、紅蓮が足を踏み出す。その瞬間だった。
「――騰蛇!」
よく聞き慣れた同胞の声に、皆ははっと上空を見上げた。
大柄な壮年の男の姿をした風将、白虎が風を操って降りてくる。彼が地表に立つのを待たず、紅蓮はせき立てられるように叫んだ。
「白虎、俺を晴明の元へ運べ!」
「なに……なんだと?」
「説明している暇はない、早くしろ!」
紅蓮の気迫に呑まれた白虎が竜巻を起こす。枯れ葉と千切れた草の葉が轟と舞い上がり、紅蓮とその腕に抱かれた昌浩の姿を覆い隠した。渦を巻く嵐が強まり上空へと消えていく。残された勾陳たちが目を開けると、紅蓮の神気は既に遠く離れた空中へと移っていた。
白虎が怪訝な顔で同胞を見やる。
「風読みを続けてようやく見つけたと思ったら……騰蛇め。なんだあれは。奴のあんな顔は初めて見たぞ。まるで別人じゃないか」
「それに関しては同感だな。まあ、色々あったんだ」
「――よくわからんが、説明は後で聞こう」
「すまんな」
勾陳が微笑して頷く。白虎は苦笑して、草むらに寝かせられたままの中宮へ目をやった。
「お前たちが半日も帰ってこないから晴明は心配していたぞ。大内裏では中宮が神隠しにあったと大騒ぎになっているしな。今は陰陽師と僧侶が総出で帰還のための祭祀を執り行っている」
「では早めに送り届けねば」
「その通り」
片目を瞑り、白虎は先程よりも優しく嵐を起こし始めた。
◆◆◆
竜巻の中、紅蓮は昌浩をかき抱いていた。木霊の呪詛をはねのける一助にならないかとずっと神気を燃やしているのだが、それに関係なく、竜巻の高度が上がるにつれて次第に呪詛は弱まっていった。木は土に根を張る――地上から離れ、木霊の手の及ばない領域に移動したためだろう。触手の形をした呪詛が枯れ落ち竜巻に吹き散らされていく。だんだんと昌浩の頬に赤みが戻っていくのを確認し、ようやく紅蓮はほっと息をついた。
ひとまずは窮地を脱したらしい。が、予断はできなかった。再び地上に降りるとき、おそらく木霊は再度呪詛をしかけてくるに違いない。草木はどこにでもある。それは晴明の住まう安部の屋敷といえど例外ではなかった。結界で外界と隔てられていても、内にある森が昌浩に呪詛をかける可能性は十二分にある。
昌浩を抱きながら、勢いで飛び出してしまったことを紅蓮はほんの少し後悔した。晴明は天命を削られ命の危機にあるというのに、頼れる者といったら彼しかいなかったのだ。きっと幾人かの同胞は、最近式になったばかりのこの幼い天狐を見捨てろというだろう――主の命を脅かしてまで救うべき存在ではないとして。紅蓮とて、昌浩にここまで関わらなければ同じように思ったに違いない。
しかし、紅蓮は関わってしまった。
彼に庇われ、守られ、害され、信頼を受けた。――好意を、受けた。
無視しようとして、できなかった。
守るべき晴明を捨てかけているとなじられても仕方のないことをしている。けれども理屈をかなぐり捨てて心に従った結果がこれだった。土壇場では己の心に正直であれと、晴明は神将たちにすら説いていたから――紅蓮は晴明の言葉に従ったまでだと言い訳できるかもしれない。
もちろん、するつもりはないが。
本当は、晴明の言葉など関係ない。全ては己の心の中にある。
昌浩は紅蓮の手を握ってくれた。笑いかけてくれた。礼を言ってくれた。好きだとも、言ってくれた。紅蓮を殺しかけて怯え、人を殺して怯え、実の兄から皆を守ろうと盾になった。死の間際まで紅蓮を信じて、凌壽を討つ賭に勝った。
助ける理由など、それでもう十分だろう。
竜巻がぐんと高度を下げた。いつの間にか都に入っていたのだ。眼下には見慣れた安部の屋敷が薄明かりに浮き上がっている。庭に佇む同胞と一緒に主の姿を見つけ、紅蓮は胸を撫で下ろした。
みるみるうちに地表が近づいていく。巻き起こる青嵐にもふらつかず、狩衣姿の晴明は庭に描かれている魔法陣の前で式神を待っていた。竜巻が消えるのを待たず、紅蓮は空中から飛び出した。
「晴明! 昌浩が……」
「話は聞いておる。早く中に、」
晴明が指したのは、その片手に持つ独鈷杵で描かれたとおぼしき魔法陣だった。中心には晴明がよく使用する五芒星が描かれ、その周りを円陣が囲んでいる。さらにその外側には方陣が描かれ、辺にはそれぞれ天眼石、翡翠、柘榴石、黄鉄鋼が置かれていた。
魔法陣の中に足を踏み入れ、横抱きにしていた昌浩を下ろす。晴明も続けて陣の中に入ると、険しい顔で赤く染まった昌浩の首元を改めた。包帯を外すと、血で汚れてはいるが破れていない傷が顔を見せる。晴明はじっと深淵を覗き込むようにその古傷を見ていたが、やがて複雑な顔で紅蓮を見上げた。
「不幸中の幸いというべきなのだろうな。本人は本意ではなかろうが、」
「……晴明、なんの話だ」
「お前、彼から吸われたじゃろう」
“何を”とは問い返せず言葉に詰まって、紅蓮は無言のまま晴明を見やった。
「彼の中には吸気の術で取り込んだ、凌壽の穢れた妖気が巣くっていた。妖気は凌壽本体が近づくと反応し、彼の中で暴れて傷を食い破る。同時に霊力自体も低下させる。霊力が低下すると押さえ込んでいた木霊の呪詛が発動する。……彼が生まれてからこれまで喰らった無数の命を、木々が取り戻そうとしてな。
だが彼は、お前から神気を取り込んだ。その神気が凌壽の妖気と拮抗して彼の命を救っている」
紅蓮は意表を突かれたような、呆けた顔になった。晴明が優しく笑う。
「取り込んだ量は妖気の方が多い。じゃがお前が側についておれば神気が高まって妖気は暴れんじゃろう。あとは彼が霊力と体力を回復しさえすればよい。その間、木霊の呪詛はなんとかせねばならぬがな」
「晴明――お前、何故そこまで」
「知っているのか、か? ……本人から聞いていたからじゃよ」
片膝を突いていた晴明は懐から握り拳大の水晶を取り出した。昌浩の天珠を握っていないもう片方の手に押し込めると、両手を胸の上にそっと安置する。立ち上がると、老陰陽師は一転して険しい顔になった。
方陣の外側では地面から這いだした半透明の蔦がうねうねと蠢いている。障壁に阻まれて結界内には入っていないが、いつ破られるかはわからない。
「彼をお前たちの異界に移す」
「何?」
「この地より消えれば木霊も手出しはできんじゃろう。異界に移す前に陣の中でもう少し休ませたかったが、そうもいかないようじゃ。紅蓮、お前はこの方の側から離れるな」
紅蓮は不意にこみ上げた不安感に突き動かされ、唇を開いた。
「晴明、だが、もし凌壽が――」
「同胞たちを信じてやりなさい。……それにな、紅蓮や」
晴明は目元を和ませると、紅蓮の罅割れた金冠に指をやった。小さく唱えられる呪によって罅は急速に修復されていく。緩みかけた戒めを直すと、晴明は幼子にするように紅蓮の頭を軽く撫でた。
「わしもお前と同じで、この方を死なせたくはないのだよ」
「……晴明?」
「行け。わしのことは気にするでない」
紅蓮は僅かに逡巡したが、頷いた。
昌浩は魔法陣の影響か、安らかに呼吸を続けている。眠り続ける彼を再び抱き上げ、紅蓮は異界へと飛んだ。